エゴイストのレビュー・感想・評価
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愛あるところに優しさは生まれる
ただ同性愛を扱った作品ではなく、「愛」の形を描いた作品。純粋な愛ゆえに生まれる悲しみや葛藤、個々に抱える欲望が描かれている。
本作での「愛」は、
龍太(宮沢氷魚)と母(阿川佐和子)
浩輔(鈴木李)と亡き母(中村優子)
浩輔と龍太
浩輔の父(柄本明)と母
そして、浩輔と龍太の母との間に存在するものである。
これらの愛は似ている様で少しづつ異なっており、親子愛や夫婦愛、同性愛だからの一言で片付けられるものではない。そこにあるのは純粋な美しさを持つ「愛」である。
ただ、一部の生々しい濡れ場は、好みの分かれどころである。
愛とは何か考えさせられた
同性愛について少しでも理解を深めたいため映画を見に行ったが、終盤で泣いてしまった。
愛情は相手のことを思うのであれば、なんでもやって良いのか、それをやっているのはただの寂しさの穴埋めじゃないのか、それとも社会が世間が、追いついていないせいなのか、そんな愛情表現は本当に相手にとって嬉しいと思って受け取ってもらえているのか、色々考えさせられた。
同性愛の人はもしかすると幼少期に辛い思いをした経験や、今も社会としてはマイノリティの立場に立っていると思う。
その中で、愛を模索している様が描かれており、非常に同性愛について理解が深まった。これがただの男女の恋愛だと薄っぺらい恋愛映画になるが、キャストのおかげもあってか非常によかった。
真面目そうな映画に見えて、鈴木亮平の歌のシーンや、少しクスッと笑えるような飲み会のシーンなどがあり、最初の方はあまり飽きずに観れた。ただ濡れ場シーンは過激。
そして、映画を見終わった後どうしても不明点が多かったため、原作を購入し分かった部分がいくつもあり、映画内での伝え方が少しだけ残念だった。
暖かい気持ちに
LGBTQ映画ではない。
たまたま出会った人と恋に落ちるなんて、よくある話で、でもだんだんと主人公の薄ら暗さが見えてくる。
彼の愛は他人から見たら歪んでいて、エゴで、真っ当に見えないでしょう。
でも真っ当なんて誰が決めたわけでもない。
彼が大切に思う人達にして来たことが、彼の、そしてそれを受け取った2人の何よりも愛だと思った。
主演の鈴木亮平と宮沢氷魚をはじめとする全ての演者さんの演技の細やかさ、口調から仕草や表情の細部までとても丁寧で原作者や彼に関わってきた人たちへの礼儀を感じるところも大変素晴らしかった。
濡れ場の描写も大変丁寧に描かれており驚いたが、この驚いた自分こそ一種の偏見で、解ってる当事者になってるつもりでわかってなかったと気付かされた。
そこが当たり前なのは前提で、その先の人の付き合い方や、人生の向き合い方などを難しく懸命に生きるヒューマンドラマであった。
だからLGBTQなどと括りにとらわれた作品ではない。
リアリティーと想像力
ゲイ界隈からの鳴り物入りのサポートにより、人物の所作や仲間との交流やセックスシーンのリアリティーは、従前のレベルをはるかに超えている。でもそれが本作のテーマである愛と献身を描くこととは少し平行線だったようにも感じた。
映画ならではのインテリアや肉体の表現は原作に比べると少し過剰。浩輔のメゾネット型ペントハウスは盛り過ぎだし、登場するゲイは所謂プロの人達。それらのリアリティーも厳しく言えば若干オールドファッション。だけど大画面で白昼堂々と一流の俳優によるゲイの日常を垣間見れるようになったことは成果の一つ。前半部の盛り気味で華やかな構成は後半との対比で十分効果的だった。音楽のセレクションと、盛り上がり部での無音の効果、そして勿論、俳優陣の演技が素晴らしかった。
賛否の分かれる後半部について、これが男女の夫婦の親ならあまり違和感は無いのだろう。この物語の面白いところは、LGBTなんて今や当たり前ですよというリベラル派の人々や当事者に対してすら、相方肉親の看護や看取りという題材の呈示により、制度と因習の思わぬ呪縛に気付かせる点にある。お金も絡む浩輔の一方的な、ある面で見返りを求めない愛はエゴイスティックかもしれないがまごうこと無き愛であり、それによって救われる他者との関係を示していた。様々な愛と献身の形があり、その尊い情景の一端を見せてくれたことも本作の成果。
時節柄LGBTの議論が喧しいが、少し身近なところから各人が想像力を働かせることによって見出せる糸口もあるのではと思う。病院で患者との関係を問われた際の「世話をしている者です」という浩輔の返答は、従来の紋切り型の拒絶をかわしていた。お互いが少し踏み留まって多様性に対する想像力を働かせることができたら、もう少し風通しの良い世界が広がるのではないかとも思う。
エゴイズムは愛に昇華させうるということ
利己的な行動であれ、愛にまで昇華することができる。
人は孤独ではなく、愛する人を作り、家族ですら作ることができうる。
そういう学びがあった。
同時に、これは生活に余裕のある人間にしかできない芸当かもしれないとも思った。
つまり、金銭的・精神的・肉体的な余裕がないと、他人を包摂したり、ましてや人に何かを与えることによってエゴをこの映画のような形で昇華できないのではないかと思った。
その問いに100%答える映画ではなかった気はする。
私はいま日々生きることに追われ、そのような余裕を作り出せていないので、今の状態ではリュウタのポジションで留まるだろう。
つまり、人から与えられるままに生き、お返しのできないうちに死んでいくということだ。
それでも、生きて人と関わる中でその先に何を指向するかによって、人に何かを与えたりそれによりエゴを昇華させ愛に転じさせることが"もしかしたらできるかもしれない"という気持ちにさせてくれた。
ただ、想いはあくまでその瞬間瞬間のエゴであり、エゴのポジティブな昇華は偶然の結果に過ぎず、想いの先にある見返りを期待するものではないと思う。
"エゴの出し方を磨きなさい"という示唆とでも言おうか。
映画からの帰り道、雑踏の中で私が人々を眺める視線は確実に映画を見る前とは変わっていた。そんな余韻があった。
良作でした
前回いただいたさほど好みではないお菓子をやっと食べ終わった頃に、また同じものをくれ、今度はそれがまだ食べきっていないうちに、また同じものをくれるというジレンマはエゴイストにより生じられる。
ふたつの喪失を取り戻す物語
●公式サイトからあらすじ
14 歳で⺟を失い、⽥舎町でゲイである⾃分を隠して鬱屈とした思春期を過ごした浩輔。今は東京の出版社でファッション誌の編集者として働き、仕事が終われば気の置けない友人たちと気ままな時間を過ごしている。そんな彼が出会ったのは、シングルマザーである⺟を⽀えながら暮らす、パーソナルトレーナーの龍太。
自分を守る鎧のようにハイブランドの服に身を包み、気ままながらもどこか虚勢を張って生きている浩輔と、最初は戸惑いながらも浩輔から差し伸べられた救いの手をとった、自分の美しさに無頓着で健気な龍太。惹かれ合った2人は、時に龍太の⺟も交えながら満ち⾜りた時間を重ねていく。亡き⺟への想いを抱えた浩輔にとって、⺟に寄り添う龍太をサポートし、愛し合う時間は幸せなものだった。しかし彼らの前に突然、思いもよらない運命が押し寄せる――。
***
作品の冒頭、母の命日に、故郷に帰った浩輔が幼年期に自分を「オカマ」と罵った、今も地元で暮らしているらしい、よれよれの作業着を着たいじめっ子と横断歩道ですれ違う。
浩輔は、当時のいじめっ子たちを「豚」と呼ぶ。そして、大人になったいま、自らが着る高級ブランドの洋服を「鎧」と称し、無理解の敵から、自分を守ってくれるものだと心の中で呟く。
他方、偏見に満ちた田舎から都会へ飛び出し、同好の士に囲まれ、一定の理解が進むファッション業界で高い収入を得てもなお、浩輔にはどこか隙がなく、幾重もの「鎧」を身に纏っているようにも見受けられる。
鈴木亮平演じる浩輔は少年期にすでに同性愛性向があることを自認したようだ。そして、時同じくして、母を喪う。この多感な時期に、愛することと、愛されることの両方が、身のまわりにある多くのケースと異なっているという自覚が、後のかれに重い「鎧」を着せることになる。
ドキュメンタリー映画のように寄りが多用されたカメラワークが何度も捉えるのは、浩輔が鼻で強く息をする瞬間だ。ため息のような、深呼吸のような、忘れていた呼吸を思い出したかのような、あるいはどこか不浄な白い粉を勢いよく吸い込むときのような刹那、かれはふと鎧を脱ぐ。
表題の「エゴイスト」には、自分本位、利己という意味が充てられる。長い行列をなす人気店に我先にと割り込むその人は文字通りエゴイストである。
では、視力を失った人が星空を見たいと願うことはエゴなのだろうか?幼いころに愛すること、愛されること両方を喪った人が、時を経て、鎧を脱いでも良いと思えるパートナーやその母親と出会い、かれなりの不器用な方法で埋めようとする、どこまでも利他的な情動はエゴなのだろうか。狭いキッチンで阿川佐和子演じる母と、「わがまま」という言葉が飛び交う押し引きの場面は特に象徴的である。
エゴイストの意味
私は境遇が似ているもので、非常に心に響く良い作品でした。
最初は主人公のオネエの演技に非常に違和感を感じましたが、他の作品よりはリアリティがあるかと思います。
中盤の山場、阿川さんとのやりとりは人事では無い共感を覚え、涙が止まりませんでした。
後半〜最後のシーンでタイトルの主題の意味が自分なりに理解でき、そういう事か。と。
エゴイストという武装をしていた主人公が最後に人から求められる事で心境に変化が起きる…
それを描写する鈴木亮平さんの演技、素晴らしかったです。
愛なのか
トイレのピエタが(昔すぎてほぼ記憶ないけど)よかった印象の松永大司監督作品。今作は鈴木亮平と宮沢氷魚のゲイカップル役が話題なのか、TOHOシネマズ日比谷は女性観客8割。
関係継続のため鈴木が宮沢へ生活費を渡すことが単なる援交に見えなくもなく、宮沢の死後も母の面倒をみつづけることで、愛の証として成り立たせているように思え、阿川佐和子が死んだら戒名つけて墓も立てるの?とか、どこまでエゴイズムを貫くのか気になった。
話は淡々と進行し、人物に寄った手持ちのカメラもあってドキュメンタリーっぽいのだが、宮沢と一緒の時とは違って鈴木が飲み仲間とはオネエっぽくしゃべるのが違和感。リアルにこういう感じってあるのか?ノンケの自分にはよくわからず、もやもやした。
タイトルの意味を今でも考えています。
鈴木亮平さんが主演の時点で、BLでキャスティングされるタイプでないと感じた。
BLではくくれない、家族の物語。
この前に「ちひろさん」を観て、この後「美しい彼 スペシャルエディットバージョン」を観るチョイス、どうなの自分と突っ込んだ。
浩輔と龍太の恋愛関係は、かなりがっつりなベッドシーンも含めてきれいだなと感じた。
若いサラリーマンが毎月20万渡すって大変なこと、お互いに真摯に想いあっていて、このまま幸せになって欲しいなと願った。
龍太の家族の状況は、なんらかのサポートが必要なレベル。
最初の分岐点は龍太の母親が離婚する時、次は龍太が高校を中退する時。
どちらも、公のサポートを受けるように動けば、違う結末もあったはず。
しんどい時は、助けを求めていい。
そして、元気になったら、今度は困っている人を助けてあげればいいのだ。
エゴイストってタイトルが、内容にそぐわなくて考え込んだ。
浩輔が自分の生活スタイルそのまま、無理せずできる範囲のサポートしかしなくて、龍太を喪ってしまったことを言っているのかな。
例えば、浩輔が40代後半で、愛する人を喪失する体験をしていたら、龍太へのサポートの仕方は変わっただろう。
問題ありありの龍太の環境を放置せず、様々なサポートを利用して、一から構築しなおしていたかもしれない。
もともと、龍太が病弱で、早逝した可能性は否定できないけれど、できることをすべてしていたら、後悔はしなかっただろう。
でも、人間、その時考えられる範囲で最善の選択をして、失敗して初めて学ぶ。
それは、エゴイストとは呼ばない気がするんだよなあ。
こんなふうに観た後も色々考えるのは、楽しいものです。
意外な結末でしたね。 途中の歌唱シーンかなり笑いそうになるのを我慢...
何回か見たい
演技と演出がマッチしてるのか
エゴイスト
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