「自分をエゴイストと思っている人は決してエゴイストではない」エゴイスト トールさんの映画レビュー(感想・評価)
自分をエゴイストと思っている人は決してエゴイストではない
物語は単純なのに心揺さぶられる圧倒的な展開に思わず涙してしまいました。
以下は、エゴイストのタイトルについての一つの解釈です。
まず結論。利己(我欲)を顧みない全き利他(愛)などありえない。だから、普通それをエゴとは呼ばない。それなのに自らのエゴ(だと思っているもの)を責め続ける浩輔の真摯で痛々しい姿に観るものは心動かし、我々に愛につての観念を揺るがして深い感動を生む。
エゴイストとは誰なのか。まず、思いつくのは、主人公浩輔のエゴ、龍太を引き留めたが故に、結果として無理をさせて彼を死へと追いやってしまったことや、果たせなかった母への償いとしての龍太の母妙子への援助も、自分勝手な思いの押し付けと言えないことはない
しかし、観客にはその思いはあまり共感されないし、映画はそのようには描かれていないと思う。
実際、龍太は浩輔と短くても、これまでになかった幸せな日々を過ごしたのであり、妙子も浩輔によって、(龍太の遺品を処分出来る迄)息子の死を克服出来たかのように見える。
ただひとり物語の中で自分のエゴを一番意識しているのは一人称で語られる浩輔本人なのだ。 だからエゴイストは客観的なものではなく、浩輔の内面にある主観的なものとなる。
劇中何度も浩輔は、 ごめんなさい と謝罪する。
そして亡き母親にストレートに生まれてこなかった事を(龍太が母親に自分がゲイである事を悟られた時と同様に)常に詫びている。
周囲に合わせる事も出来ず、愛する人達からの期待にもこたえられない、その責めは全て自分がゲイであることに帰する。ゲイである自分は自分勝手なエゴイストだという思い。しかし、自分は変えられない。ブランド物の服を鎧と称して自嘲的に強がる姿は、自分をしてさらにその思いを強くさせる。 その悲しみ。
冷静に自分の内面を見つめながらも、浩輔の屈折した思い込みこそがエゴイストでした。
でも作者(或いは監督)の意図は、それを否定することにあった。
今回すでに故人である原作者高山真氏のブログを読んでみた。
お姉言葉の独特の感性で軽快にしかも鋭く日常を語る中に、自己愛についての言及があった。
作者は自己愛に溺れる自分を卑しいと軽蔑しながらも、それをいとおしむ感性を持ち合わせた真摯で内省の人だった。
物語は後半、浩輔は自分の母を妙子に重ね合わせ世話をすることで亡き母への償いをする。
だが、その後ろめたさを感じているからこそ、浩輔は他人から息子かと尋ねられても否定し続けるのだが、最後の最後で妙子に、 えぇ自慢の息子です と答えてもらえる。
この瞬間、浩輔は救われエゴイストではなくなり、物語は終わる。
(2/26 一部加筆しました)