「いち当事者として」エゴイスト すみのふさんの映画レビュー(感想・評価)
いち当事者として
最近界隈で話題だったし、ドリアン・ロロブリジーダさんが出演することもあって鑑賞。
劇場は9割方女性客ばかりで、逆に浮いてるくらいの状況だった。
ゲイの立場から言えば、本当にリアルというか、日常というか。
子どもも持てない、結婚もできない、
身体の関係とお金の関係が中心だからこそ、
心のどこかで諦めてるし、心のどこかで縋ろうともしてる。
実家との繋がりもどこかギクシャクしたままで、縁談の話になると、仕事が忙しいだの言ってはぐらかすところなんて、自分を見ているかのようだった。
気持ちを繋ぎ止める方法が、お金とかお土産っていう即物的なものになりがちだったり、
体の関係が恋愛に先立ちやすかったり、
「愛がわからないんです。」って台詞は、多くの当事者にとって共感できるものなんだと思う。
エゴイストってタイトルがこんなにも腑に落ちるのはやっぱりいい映画だったからだろう。
見終わった直後は、「愛とは」という命題の答えが与えられたような気がして暖かい気持ちにもなったけれど、色々考えていくとまた違った感情にもなる。
一人称の視点だし、主人公の浩輔のエゴが最終的に「受け取る側が愛だと思えばそれは愛である」という答えに辿り着く物語であることは疑いない。
一方で、恋人の龍太もやっぱりエゴイストで、受け取れないとは言うものの、やっぱり浩輔の資金援助を当てにしていたわけだし、一見過労と思わせる死因だって、本当のところはわからない。もしかしたら病気を隠していたかもしれないし、そういう意味では自分の死期にも気づいていたんじゃないだろうか。母親に浩輔を紹介したのだって、パートナーという事を隠していたわけで、そうなると「何のための紹介なの?」と思えて、自分の死後、母親を助けて欲しいっていう願望が透けているようにも感じる。目論見通り浩輔は母親に資金援助するわけだし。
そして、龍太の母妙子。この人もまごうことなきエゴイストだと思う。本人に全く悪気はないけれども、自分の息子と恋人という2人の青年の人生を搾取し続けた。浩輔にとっては救いであり、自分の行動を肯定してくれる愛に溢れた人物なのは間違いない。でもその一方で嫌な言い方をすれば、他者の善意を当てにして自らの生活を成り立たせてしまう人。病弱で、という設定はあるものの、公的支援するなり、大人としてすべきことを放棄してしまった人に感じる。でもそれは龍太も浩輔も自ら進んで行なっているわけで、それを受け入れるのだって当事者が納得してるんなら周りがとやかく言うことじゃない。それこそゲイバーでの友人の反応のとおり。
登場人物全員がエゴイストで、決して誰かが悪いわけじゃない。各々のエゴが生々しく描かれていくのね。と。
モデルになった人々はもしかしたらもっと純粋なのかもしれない。でも確かに「自伝的小説」ではあるけれど、「自伝」ではないからこそ実在の人物とは切り離して考えるべきなんでしょうね。
それに、作中に現れるチャイコフスキーの悲愴。チャイコフスキー自身も同性愛者という噂もあったこともあり、観終わった今考えるとこの交響曲と構造が一緒なのかも、とも思い始めた。
ともかく、こうやって見終わった後も色々と考えたり気づいたりすることが多く、それだけ「良い映画」だった。