エゴイストのレビュー・感想・評価
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人と出会うことの豊かさ
一面の青いシーツと白い背中のビジュアルが印象的な本作。全く身構えていなかったというと嘘になる。けれども、実際に観てみると、セクシャルな話というよりも、大切な人と出会うことがもたらすもの、がじっくりと描かれている物語、という印象が強く残った。
華やかなマスコミ業界で働く浩輔は、ファッショナブルな服を鎧にして淡々と生きてきた。そんな彼が駆け出しパーソナルトレーナーの龍太と出会い、強く惹かれていく。
クールに仕事をこなし、夜はオネエ言葉で賑やかに仲間と過ごす。それなりに満たされていたはずが、龍太との出会いで、やり過ごしていた日常がみるみる彩られていく。大切な人に会って、共に過ごす喜び。見送る寂しさと、別れてからの余韻。一人のときは相手を想い、冷静さのみじんもなく心を浮き立たせる。しかし、そんな日々が、突然断ち切られてしまう。
龍太を核として、龍太の母と浩輔が、心を通わせていくくだりに、しみじみと胸を打たれた。共通の大切な人を持つ同士が、ためらいながらも少しずつ距離を縮めていく。喪失は埋められないが、全くの他人だったはずのふたりの間に、恋人同士とはまた違う、陽だまりのようなあたたかさが生まれたのだ。
日々のありふれた時間を、誰かとささやかに営む喜びに気づいていく浩輔。寄り付かずにいた故郷に、鎧なしで帰るという変化ももたらされる。やっとたどり着いた、父と息子の穏やかな時間も忘れ難い。
浩輔は、龍太親子に金銭を交わすことを提案する。それが「エゴイスト」の由来なのかもしれない。けれどもそれは、関係を繋ぎ止めるためのものではなく、望むならば去ることもできるという、対等な関係を保証するものと思われた。家族であれば、金銭的な支えも特別なことではない。法的に家族となれない彼らの、悲痛な思いも垣間見えた。
高価な贈りものといった特別な理由なしで、ごく当たり前に誰かと時を過ごせる豊かさ。新たな喪失が予感されるが、彼の心は、揺らぎながらもきっと穏やかだ。窓辺に繰り返し飾られる、小さな花束のように。
お金を渡す主人公
今年(2023年)屈指の邦画だと思う。そこにあると感じられるリアリティが全編に渡って息づいていて、主題にとってそのリアルさは絶対に欠かせないものだった。そこに「この程度の描写でいいだろう」というような妥協がない。鈴木亮平がこれまでも素晴らしい芝居を披露してきたが、本作は今までのどの作品よりも素晴らしいパフォーマンスだった。驚くべき達成だ。
主人公は、対人関係の維持のためにお金を渡す。宮沢氷魚演じる龍太との関係を作る時も、龍太の母と関係を作る時も。人は金で買えるなどと思っているわけではないだろうが、お金を挟まないと人との関係を進めることができないとどこかで感じてるのかもしれない。そのアンビバレントな感情が僕にはとても共感できた。この映画は、性愛とお金をきれいごとで切り離していなかった。
性愛描写のリアルさもこれまで見てきた映画を超えていた。役者はだれもが素晴らしかった。感動した。
みんなエゴイスト
よかった点
・鈴木亮平の演技がリアル。普段はノンケとして生きてるけど、ゲイぽさが少し漏れてしまうバランスとかすごい。
・BLみたいな雰囲気が出ず、ちゃんとゲイを描いているのに共感。同性愛の話としてでなくても、ストーリーはよいと思う(ただ、男女のカップルの話だったら映画化はされないと思うけど)
・タイトルとストーリーがあってる
うーんと思った点
・会ってすぐ体の関係になるのはよいのだが、その前にどっちがタチでウケかみたいな話もないし、いきなり入れて、また入れられて、ゲイの性描写がリアルでなく、急にファンタジー(BLの世界)みたいになったのが残念。
・ウリをやってるのにあんな純粋な子が本当にいるのか、これもまたファンタジー要素が強い。
・そして龍太が突然死をしたのがあまりに急で。確かに疲れてお弁当食べながら寝てたけど、過労死ということだよね。なぜそこまでして働く必要があるのか、そんなに働いていたのか、伝わってなかった。
・浩輔の友達(2丁目の飲み友達)は、リアルなゲイの方々と見受けたが、なんか浩輔とバランスが合っていなくて、飲み友達感がでてなかった。
話としてはとても良かった。
好きな人を夜の世界から連れ出したくてお金を渡したり、
受け取りながらも頑張って働きすぎたり、
病気になっても言えなかったり、
いろんなエゴが絡まるのが、リアルでよかった。
というわけで、上記から星3にしました。
エゴイストの本当の意味とは
ゲイのドロドロした展開を予想していたが、全く違う内容で、途中から、あぁ~、そっちへ行くのかと思いながら観ていた。
龍太の家庭は、父親が愛人を作って家出をしたため、一人息子の龍太が高校中退して家計を支える母子家庭。
母親が家計を支えて母子家庭で生きていくほど身体が強くないため、同じようにあまり身体が強くないが、高校中退して息子の龍太の方が働く事になった。
しかし、学歴のない龍太の就職先は、母子2人を支えていくほどの給料をもらえる仕事などそうは見つからない。
ゲイである龍太は、重労働ではなく、短時間で高額な収入を得られる「売り専」の仕事を、自分の美しい肉体を生かし、メインの裏仕事にし、表向きはジムのパ━ソナルトレ━ナ━として働いている。
ジムトレ━ナ━というと、本人も仕事の戦略も含めてマッチョというイメージがあるが、龍太は色白の美青年で、むしろゲイバーで働いている方が似つかわしく、なぜジムトレ━ナ━の仕事を選んだのかは映画の中では説明されていない。
そこにまず、実際のゲイの世界との違和感を感じる。
鈴木亮平演じる浩輔は、やはりゲイ設定だが、見た目は普通の男で、周りのゲイをオデ━ィションで選んだ素人のゲイで固めたため、ゲイとしての違和感はないが、やはり演技は稚拙。
その中にいると、鈴木亮平がゲイではないため、その演技にはやはり作り物感があるのは否めない。
宮沢氷魚とのセックスシ━ンは、外国ものの臨場感には及ばないものの、とりあえず合格点というところ。
さて、ゲイとしての本物感という事が、この映画の核でないことは言うまでもない。
この映画のスト━リーを、敢えて同性愛の世界に設定したのは何故なのか。異性愛の話にした方が、より演技も自然に出来たのではないかと見終わってから思い、ゲイ設定は、話題作りのためであり、異性愛者の役者がどこまでゲイを本物らしく演じられるのかという興味を、映画を観る際の集客ポイントとして設定したのかとも思った。
鈴木亮平がゲイだったらいいのにと思うファン層からは、ゲイ演技を期待する向きもあっただろうが、そこは多分期待外れだったろう。
だが、この映画の見どころはそこにはない。だからこそ、主人公のゲイ設定は必要がないような気がした。
ただ、原作は実話に基づいて書かれたという事なので、それを踏襲しただけなのかもしれない。
日本の俳優でゲイのカミングアウトをしている俳優は殆どいなくて、しかも演技が優れている事が必要とされるこの手の映画では、やはりヘテロの俳優から選ぶ以外に選択肢はなかったのだろう。
さて、前置きの感想はこのくらいにして、映画の本題に対するコメントを書こう。
この映画の本題である「エゴイスト」とは何なのか?
エゴイストという言葉のイメージから、相当のワルの主人公を想像して、実際にそういう展開になるのだろうと期待していた。
映画は、基本的にエンタ━テインメント。
面白い事が大前提。
そこからすると、この映画は随分真面目で奥が深い、エゴイスト、あるいはエゴとは何かを突き詰めて考えさせられる映画だったと思う。
出会いの場面は、ゲイによくあるパターン。
ジムで体を鍛えて、ゲイにモテる体作りが目的だ。ナルシストの自惚れも入っている。鏡を覗いては、自分の筋肉質の男らしい体に惚れ惚れする。そしてそれが男にモテる条件の1つになり得る。
かくして、浩輔と龍太はジムという、肉体嗜好のゲイが集まる所で必然的な出会いを果たす。
互いに好きになるには、どっちもタイプ同士であれは簡単な事だ。
これは、異性愛でも同じ事。
ゲイの世界だけが、男ならノンケでもゲイでも誰でも狙うということはない。
相手の好みのタイプにうるさいかどうかは、性的指向には全く関係なく、その人の価値観と人間性に基づいている。
外側の見た目に価値をおく人ほど、いわゆるタイプにうるさくなる。
自分のことは棚に上げても(笑)
閑話休題
この映画のエゴイストとは。
家庭の不幸な事情を抱えて、母親を助けながら、家計を支えている龍太の裏の仕事が「売り専」だった事が、2人が愛し合う事を難しくして行く。
龍太の家庭がいかに貧しくても、浩輔が富裕層なら、龍太と母親の生活費も含めて面倒を見る愛人にすれば何の問題もなく、話はすぐに決着する。
世の中によくある話で、敢えて映画にする必要もない。
龍太の方は、浩輔に会うまでは、生活費を稼ぐためと割り切って出来ていた「売り専」の仕事が、浩輔に対する恋愛感情のために、罪悪感を感じるようになり、上手く行かなくなる。
それは、生きて行くのに最低限必要な収入の道を絶たれることで、そこで恋愛感情を最優先させることは、自分と母親の生活が破綻することを意味する。
当然ながら、母親と自分の生活を犠牲にしてまで浩輔とつき合うのは、現実問題として不可能だ。
自分が「売り専」をしていることを知られないで別れるために、理由を言わずに龍太は浩輔に突然の別れを切り出す。
訳が分からない浩輔にしてみれば、理由も明かさずに別れることには納得が行かない。
母親への毎回の手土産を受け取る浩輔の好意が負担になったのか、と問いただす浩輔に龍太は、遂に本当の理由を吐き出すようにして浩輔に言い渡す。
単なるタイプでくっついているだけの相手なら、相手が売春で儲けようが、病気さえもらわぬようにしてくれれば構わないという人もいるだろう。
だが、恋愛感情を双方が持っている場合は、当然こういう帰結になる。
龍太にしてみれば、別れて元の生活に戻らなければ、自分と母親の人生は破綻する自滅への道へと進むしかない。
一方、浩輔の方は恋愛感情を持ってつき合っている相手が、愛のない相手とセックスをすることには耐えられないだろう。
それが、単にお金が欲しいからという理由だけで龍太が「売り専」をやっているなら、俺とつき合い続けたいなら売り専なんか辞めろとたしなめる事も出来るだろうが、身体が弱く、学歴もないために生活を維持するためにやむを得なくしている仕事だとしたら、愛している相手として自分に出来ることはないかと考えるのは当然のことだ。
浩輔の方も、売れっ子モデルとは言え、龍太の母子家庭の生活を丸抱えして、なおかつ自分の生活も出来る程の富裕層ではない。
そのために出せる金は、1ヶ月に精一杯頑張っても10万円程度。
しかし、それだけでは、龍太が今売れ筋の「売り専」の売り子として稼いでいる金額には到底及ばない。
だが、龍太を自分のものだけにしておきたい浩輔は、何とか龍太に売り専を辞めてほしい。
それは、倫理観がどうのこうのという問題ではなく、あくまでも龍太を自分一人のものにしておきたいという、恋愛関係に陥った人なら誰でも持つ、ある意味エゴイスティックな感情だ。
そのために、自分に出来ることは、何でもする。この場合は1ヶ月に10万円の生活援助だ。だが、「売り専」の売り子は辞めるという条件付きだ。
もちろん、俺が10万円分お前を買うというのはたとえ話であり、浩輔には売り子として龍太を買う気など微塵もない。
但し、それ以上の援助は無理だから、足りない分は売り子以外の仕事を見つけて何とかしてほしいという条件付きだ。
龍太にしても、母親に言い出せないような仕事をしていることは、本当はやましい気持ちも持っている。
普通の社会人としての仕事をしているなら、たとえ、恋人の援助を受けながらでも、まともな仕事をしていると、母親に対して恥かしくない。安心させられると思ったのだろう。
しかし、そこには現実世界の厳しい罠が潜んでいた。生まれつき美しく生まれついた龍太は、残念な事に体は屈強ではなかった。
だから、体力と収入だけを問題にするなら、売り専の仕事は、まさに「適職」だったのだ。
浩輔と恋愛関係に陥ることがなければ。
恋愛が善か悪かという問題ではない。
恋愛にまつわる幸、不幸の問題はいつもあるが、恋愛をする事がその人の人生にとっていいことか、悪いことかという事は人それぞれであり、一概には言えない。
恋愛はしようと思って、必ずしも出来るものでもなく、知らず知らずに陥ってしまうものでもある。
恋愛を知らないものは、未だ人生の半分しか知らない、というフランスの格言があるが、それは確かにそうだろう。
しかし、一生恋愛に縁のない生活を送る人が不幸だとは言えない。
そこが恋愛の微妙なところだ。
恋は、やはりある種の病いなのかもしれない。
人を天国にも引き上げれば、次の瞬間に一気に地獄の底に突き落としたりもする、取り扱い注意の極めて危険なものだ。
浩輔からの援助と、社会人としての普通の仕事で、何とか2人の間は解決を迎えたように思えた。
しかし、浩輔から1ヶ月10万円の援助を受けても、以前の生活を続けるには昼夜働かなければならないほど、龍太の家の家計は貧しかった。
2人のデ━トの時間も少なくなった。
それでも、龍太は浩輔との約束を守り、売り専の仕事には戻らずに、昼夜問わずに安い時給の職場で働き続けた。
そういうところしか、高校中退した自分を雇ってくれるところはなかったからである。
過労は、確実に働くものの心と身体を蝕んで行く。
しかし、浩輔という恋人が龍太の心の支えとなった。
だが、身体の無理は、容赦なく龍太の身体を壊して行った。
浩輔が、何かもっといい仕事を紹介できる立場にあれば何とかなったのかもしれない。
しかし、そういうチャンスもなく、龍太は過労に過労を重ねて、遂に回復不能なほどに身体を壊し、あっけなく死んでしまった。
浩輔の龍太を自分のものだけにしておきたいと思ったエゴが、招いた結果と言ってもいいだろう。
もちろん、浩輔にしてみれば、こんな終わりを予想して提案した条件ではなかったが、愛し合う2人にとって、現実の恋愛はあまりに過酷なものであった。
ドラマをここまで観て、なぜ題名が「エゴイスト」なのかわかった。
浩輔が特別にエゴイスティックな人間だということではなく、恋愛というものが人を必然的にエゴイストにするということなのだ。
高橋真梨子の歌に「はがゆい唇」という歌がある。他人になら優しくできても、恋人に対してはエゴイストになる、と。
龍太が死んだ後、母親は息子の思い出を、浩輔は恋人の想い出をそれぞれの胸に抱いて、生きて行くのかと思っていたが、2時間ある上映時間がまだかなり残っている段階で、龍太の死が訪れたので、あとこれから何が始まるのだろうと訝しげに思っていたら、話は意外な方向に進み始めた。
日本に住むゲイに結婚制度は、2025年現在まだ適用されていない。
従って、パ━トナ━シップ制度さえ使っていない2人は、法律上は他人同士だ。
せいぜい、龍太の命日に墓参りをするくらいが精一杯の浩輔に出来る事だろう。
しかし、浩輔はここでも龍太の母親にお金を渡して、関係を繋ごうとする。
勿論、ゲイである浩輔が母親に恋愛感情を持ったからではない。
愛した人の母の窮状を見るに忍びないという、ある意味配偶者の亡くなったあとに、配偶者の親の心配をする者と同じである。
ゲイ同士で、法律上は他人でも一緒に暮らしたパ━トナ━の母親と、自分が思春期に亡くした母親への思いとが重なった部分もあるのだろう。
血のつながり、法的なつながりは、それぞれその特性が違う。
しかし、そのどちらがあっても心が通じ合わない、つまり愛がなければ他人より悪い関係にもなり得るし、このドラマのようにどちらもなくとも、そこに何らかの愛が生まれれば、そんなものより大切な存在になる人がいるという事が、この映画のメインテ━マではないだろうか。
龍太の母親を見舞いに来る度に、「息子さんですか?」と、同室の女性患者に問われる度に否定していた龍太の母が、最後は、「えぇ、私の自慢の息子です。」と言ったように、血のつながり、法律上のつながりばかりが親子ではない
心のつながりこそが、親子の証しだという何よりの証明ではないだろうか。
出会ったのだから最後まで
非典型な人間関係が、しかしながらその神髄を醸す。
特に後半の厚みが圧倒的だった。
タイトルからしてもっと傲慢な何かが描写されているのかと思うも
確かに放漫であるからこそ、ああも関係を深めることができたとして
(普通は最終的にどこかで遠慮してしまわないか)
あまりにもそこから受ける印象が違った。
引かない、出会ってしまったのだから最後まで付き合う。
実父との会話にきっかけがあったとして、
かなり特殊な展開ながら、不思議なほど違和感なく
そんなこともあるかもしれない、
思うほど見入る。
幸せがナンダ、とか、
尽くすとはドウイウコトカ、とか、
人間愛とは、とか
声高に見せつけるでもなく訴えるでもなく問うでもなく
しかしながら浮き彫りとさせるシナリオが印象に残る。
愛のカタチ
観ていてただ、ただ切ない。心臓が痛くなる。
作中でカッコいいなと思ったシーンが1箇所。浩輔のお父さんが言ったセリフで「嫌いになったら別れてやる。けど、そうじゃないなら二度とそんなこと言うな。」「だって、出会ってしまったんだ。仕方ないじゃないか。」自分もこんなお父さんのように愛と教養を持ち続けられる年の取り方をとりたいと思った。
愛とは何か
主人公の浩輔は大切な人たちを亡くしてばかりで、心中を察すると辛すぎます。声を殺して泣くか、大声で泣くしかないですね。物語は結構ダラダラ長く感じますが、鈴木亮平の演技で最後まで見ようという気にさせてもらえた。物語は同性愛者目線ですが、愛とは何か?を考えさせられた。浩輔には幸せを感じて生きていって欲しい。
ストーリーも演者も良い
BL映画だと思ったら家族愛の話だった
主演俳優2人が好きで鑑賞。BL系は苦手かつ以前話題になったBL映画は客層も微妙だったため、少しビクビクしながら劇場に行ったが、意外と高齢の方なども多く普通に鑑賞できた。
当初、浩輔を拒まずに金銭的にも恩恵を受ける龍太は何かしらの裏があるのか?と疑ってしまったが、実際はただの愛で、母親を支え自立し、恋人と対等になるために奮闘する龍太の姿を見て自分は何てひねくれたことを…と反省した。
恋人の母親を支えたいと思うのも愛、仕事が続いて精神的にも肉体的にもきついのに心配させたくなくて大丈夫だというのも愛、息子の恋人を家族のように思うのも愛。いろんな形の愛があって、それは与える側のエゴのように感じてしまうものもある。しかし、劇中で妙子が浩輔に放つ言葉で全てが救われたなと感じた。
どんな形でも誰かを大切に思うことは愛だし、それは第三者が否定できないものだなと確認できる。なんとなく長年の問いがスッと腑に落ちる形で消化できる映画だった。
体当たりの役
さまざまなエゴを描いた映画?
男らしい風貌の鈴木亮平、透明感ある健気な雰囲気の宮沢氷魚。
ネットの広告で表示されるBL電子書籍のカップルそのまんまな組み合わせで、リアリティありました。
リュウタと一緒にいるために…も含め、健気に母親を支えるリュウタを金銭的に支援して満足し、
リュウタの母親に亡くなった自分の母親を重ね合わせて関係性を築こうとするコウスケのエゴ
生活のためにコウスケの金銭的支援を受け入れるリュウタやリュウタの母親
相手を思いやっているようでそこに上下関係が生まれていたり
自己満足のために相手を利用していたり
後ろめたさがありながらも受け入れたり…
主な登場3人の関係性は歪な始まり方だったし、互いのエゴがあった。
でも、自分のエゴがなかったらこの関係も生まれなかった。
そのつながり方が本当に最善だったのかは分からないけど
、それでも愛があったと感じる映画でした。
※ネタバレすみません
リュウタが死んだ後に流れる、コウスケとリュウタの日常の様子。
物語自体は決してハッピーエンドではないですが、この人に出会えてよかったという多幸感に溢れていました。バッドエンドの作品には感じませんでした。
母がふたり。そして息子がふたり。
大切なひとの大切なひとは 大切なひとになるんだよね。
そのことを教えてくれる映画でした。
「エゴイスト」という言葉には実はトラウマがあって、
「エゴイスト」という邦題が、いったいどのような話の流れを総括するものなのか、
僕は少し身構えて、斜に構えて、この映画を観始めたのだけれど、
こうすけは自嘲気味に、自分の行いは「自己満足のエゴイスト」だと、自身思ったりもしていたのだろう。
母子家庭を支えるりゅうたに金を渡し、りゅうた亡きあとにはその母親の面倒を見、
自分の善行に酔っている、有ってはいけない、これはもう非常識で踏み外した行為なのだと。自分で自分にそう問いながら。
でもわかるよ、こうすけ。
僕も「きみって『ヒューマニスト』だ」と一生立ち上がれないほど傷付けられる「なじり」と「非難」を受けたことがあるんだ。
僕もきみと同じに、毎月他人にお金を渡していたからね。
だからこのレビューも、そんなきみに向けて書く「手紙」のようになってしまうんだな。
こうすけと りゅうたという、母想いのこの二人の男の子の出会いが、
「義理の息子と新しい母親の関係」をギフトとしてもたらせてくれた。
足りなかった“何か"を、埋めてなお余りある幸せを、
二つの家庭は与えられることが出来たのだ。
この世では認知されないLGBTとか、その家族同士の関係とか、
まるで天国の先駆けの姿が、あの貧しいアパートの一室に花ひらいたように思えた。
玄関の枯れたプランター。
切れた電球。
精進落としには箸がつけられなかったよね。
みんながいなくなったあとにタッパーで持たせてくれたおかずを取り出して温めて大切に味わう。
ブランドをまとい、スタイリッシュなこうすけだが、彼の心の家は、房総の田舎の和室の仏間。
実はお金の余裕がないから中古の軽しか買えない。
ナースステーションでは面会が許可されないかもしれなかった緊張の一瞬。
りゅうたの部屋を掃除する日曜日。
そして
泣き顔に眉を引いて、自分に気合を入れ直して病室に戻るこうすけよ。
小道具も、演出も一級品。
こうすけが我慢するぶん僕は泣いてしまった。
若い二人も素晴らしいアクターぶりだったが、遺された母親役の阿川佐和子が、こんなにも見事にこうすけと りゅうたの引き合わせ役を演じてくれていて、
言葉を失うほど感動した。
エゴイストが咽を詰まらせて絞り出すのだ ―
「愛するってどういうことかわからないんです」。
こうすけの新しい母はそれを受け取ってこうすけに答える
「受け取るほうがそう感じるならそれは愛なのよ」。
「嬉しいわ」。
「私はあなたが好きよ」。
エゴイストでもいいんだ、ってこうすけは言ってもらえたんだね。
肯定してもらえたんだ。
前半のハッピー、からの
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