「ウソかあ。」アートなんかいらない! Session1 惰性の王国 neoさんの映画レビュー(感想・評価)
ウソかあ。
「縄文」の監督とはじめ知らずに観ました。
「アートって?」ていうテーマ。
確かに特に日本人にとって不確かな、
その価値について共通の見解みたいなのが、
イマイチ得られていない、
そんなアートという領域について踏み込んでいきます。
「縄文」の土器のほうが、確かにわかりやすく、
びびっとくるものがありますよね?
造形も特殊だし(宇宙人的なのやつとか!)、
そこまでやるか!?的な装飾のやり過ぎ感とか。
絶対使いずらいだろ?っていう。笑
でも、弥生土器になっちゃうと、合理的すぎて。
なにか大切なモノを失っちゃったような。。。
縄文当時の人の豊かさ、感性の奥深さ、
みたいなのが、自然に、説明がなくとも
伝わってくる。。。
対して、今のアートは?
作中では愛知トリエンナーレの話題も出てくる。
何が正しいのか、ムリに答えをだす感じではなく、
そこに好感。
縄文もウソ。ただ、1万年も続いたウソ。
対して、その後3千年の
縄文に取って代わったウソはどうか?
そんな問いかけに、「なるほどーっ」て。
戦争に強ければ、文化もとってかわれる。
でも、ウソの価値?文化の価値みたいなのは?
縄文土器➡️弥生土器にとってかわったとき、
両者を見比べたときの喪失感?を思い出す。
アナロジー的に、縄文のような、アートの価値は?
そんな問いかけをしてみる。
でも、そこにアートの価値を見いだそうとしても、
うーん。と。微妙な感じに陥ってしまうのです。
イマイチこれだ!という、
均衡した点に落ち着けない。
狩猟採集生活を捨てたがゆえの、
合理性を価値基準とする
資本主義的な今の世界にあって、
戦争的な?経済的な「強さ」を求める
今の世界にあって。
絶対的な「生産性の向上」をよしとする、
そんな世界観、ある種の哲学の前では、
縄文的な、アート的なものは、
今の日本では、理解されづらいのかも。
私は装飾のしっかり入った革小物とか、
コーヒーを楽しむ時間とか、
そういうものに囲まれることで、
失ったものを取り返そうとしている。
今のウソのなかに、縄文的なウソのようなものを
めい想的な手法で見いだしてるのかも。
長くなってしまいましたが、2話目もみたい!
と思える、心地よい深さのあるテーマの作品でした!!