ホーム >
作品情報 >
映画「アートなんかいらない! Session1 惰性の王国」 アートなんかいらない! Session1 惰性の王国
劇場公開日:2022年8月20日
解説
「死なない子供、荒川修作」「縄文にハマる人々」の山岡信貴監督がアートの意義を探る旅を描いたドキュメンタリー。「Session1 惰性の王国」「Session2 46億年の孤独」とそれぞれ題された2部構成のうちの第1部。
「死なない子供、荒川修作」で難解な荒川の芸術に、「縄文にハマる人々」では謎深い縄文文化に深く接してきた結果、アート鑑賞に対して何も感じないという、自称「アート不感症」に陥ってしまっていた山岡監督。そこへ新型コロナウイルスのパンデミックが襲来し、芸術やエンタテインメントの意味を改めて問わざるを得なくなった社会の大きな変化が重なった。山岡監督は自分がなぜアートを素直に楽しむことができなくなってしまったのか、その理由を探るべく、現代日本におけるアートの意味を探る旅を始める。
「Session1 惰性の王国」では、「越後妻有大地の芸術祭」がなぜ世界有数の芸術祭となったのか、「あいちトリエンナーレ2019」で見えてきた日本におけるアートの現状とはどのようなものかを踏まえながら、20世紀アートの頂点と言われる「泉」を手がけたマルセル・デュシャンとも親交が深く、グッゲンハイム美術館で日本人初の個展を開くにまで至った荒川修作がなぜアートを完全に捨てるに至ったのかを検証し、アートの限界を見極めていく。
2021年製作/98分/G/日本
配給:リタピクチャル
オフィシャルサイト スタッフ・キャスト
- 監督
- 山岡信貴
- ナレーション
- 町田康
- 影からの声
- 椹木野衣
- エンディングテーマ
- SUPER JUNKY MONKEY
全てのスタッフ・キャストを見る

- ×

※無料トライアル登録で、映画チケットを1枚発行できる1,500ポイントをプレゼント。
ネタバレ! クリックして本文を読む
「縄文」の監督とはじめ知らずに観ました。
「アートって?」ていうテーマ。
確かに特に日本人にとって不確かな、
その価値について共通の見解みたいなのが、
イマイチ得られていない、
そんなアートという領域について踏み込んでいきます。
「縄文」の土器のほうが、確かにわかりやすく、
びびっとくるものがありますよね?
造形も特殊だし(宇宙人的なのやつとか!)、
そこまでやるか!?的な装飾のやり過ぎ感とか。
絶対使いずらいだろ?っていう。笑
でも、弥生土器になっちゃうと、合理的すぎて。
なにか大切なモノを失っちゃったような。。。
縄文当時の人の豊かさ、感性の奥深さ、
みたいなのが、自然に、説明がなくとも
伝わってくる。。。
対して、今のアートは?
作中では愛知トリエンナーレの話題も出てくる。
何が正しいのか、ムリに答えをだす感じではなく、
そこに好感。
縄文もウソ。ただ、1万年も続いたウソ。
対して、その後3千年の
縄文に取って代わったウソはどうか?
そんな問いかけに、「なるほどーっ」て。
戦争に強ければ、文化もとってかわれる。
でも、ウソの価値?文化の価値みたいなのは?
縄文土器➡️弥生土器にとってかわったとき、
両者を見比べたときの喪失感?を思い出す。
アナロジー的に、縄文のような、アートの価値は?
そんな問いかけをしてみる。
でも、そこにアートの価値を見いだそうとしても、
うーん。と。微妙な感じに陥ってしまうのです。
イマイチこれだ!という、
均衡した点に落ち着けない。
狩猟採集生活を捨てたがゆえの、
合理性を価値基準とする
資本主義的な今の世界にあって、
戦争的な?経済的な「強さ」を求める
今の世界にあって。
絶対的な「生産性の向上」をよしとする、
そんな世界観、ある種の哲学の前では、
縄文的な、アート的なものは、
今の日本では、理解されづらいのかも。
私は装飾のしっかり入った革小物とか、
コーヒーを楽しむ時間とか、
そういうものに囲まれることで、
失ったものを取り返そうとしている。
今のウソのなかに、縄文的なウソのようなものを
めい想的な手法で見いだしてるのかも。
長くなってしまいましたが、2話目もみたい!
と思える、心地よい深さのあるテーマの作品でした!!
2022年10月1日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
なんとなく”素晴らしいもの”としてやり過ごしているアートの素顔を見せられる様で唖然としつつも、個人的には知らないことも多く面白く観れた。
アートがいらないと挑発しているにもかかわらず、これだけアートについて描き続けられるというのは、逆に歪んだ愛情表現なのかもしれない。
「表現の不自由展」で大炎上した作品を作った大浦氏の穏やかな話ぶりが印象に残る。
2022年9月18日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館
session1&2の感想です。
監督が現代美術に感動しなくなって、「そもそも現代美術って何だっけ?それ、要るっけ?」という問いから始まる一種のロードムービーです。
なにしろ、個人的な現代美術体系ですから、かなりの知識がないと付いていけない感じです。リアルドールとか話に必要だったか疑問。でもまあ個人的な現代美術の解釈と悩みだから仕方ない。
現代美術が足を踏み外した、、と思われるデュシャンの便器や、その贋作説とか知らんかった事もあり楽しめた。
三鷹の変な家なんて監督と同じ行き詰まりからの建築に移行した作家の作品で、1人の作家の終着点として監督も同じような「終の棲家」を観てるような気配だ。
この辺は個人で違うところなんで「へー」とか言いながら真剣に見る必要もないと思う。
愛知トリエンナーレの主催側のまとまった話を聞けたのも良かった。現代の芸術が昔の「お行儀の良かった美術」から足を踏み外し、自分や周り、あちこちとぶつかりながら進まざるを得なくなってしまったストレスから生まれたドキュメントなんだろうな。
同じような行き詰まりを感じてる方は是非。