「アンデス山中で消えゆく老夫婦の退屈な話」アンデス、ふたりぼっち アツサミーさんの映画レビュー(感想・評価)
アンデス山中で消えゆく老夫婦の退屈な話
私は来年、南米大陸のアンデス山脈、その村々を訪ねて見たいと思っている。それで今回、もしかしたら何かのヒントがあるかもしれないと思い、この映画を見た。
映画案内には標高5千mの高地に住む老夫婦、全編アイマラ語で語られペルー本国で大ヒット、とあった。小津安二郎を彷彿させる雄大な自然と二人だけの宇宙とも。
小津安二郎との関係性はほぼないと思うけど。
この映画がなぜペルー本国で大ヒットしたのかには興味がある。見方によっては、かなり退屈な映画です。
私が感じたのは、スペインに制服される前、さらにインカ帝国よりも前のアンデス山地にはアイマラ語を話すアイマラ族がいた。当然、前近代的だ。
この映画は見てる者を苛立たせる。それは我々が近代的な価値観やものの見方、枠組で生きているからだ。
例えば、我々の思考には時間軸が明確だ。原因と結果、知識と過去の経験則に基づく未来予測、それが映画の中の二人にはできない。全てが行き当たりバッタリで計画性がない。
例えば、羊が死んだら埋葬するのではなく食べる。そうすればリャマを殺して食べるのは避けられたはず。
マッチがなくなる前に、体力があるうちに買い置きしておくだろう。そのマッチを絶やし種火を絶やさぬ様にすることが火事に繋がった。
二人の行為の合理性のなさが見てる私を苛つかせる。つまりこの映画は近代の枠組みの外側に生きている人々を描いた作品なのだ。
近代の象徴としてのマッチ、サンダル、息子、ペルーの人々がこの映画にならかのシンバシーを感じたとしたら、自分達のDNAに受け継がれたアイマラの遺伝子とか、燃える家の十字架とかにではないか。
これは失う事、失い続ける事を描いた映画だ。希望はどこにもないし、そもそも、アイマラ語には希望という言葉も存在しないと見た。
逆にあるのは、精霊、祈り、大地、笛、踊り。挿入された音楽は皆無。風、小川のせせらぎ、業火、犬、二人のいびきと呻き、笛の音のみだ。
近代的な思考をする私にはとても退屈で何が言いたいのかよく分からなかった。しかし、八百万の神々を信仰し、自然の脅威にひれ伏し、色んなものを失い続け、それでも生きていかなくてはいけない私には、ラストのパクシは神々しく見えた。