「亡き後も続く「刎頸の交わり」」帰れない山 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
亡き後も続く「刎頸の交わり」
<映画のことば>
その時、屋根に穴を開けられた山の家を思い出した。
あの家はすでに役割を終え、長くはもたないだろう。
人生には、ときに帰れない山がある。
他の峰々の中央にそびえ立つ山に帰ることはできないのだ。
いちばん高い最初の山で友を亡くした者は、八つの山を永遠にさ迷い続ける。
堅実に生活を組み立て、ラーラという伴侶を得て、子供にも恵まれて「山の民」として生きることが、ひとつの生き方であることは、疑いがありません。
しかし、その一方で、せっかく進学した大学で学識を修めることにも疑問を感じ、これといったあてどもなく旅を続け、あたかも浮き雲のような地に足のつかない生活(作中では「いつまでも学生気分の抜けない生活」)を送るピエトロが、無軌道、放縦な生活に明け暮れているとも、断言できないようにも思います。
ピエトロのそういう「人生の彷徨(さまよい)」が、彼の人格を形づくり、小説家としての人となりを練磨していることも、否定しきれないとも思います。評論子は。
「心に降り積もった雪は、融けて人生になる。」とは、本作の予告編でのキャッチフレーズも、たぶん、その謂(い)いなのだとは思います。
とどのつまり、「人の人生のあり様は、人それぞれ」とでも言ったところでしょうか。
いみじくも「少しずつ冷める愛もあれば、急に冷める愛もある」という作中のラーラのセリフのように、時には唯一無二の親友のように友情が燃え上がることもあれば、まるで他人同士のように関係性が気息奄奄とすることもあるー。
そんな関係のピエトロとブルーノとの親友としての関係が、本作には通底しているとも言えそうです。
(ピエトロが、密かに想いを寄せていたラーラを、何の蟠(わだかま)りもなく、ブルーノに譲ることもできていたのは、やはり根底では、ピエトロとブルーノとの友情関係は、すっかり枯渇してしまっていた訳ではない、根底には、むしろ静かに、厚く存続し続けてはいたのだろうとも思います。)
実際のところ、なかなか評釈の難しい作品ではありましたけれども。評論子には、本作は。
しかし、上記のような評論子の評がもし当たっているとすれば、二人の間の、時代を経ても続いていた友情の温かさを、じんわりと味わうことのできる佳作だったと思います。
これこそが、本当の親友…刎頸の交わりというものなのでしょうか。
山を降りて、都会で教員(?)となったピエトロでしたが、地理的に離れてしまっても、亡き後でも、心の中ではブルーノとの友情は生き続けていたことは、疑いがありません。
本作のタイトルは『帰れない山』であって『帰らない山』ではないということも、そのへんに意図があるのかも知れないとも思います。
そのことに思いが至った一本として、十二分に佳作としての評価に価する一本でもあったと思います。
評論子は。
(追記)
ピエトロのお父さん・ジョヴァンニは、いつかピエトロが登山技術で自分を超える日を、実は楽しみにしていたのですね。
どうかすると、当のピエトロは、ジョヴァンニは子供(自分)に無関心だと考えていたようなフシもありましたけれども。
ブルーノが楽々とこなす登山を、同じょうな年齢の自分が(高山病になってしまって)こなせなかったという「負い目」を、長じてもピエトロは、ずっと引きずっていたのかも知れません。
ジョヴァンニがブルーノに山小屋の再建(?)を託したのも、そんな動機があってのことのようでした。
(追記)
寡聞にして、本作で初めて「鳥葬」ということを知りました。評論子は。
大雪に遭って、山小屋に帰り着くことができなかったブルーノの亡骸(なきがら)は、おそらく、鳥によって懇(ねんご)ろに葬られたということなのでしょう。
「山の民」を自称し、山を愛したブルーノとしては。
いかにも「山の民」らしい最期と言えそうです。
(追記)
本作も山が舞台に生っているという点では、「山岳映画」と呼んで差し支えないものと思いますけれども。
それだけに、山の遠景が、作中には多く映されています。
映画館の大スクリーンで鑑賞していれば、さぞかし圧巻だったことと思われます。
(大自然を目の当たりにして、ヒーリング効果も十分に味わえたことでしょう。)
その点は、かえすがえすも残念に思います。