劇場公開日 2023年1月20日

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「北欧の英雄譚だが若干マカロニ・ウェスタン風味? 咆哮を上げ続ける筋肉ダルマのハムレット!!」ノースマン 導かれし復讐者 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0北欧の英雄譚だが若干マカロニ・ウェスタン風味? 咆哮を上げ続ける筋肉ダルマのハムレット!!

2023年1月22日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

実は映画館にちょっと早く着いてしまって、始まる1時間前から外の通路に座って仕事をしたりしていた。すると……劇場のなかからひたすら、
「ぬおおおおお!!」「ぐおおおおお!!」
と、男たちの上げる雄たけびが、えんえん漏れ聞こえてくるじゃないか(笑)。
おいおい、いったい中で何が起こってるんだ??
なんか狼とか狒々のディスプレイ(求愛の遠吠え)みたいなんだけど。
観る前から、ずいぶんと気分があがってしまいました……!

で、実際に最後まで観ての第一印象。

北欧神話とか、『ハムレット』とか、『コナン・ザ・グレート』とか、いろいろ言われてるけど、実際に観た感覚で言えば、いちばんノリが近いのは、マカロニ・ウエスタンなんじゃないの? これ。

てか、じつはロバート・エガース監督がいちばんやりたかったことって、「残酷ウエスタンの進化形」を模索することだったのでは?
だって、音楽が途中から、マカロニそのまんまなんだもん(笑)。
ヴィヨンヴィヨンとアイヌのムックリみたいな音が混ざってきた時点で怪しかったが、ワルキューレみたいなのが白馬で疾駆するシーンでかかった曲が、あまりにモリコーネ臭くて大爆笑。
ヴァイキングの民族楽器だったり、何かの吠え声だったり、妙なヨーデルみたいなスキャットだったりをサンプリングしてくる作り方自体が、まさにモリコーネを踏襲しているのに加えて、ジャンジャカジャンジャンというリズムどりもそっくり。しかもパンフでは一切言及が成されていないから、これはもう確信犯だ。

話の展開も、たしかに『ハムレット』や『コナン』も父親の復讐に親族を討つ物語だが、父親の仇を討つのはマカロニでもいつもやってることだ。かつての彼女が相手の女になってるパターンも頻出する。で、女が実はかつての悲劇で主導的な役割を果たしているってのも定番。
奴隷のふりをして相手の懐に潜入するとか、すぐに暗殺できるのに特定のシチュにこだわって計画を引き伸ばすとか、下手を打って両手縛られて吊るされて拷問されるとか、無理やり最後は一対一の決闘に話を持っていく(決闘場所も指定される)とか、全部俺、マカロニ・ウエスタンで観たことあるよ(笑)。

逆に、マカロニ・ウエスタンをやると言わずに、北欧の英雄伝説をやるとの触れ込みで、黙ってその祖型だけ生かして作ると、こんな映画に仕上がるんだなあ、と感心しきり。

出だしから、いきなり噓っぽいカラスの飛翔シーンとか、演劇的なカメラ目線でくわっと振り返るお母さま(ニコール・キッドマン)とか、総じてリアリティを追求している画面のなかに、作為性の強いネタ感たっぷりの画面が交錯して、なんだか狙い目のわかりにくい映画だなあ、と思っていたのだが、これが「マカロニの変奏」だと思えば、映画全体に漂う「ネタ感」「あざとさ」「雑駁さ」も十分理解できる。
あえて北欧が舞台なのに、ヴァイキング語以外はみんな「英語」しゃべってるっていういい加減な感じも、この映画の淵源に「マカロニ」があると考えると、なんとなく得心がいくというものだ。

ー ー ー ー

「敢えて英語でしゃべる」理由としては、『ハムレット』との影響関係も考慮すべきだろう。
全体的に登場人物のダイアログが持って回った文語調、詠嘆調で、演劇がかっているというのもそうだし、舞台じみた大仰な身振りや、真正面から役者を捉えるカメラワークも、本作の根底に『ハムレット』の祖型があることと無関係ではない。
そもそもパンフによれば、ロバート・エガース監督は、かつて舞台俳優として『ハムレット』の主役を張ったことがあるのだ。凝り性のエガースのことだから、そのとき『ハムレット』については徹頭徹尾調べ尽くしただろうし、もちろん台詞は今でも全部諳んじられるはずだ。
そんな彼が、主演兼プロデューサーのアレクサンダー・スカルスガルドから、北欧神話の映画化という腹案を持ちかけられたとき、「アムレート」の英雄譚を素材にすれば、『ハムレット』を骨格に映画が作れるとひらめかなかったはずがない。
『ハムレット』を祖型の一部とすることで、『リアリティ×ファンタジー』という相反する要素の「かすがい」として、舞台性、演劇性を導入する決断にも大きな説得力が生じる(とくに幽霊の介入)。
その結果として、「おいおい、ハムレットのほうが水に飛び込むのかよ!」みたいなくすぐりも入れられるしね。あと、ウィレム・デフォーの演じる「道化」が、序盤できわめて重要な役割を果たすのも、いかにもシェイクスピアらしいと、個人的には思う。

ー ー ー ー

『リアリティ×ファンタジー』という点では、リアリティ寄りのシーンでカラー撮影、ファンタジー寄りのシーンではモノクロ撮影が取られていたのは、比較的わかりやすい色彩の使い分けだった。
これで思い出したのが、辻佐保子先生の名著『中世絵画を読む』。
この本は、中世(まさにこの映画の舞台になった時代も含まれる)のキリスト教絵画において、現実世界を描く際はポリクロミー(多彩)を用いる一方で、現実世界とは次元を異にする超越的な世界を表現するために、不可視世界の異次元化を示す技法として、モノクロミー(単彩)が用いられていた事実を、詳細な事例から明らかにした美術研究書だ。
その関連で、辻先生はタルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』のほか、マーティン・スコセッシや、ウッディ・アレン、ジャック・ドゥミなどの「モノクロとカラーの使い分け」についても言及している。
シネフィルであり学究肌のエガースが、中世における「モノクロミーのもつ象徴的意味」を知らないはずはないし、タルコフスキーやウッディ・アレンが「モノクロ・パート」に持たせた意味性についても当然知識があるだろう。彼はそのあたりをちゃんと念頭に置いたうえで、本作の「仕掛け」を考えたのだと思われる。
実際、現実と地続きのように見えても、いつの間にか異界に呼び込まれているというシーンが本作には散見され、このとき「画面がカラーかモノクロームか」というのは、状況を認識する一助となるはずだ。
ただ、個人的には、ファミリーツリーの描写にしても、ワルキューレ(?)の描写にしても、本作のSFXがらみのシーンは、どれもみな妙にちゃちいというか、作り物くさすぎるというか、本作全体のテイストとイマイチしっくり合っていない印象が強かった。もう少しなんとかならなかったものか、と率直に思ったことを付け加えておく。

ー ー ー ー

冒頭に「男の雄たけびの話」を書いたが、実際、終盤になると、主人公も叔父さんも、ひたすら体育会系みたいに怒鳴り合っていて、観ていてちょっと笑ってしまう。
よくラガーマンとかが顔向き合わせて吠えてるアレね(映画でヴァイキングたちはハカみたいな踊りも踊る!)。
あれは、動物どうしのマウンティングのようなものだ。
あるいは、発情期における「どちらが強い雄か」を示すためのディスプレイのようなもの。
結局、本作は「男と男」という以上に、「雄と雄」との対決の物語なのだ。
アムレートは、ヴァイキングの仲間になってからは、「ベオウルフ(熊×狼)」と名乗り、狼の毛皮を背中にまとっている。実際、アレクサンダー・スカルスガルドはインタビューで、「アムレートは狼と熊を組み合わせたようなキャラクターです。だから僕は熊みたいにならなければいけなかった」と述べている(叔父役のクレス・バングとともに、十分に説得力のある素晴らしい筋肉美を築き上げていて、本当に感心した)。要するに、彼は半分「けだもの」のような存在だ。
これは、物語の根幹にかかわる問題である。
なぜなら、本作のプロットの中核は、「群れの若い雄が、自分の狙う雌のパートナーである群れの第一位の雄(アルファメール)を追い落として殺し、さらには彼が雌に産ませた彼の遺伝子を継ぐ子どもたちをも皆殺しにする」、という「獅子の子殺し」――「動物のロジック」に支配されているからだ。
アムレートがしきりに口にする、「家族のつながり」とか、「血のさだめ」というのは、具体的になんのことかというと、要するに「遺伝子の継承」の話をしていると考えればいい。
叔父が、あえて謀反に際してアムレートを殺そうとしたのも、そういうことだ。
アムレートもまた、父王の「遺伝子」を次代に遺したい。
そのためには、叔父のみならず、叔父の「遺伝子」まで根絶やしにする必要がある。
だから、彼は積極的に、叔父の長子をその手をかける。
その後、いったん逃亡して、オルガと出帆する間際までいっておいて、なぜ彼はわざわざアイスランドに戻る必要があったのか?
それは、オルガのなかに父王―自分の「遺伝子」が宿ったことを知ったからだ。
叔父を残したままでは、必ずや叔父の血族が、草の根をわけても「アムレートの遺伝子を継ぐ子供たち」を「根絶やし」にせんと追ってくることが、アムレートには「わかっていた」からだ。
それは、まさに人というより、動物の論理。
でも、動物にとっては、当たり前のロジック。
「平家は、頼朝を生かしておいてはならなかった」――そういうことだ。

ー ー ー ー

その他、観ていて思ったことをつらつらと。

●ヴァイキングが村落を襲って殺しまくるシーンは、本作でも最高の見せ場で、素晴らしい仕上がりだった。ちょうど最近読んだケン・フォレットの『大聖堂 夜と朝と』の冒頭で、イングランド沿岸部の村をヴァイキングの一団が襲って掠奪と殺戮の限りを尽くす様子が活写されるのだが、まさにそのシーンの映像化そのままといった感じだった。カメラワークやアングル、殺陣の生々しさには、黒澤明の『七人の侍』からの影響を色濃く感じとることができる。

●ついこの間、『LAMB/ラム』を観たばかりなので、またアイスランドの特異な自然景を堪能できる映画が出てきて、なんか流行ってるのかなあと。アイスランドは、ニュージーランドと並ぶ映画ロケ地大国であり、その現実離れした光景は、宇宙ものや近未来ものでも何かと重宝されている。
今回は、すり鉢状の山に囲まれた村落(『ラム』とよく似てる)のほかにも、荒涼とした海岸景や、活火山の火口付近の地獄めいた風景を楽しむことができて良かった。
あと、やっぱりアイスランド系とかスカンジナビア系は、顔立ちにヴァイキングっぽい個性が間違いなく残ってるなあ、とひげ面の男たちを観て思いました。

●世間的には『コナン・ザ・グレート』との類似を指摘する声が大きい印象があるが、個人的には、優秀な新人監督が何本かクセの強い犯罪ものを撮ったあと、唐突に北欧神話に材を採って、男の闘いと復讐を描く史劇に挑んだ、という意味では、ニコラス・ウィンディング・レフンの『ヴァルハラ・ライジング』を猛烈に彷彿させる映画だと思う。
配役の傾向だとか、結局「英語」で話させている点とか、撮り方の方向性とか、主人公の「奴隷」という身分設定など、両作にはかなり似かよった点が多く、エガースがこの映画を意識している可能性は十分に高い。ただ、徹頭徹尾なんの話なんだかさっぱり理解不能だった『ヴァルハラ・ライジング』と比べれば、100倍『ノースマン』は分かりやすい映画に仕上がっているけど。

●『ウィッチ』でも、『ライトハウス』でも、舞台は17世紀だったり19世紀だったりしたものの、あからさまに「中世」的(ボッシュ・ブリューゲル的)な暴力と汚猥の世界を描こうとしてきたロバート・エガースが、ついに本物の「中世」に手を伸ばしたんだなあ、という印象も強い。
なので、似たような「中世へと傾斜する」芸風をもつアレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』とは、殺伐とした肉弾戦の在り方や、グロテスクな残虐描写、主人公の暴力無双を追い続けるようなカメラワークにおいて、影響関係はきわめて顕著であるように思われる。

全体に愉しめたし、出演陣はみな素晴らしかったが、SFXのダサい感じと、展開の若干適当な感じ、それと終わり方の微妙さが少し気にはなったか。
まあこの映画は、マカロニの発展形として、あまり気負わずにときどき爆笑しながら観るのが一番正しい見方なのかもしれない。

じゃい