「ぽりこれな現代」シニアイヤー 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ぽりこれな現代
ウルフオブ~などに出ているジョナヒルが痩せたことがある。幾つかの映画に出ているが、じぶんはNetFlixのシリーズ「マニアック」で(やせたジョナヒルを)見た。
ふとくてコミカルなキャラクターでならした人が痩せると、かなり印象が変わる。
マネーボールやウルフオブ~やジャンプストリートなどなどの彼に好ましさを感じていた。が「マニアック」の痩せてシリアスなジョナヒルには違和感があった。といってイヤになったわけではないが「ジョナヒルはこれじゃない」感がぬぐえなかった。
おなじNetFlixのドントルックアップ(2021)でジョナヒルを見たとき、体型とキャラクターを元に戻していた。なんとなく自身の中でも「シリアスで痩身の俳優」に変調を感じたのではないか──と思った。のだった。
観衆は勝手なものではある。
だが俳優はイメージが固着してしまうもの──でもある。
(たとえば)ローレル&ハーディのハーディが痩せたら別物になってしまう。わけである。
レベルウィルソンの冠映画として二つ目だけど新体型としては初という感じのコメディ。
毒舌キャラなのでシンパシーを寄せにくい人だがじっさいはものすごい苦労人である。
本作ではいつもの体型をシェイプしている。
そのこと自体には新鮮と畏敬を感じた。
が、やはり「痩せたハーディ」のジンクスを感じた。
映画中は37歳だが実年齢は42歳。
毒舌や表情が、太いときよりも鋭い気配を帯びる。と同時に、42歳相応の分別がかいま見えてしまう。
この映画の主成分はもっとずっとハチャメチャな空気感だと思う。だが(ピッチパーフェクトのときみたいに)無茶ぶりしたセリフが、豊かな贅肉に当たってボヨ~ンと跳ね返ってくるような楽しさがない。
くすくすはさせられても哄笑にはならない。──という感じ。
だが映画は世のポリコレ偏重とSNS偏愛に、痛烈な皮肉をかましていた。
さいきん「ポリコレという怪物」というネットにある有料記事を読んだ。
アメリカでリア・トーマスというトランスジェンダーの元男性競泳選手が、女子の記録をつぎつぎに塗り替えている。この不条理にたいして真っ向から追及する者がいない。なぜならトランスジェンダー差別だと言われてしまうから・・・という話。そのことだけでなく様様な例をあげて、ポリコレは単なる言葉狩りに凋落しており、ゆがんだ社会を形成する──と警笛を発している。
ステファニー(レベルウィルソン)が20年間の昏睡から目覚めたところはポリコレ偏重の現代社会である。
そこでは(最優秀をえらぶプロムキング&クイーンのような)コンテストがなく、(優劣が競われる)チームの長がいない。
差が生じてしまうことを排除する世界&虚飾だらけのSNSが跋扈する世界──そんな現代に古い時代を背負ったままの精神年齢17歳のステファニーが迷い込む。
前述した違和感+ウィルソンのエロいジョークに辟易するところもあったが、風刺は的確だった。
ただ映画の主題はそこより、ステファニーが友人を厚意を裏切ってきたことにある。憧憬に執心するより、いつもあなたの隣にいてあなたのことを親身に思ってくれた友人に感謝をしなさい──からの、競い合うことなんかない、みんなステキだよ──へ落とし込んでまとまる。が、まとまりすぎのエンディングはけっこう恥ずかしかった。
クラスメイトを演じていたAvantikaというインド系の子が(ものすごく)魅力的だった。
また一瞬だけ出てくるアリシアシルバーストーンにときめいた。
ところでポリコレが発達した今、昔よりも差別が減っただろうか?個人的には単に陰湿になっただけだと思う。差別は、表から裏に回って、むしろ昔よりも先鋭化している。
さらに記事「ポリコレという怪物」にあるような差別よりもクリティカルな社会の歪みが生じている。
じぶんはポリコレとは誰かの「ごね得」に向き合うこと──だと思っている。
たとえば競泳選手リア・トーマスの問題だが、もしわたしに男だった過去があるなら女と競技しない。ぜったいに。LGBTQも性差別も関係ない、当人の自尊心の問題だろう。泳ぎたいなら泳げばいい。でもなぜ競技に出るのか?男が女に勝って喜ぶのは「彼」が恥知らずだからに他ならない。
元男の選手が女の競技に出るのは、そいつにスポーツマンシップがない=恥知らずだから。ほかに理由が見つからない。女に暴力ふるってるのと同じことだと思う。
お母さん食堂の件なんかも同様、声をあげたどこかの誰かの「ごね得」に向き合う。それがポリコレ。