劇場公開日 2024年9月6日

「ポリコレ文脈上の被害・加害の構図が逆転! 19世紀ロシアのテネシー・ウィリアムズ的考察。」チャイコフスキーの妻 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0ポリコレ文脈上の被害・加害の構図が逆転! 19世紀ロシアのテネシー・ウィリアムズ的考察。

2024年9月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

若干嫌な予感はしつつも、クラシックファンのはしくれとして、律儀に観に行ってきた。
まがいなりにも、チャイコフスキーの伝記映画らしい体裁くらいはとっているのかと思ったら、全然そんなことはありませんでした(笑)。
面白かったかと言われると、冗長なうえに辛気臭く、さらに僕にとってはあまり興味のない部分でのメッセージ性がやけに強いので、しょうじき自分には合わない映画だった。
とはいえ、非常に興味深いことをやろうとしている映画ではあったと思う。

要するに、本作もまた、今日び流行りの「女性映画」の一種ではあるのだが、ここでの主眼は、単に男性に抑圧される女性の悲劇を描くだけではない。
まっとうな女性の恋心と性衝動が、ホモセクシャリティによって抑圧され、蹂躙され、狂気へと追いやられていく悲劇を描こうとしているのだ。

通例、ポリコレ汚染された映画において、ホモセクシャルやトランスジェンダーは、マイノリティとして擁護され、あるいは「抑圧される被害者」として共感をもって語られる側にある。ところがこの映画では、ヘテロの女性の「ごく当たり前」の結婚生活への夢想が、隠蔽された同性愛の組織的かつ家父長的な強制力によって、粉々に破壊され、憧れに満ちた生活を送るはずだった女性が生き地獄へと引きずり込まれていく様子を活写してゆく。

いつもとは、被害者と迫害者の構図が「逆」なのだ。

もう少し正確に言うと、19世紀末のロシアにおけるホモセクシャリティは、ホモソーシャリティによって隠蔽されている。
徹底的かつ強圧的な男性社会、父権社会、家父長社会のなかで、ヘテロ男性の形成する濃密で排他的なホモソーシャル集団の「一角」に、ホモセクシャルな集団も居場所を見出して、ホモソーシャルな友情(男子校的・軍隊的・サロン的)に偽装された状態で、半ば公然と同性愛的関係を結んでいる。
ちょうどヘテロ9割の男子校や兵学校で、1割くらいの同性愛者が「迫害されず」「暗黙の了解を得て」「それはそれでよろしくやっている」という(意外と日本でもよくありそうな)状況が、ロシアでは常態化していた、暗にそのことをみんな知っていても、口裏を合わせて隠蔽し、家族のあいだでも共同戦線が貼られていた、という描写で本作は一貫している。

一方で、19世紀のロシア女性の立場は、あり得ないほどに弱い。
あまりにも、女性の権利と自由が束縛されているがゆえに、正当な理由なしでは離婚すら切り出せない始末だ。まあ、名前に父親の名前がくっついてくるようなお国柄である。父権性は文化の奥底まで根を張っているから、容易なことでロシアの女性抑圧の傾向は変わらないだろう。
男たち(およびその親族の女たち)は結託して、アントニーナに「悪女」のレッテルを貼ろうとする。愛のない結婚を長引かせ、チャイコフスキーを苦しめるろくでもない女として、糾弾し、離婚を承諾させようと迫り、みんなで彼女の精神を追い詰めてゆく。

たしかにアントニーナは、そこまで優秀な女性ではないのかもしれない。
空気が読めない。社交性に乏しい。相手の気配を察せない。
恋をしたら一直線。長大な恋文を書き連ね、ガンガンアタックをかける。
相手のキャラクターよりも、自分の妄執のような恋に執着する。
いざ結婚したら、やたら自慢げに振る舞う。才能ある夫を鼻にかける。
それでいて、友人や家族の前で夫を貶めるようなことを平気で言う。

まあ、旦那さんに早晩嫌われても仕方のない部分のある女性ではある。
ちょっとボーダー(境界性パーソナリティ障害)か自閉の傾向がありそうな感じ。
フランソワ・トリュフォーの『アデルの恋の物語』に出て来る、激烈きわまる片想い系ヒロインを、もう少しマイルドにした感じとでもいおうか。

それでも、彼女は決して悪いことをしているわけではない。
彼女は熱烈な恋文を書いた。
チャイコフスキーはそれを受け容れた。
受け容れたのは、チャイコフスキーのほうなのだ。
同性愛者としての自分を隠して、世間体を優先して結婚しようとした。
そして破綻した。
あとは『ブロークバック・マウンテン』みたいな、よくある同性愛者の「ゲス不倫」話である(特定の相手は出て来ないが、ふだんから寵愛しているお小姓のアリョーシャとか、電車で遭遇してしきりに「匂わせて」きた大学時代の友人とか、男の裸体画だらけのサロンのおねえ風の主ニコライとか、あのへんはみんなおしりあいらしい)。
そんな同性愛者の「偽装婚」に巻き込まれて、いつまでたっても他人行儀な夫に困惑し、たいした理由もなく忌み嫌われることに傷つき、夜の性交渉を徹底的に拒絶されてほてる身体を持て余しながら、しだいに精神の均衡を喪ってゆくアントニーナ。
可哀想といえば、ほんとに可哀想な話なのである。

すなわち、このお話は『アデルの恋の物語』から始まって、それがテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』もしくは『熱いトタン屋根の猫』的なテーマ(同性愛者の夫に顧みられない妻の苦悩)に結び付く物語ということになる。

― ― ― ―

チャイコフスキーにそっちの気があったというのは、比較的よく知られた話である。
そのせいで結婚生活が破綻したことも、双子の弟が最後まで面倒を見たことも、クラシック好きならだれでも知っている話だ。とはいえ、アントニーナのほうにも大概に問題があったということが「通説」ではある。そこのところを「最新の資料に基づいて」「虐げられた妻の立場から」新たに描き直したのが、本作ということになる。

それはそれで一向に構わないのだが、ちょっと気になったのは、ラストで「実際のアントニーナは、40年間夫と会うことなく最期を迎えた」としれっと字幕が出たことだ。
映画のなかでは、ふつうにレストランで再会してたし、感情をぶつけあってたんだけど、あれって完全なフィクションってことだよね?
そういうあたりで、史実とは明快に異なる創作エピソードを平気で挿入してくるのって、どうなんだろう? これだけ、実在した作曲家であるチャイコフスキーを「悪者」にしようと「悪意」をもって描いている映画で、史実にないひどいことをさせるのは、さすがにルール違反なのでは??

ホモセクシャルの側ではなく、ヘテロセクシャルの女性に重心を置いて描いている点については、ある意味で「誠実」かつ「フェア」な視点なので、そこは共感する。
マイノリティだからといって、人を不合理に傷つけて良い道理はない。
それに、当時のホモセクシャル男性は、男性優位社会、ホモソーシャル社会、家父長制社会のなかで、ある種の「特権性」を獲得し、かかわる女性たちに大きな犠牲を強いていた。すなわち、彼らはマイノリティではなく、女性を抑圧する「強者」として存在していた。
このあたりの機微を敢えて「告発」した姿勢は、個人的には買いたいと思う。
ポリコレ脳の「善良な」映画愛好家に冷や水を浴びせるようなこういう反骨精神は、むしろ小気味よいくらいである。

とはいえ、やりすぎはよろしくない。
やりたいことがはっきりしているがゆえに、あまりにチャイコフスキーと回りの男たち、彼の家族連中を「悪者」として貶めて過ぎているのは、やはりどうかと思う。
『TAR』とか『ふたりのマエストロ』を観たときも思ったことだが、実在する音楽家を劇映画のなかで扱うときには、もう少しフェアネスが必要なのではないか。すくなくとも自分の映画が、相手の名声と評判を著しく棄損する可能性があることについて、もっと自覚的であってほしいと僕は切に願う。

結果的に、作品はちょっと毒々しいというか、主張が強すぎて、観ていて少しケツのこそばゆくなるようなところがある。演劇的な演出や無駄に過激な性描写も含めて、なんとなく観るストレスが大きい。
ただそれは最終的には好みの問題であって、総体としては相応に良く出来た映画だとも思う。

― ― ― ―

以下、寸感。

●チャイコフスキーの業績や生涯について、映画内でほとんど語る気がないのにも驚いたが、いちばん驚いたのは、人口に膾炙したチャイコフスキーの「有名なメロディ」がほとんど封印されて使われていなかったことだ。
三大バレエでは、男友達の戯言のなかで『白鳥の湖』のメインテーマをひとくさり歌ったり、群舞で同曲を使用していた以外は、あまり使っている部分に気付かなかったし、あとは若干のピアノ曲とか、『フランチェスカ・ダ・リミニ』の一部だとか、聴いても耳に残らないようなところばかり。むしろオリジナル曲のほうばかりが印象に残る作りだった。
これは、最近のマーラーやレニーの伝記映画のことを考えても、かなり奇異な演出だといえる。
要するに、天才作曲家チャイコフスキーの情緒的で旋律美あふれる音楽を、キリル・セレブレンニコフ監督は本作に「必要としていない」し、「賞揚するつもりもさらさらない」というわけだ。

●映像については、ヨハネス・フェルメールを意識したような静謐な室内空間の切り取り方と、絵画的(バロキッシュ)な人物配置、巧みで自然な光源の設定(窓から光が差して逆光になっているシーンが多い)などが印象に残る。

●基本的には、「演劇出身の監督が」「演劇的手法を前面に出して」撮った映画としてのカラーが強い。とくに冒頭のいきなり復活して叫ぶチャイコフスキーの遺体だとか、終盤の「家族写真」を撮る夢想シーンだとか、アンリアルのシーンがシームレスに入って来るのは、いかにも演劇臭い。あと、チャイコフスキーを駅で見送ったアントニーナがいったん待合室に戻って、外光が一巡して今度は帰りを待つシーンに移行しているのも、演劇の回り舞台のような演出だ(似たような時間経過をカットしてつなげる演出は、その後も数回見られた)。

●演劇的な演出について、パンフを見ると監督が面白いことを言っていた。
いわく、「あの時代全体が、とても演劇的なのです。人々はドレスアップして出かけ、社会が要求するコスチュームを身にまとい、期待される仮面を被り、社会から課された役割を演じました。生活はまさに舞台のようなもので、人々の振る舞いはまるで役柄を演じているようでした。とても魅力的な時代です。」なるほど……。

●もう一点、監督のインタビューを読んでいると、彼はチャイコフスキー自身を敵視しているというより、チャイコフスキーの抱える問題性を糊塗して、なかったことにして、偉大で高貴なロシアの英雄として祀り上げた「国家」に対して、強烈な不信感と闘争心を抱いていることが、よく伝わって来る。その意味では、本作もまた国家のプロパガンダをリジェクトしてみせようとする、頗るつきに「政治的」な映画だということができる。

●終盤のあの「珍」「珍」「珍」まみれの珍ダンスシーンは、バレエを通じて女性性がホモセクシャル&ホモソーシャルに蹂躙される様を象徴的に描き出した、作品のまさに「キモ」ともいえる部分(やはりここも演劇的な演出だ)。とはいえ、とにかく「珍」のインパクトが絶大すぎて、シリアスに受け取り難いのは辛いところである(笑)。うーむ、で●い。な●い。

●結局、最後の家族写真の描写を観る限り、彼女は同棲していた内縁の弁護士に三回孕まされ、三回出産し、三人とも施設に送って(意地でも離婚できないからだろう)、三人すべて早逝させているようだ。なんて業の深い……。この弁護士がまた、寄生虫だわ、DVだわ、アル中だわ、ロシア人男性のカスっぷりの一典型を示しているんだよなあ。

●ヒロイン、アントニーナを演じたアリョーナ・ミハイロワは、迫真の好演。アントニーナの際立つ情熱や攻撃性、異常性だけでなく、「凡庸さ」「平凡さ」「判断力の鈍さ」「薄ぼんやりとした頑迷さ」といった、地方貴族出身の「魯鈍なふつうぶり」をきちんとベースに演じられていたのが良かったと思う。

●ちょうど金曜日に日本フィル/カーチュン・ウォン指揮でチャイコフスキーの交響曲4番を聴いていて、相乗効果で何かのインスピレーションが湧くかとも思ったが、チャイコフスキーについてはほぼ全スルーの映画だったので、何もケミストリーは起きませんでした(笑)。

じゃい
きりんさんのコメント
2024年10月19日

じゃいさん
「福田村事件」の「削除事件」にコメントありがとうございました!
僕の場合、なんかしつこく付きまとって“チェック”をしてくれる方がおられるらしく、たぶんその方から運営のほうに“通報”が行くのだと思います。
かなりの本数が消えてます。
レビューを上げた作品もジャンルも多岐で、何が気に食わないのかさっぱり分からないという事も多くて(苦笑)。
批判がいけないのかな?と思って☆5の満点にして褒め殺しの内容で再投稿をしても、また消えてましたね。
運営には問い合わせをした事もあったんですが「規約をご覧ください」しか言ってくれません。
一生懸命書いたものがこんなに検閲されると、正直、心が折れます。
せめては問題箇所や理由を教えてもらえれば修正も考えるのですがね。
やれやれです。
😁💦

ではまた、よろしくでーす!

きりん