聖地には蜘蛛が巣を張るのレビュー・感想・評価
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イランのシリアルキラーの話
売る側だけを悪し様にゆうなよ。買う側も罰しろよ。
春にみのがしてて、次の機会を待ってた。見られてよかった。
正義とは、社会とは?
まず、文化が違うという事はこれほどまでに通念や考え方が違う事なのかと驚いた。
17人を殺害しながら、本人だけでなく周りもそれを浄化だと言う構図は、外から見れば異常だが、狂気は1人でなければ狂気ではなくなるのだといわんばかりの描写にぞっとする。
サイードは徐々に殺害に快楽を感じているようにも見え、報道されないことに苛立ち自己顕示欲までもをさらけ出していく。
さらに逮捕後、ますます自信を帯びた顔になり、支持者の存在を得て自分の正当性に確信を得ていく様がおぞましく表現されていく。
笑った顔がだんだんと気味が悪くなっていく演技が凄まじい。
娼婦たちを、狂った信念で絞め殺したのがサイードとそれを支持する世論だとすると、サイードを絞め殺したものはなんだったのか。彼らの神とは、どちら側なのか。この社会の法とは?
社会全体が狂っていたとしたら、その犠牲者はどうなるんだろう。どこを正義とするのだろう。
いつでも、人は社会と隣り合わせだ。
そして、ラストシーンは戦慄だった。
等速直線運動
サスペンスという程、
撮り方、編集で煽る事もなく、
ホラーという程、
音楽を使うこともなく、
相変わらずの、
作品の切り口は、
!となるが、
そのまま等速直線運動、
熱量も感じられない、
淡々と物語は進む。
凶行場面も淡々なので、
かえって恐怖感を感じるひともいるかもしれない。
問題は後半?
という事でもない。
あくまでも事実に沿っただけで、
判決後に検事が言っていたようなケースもあり得るという事?
確かに鑑賞後、
自分が蜘蛛の巣に絡まったような気分になったのは間違いない。
聖なる蜘蛛
連続娼婦殺人事件の犯人を捕まえるために主人公が囮になる、ようやく捕まった犯人は一部で英雄視され、社会全体(警察やお役所すら!)から養護され優遇され、子供もあとを継ぎそうで、思想の次世代への連鎖を匂わせる、だいたい想像通りの展開と結末。
娼婦が聖地を冒涜する街の汚物なら、買う方はどうなんだ、という真っ当な問いをしたところで意味を持たない社会、男尊女卑、ミソジニーが「正論」とされるところは世界中でかなりあると思う。少女を暴行した成人男性が無罪になり、被害者のほうが男と密通した等の罪に問われる理不尽極まりない話も珍しくない。
こういう問題は、「目新しさがない」くらいしつこく世界中に言い続けて共有したらいいのだ。
また、狂信的信者タイプの犯罪者は厄介だ。
やっていることに誇りを持ち使命感がある分、シリアルキラーにもなりやすいと思う。
この映画の犯人は狂信的信者でもあるが殺すことに快感を覚えるようになって、殺さないと眠れないほどになっており、周囲をうまく利用したような気もする。
この映画をイスラム社会は許容したのだろうか、と思っていたら、イラン文化・イスラム指導省が「この映画はサルマン・ラシュディ『悪魔の詩』のような道をたどる」と非難したとのこと。
この作品は「単なる映画」の範疇を超えてしまったようです。
関係者の皆さん、どうかご無事で。
黒頭巾ちゃん気をつけて
開幕早々に犯人は面を割っているので、想像していたよりミステリー要素は希薄だった。あとは追う者と追われる者の攻防ということになるが、女ジャーナリストが自らおとりになる展開は「ああ、やっぱりそうなるか」と気が削がれた。どう考えても無謀すぎるし、実際にはありそうにない。わずかのタイミングの差で主人公は確実に殺されている。
世界には法律よりも戒律が優先される国があり、何なら法律=戒律だったりもするのだろう。日本人には戒律というほどのきびしい宗教的な制約はなく、せいぜい二礼二拍手一礼とか。なので、ラスト彼の国でちゃんと判決どおり死刑が執行されたのは意外だったし、見直した。
娼婦殺しと言えば“切り裂きジャック”だが、あちらは未だに犯人も動機も不明のままらしい。ジャック氏にも宗教的動機があったのだろうか(島田荘司がユニークな説を提示していたが)。肌を露出しないヒジャブが義務付けられている国で街娼が立つというのも、混沌の極みだが。
最近妙に凝った邦題をつける例を散見するが、あざとすぎて鼻白む。この映画も「聖なる蜘蛛」か「スパイダー・キラー」でよくないか。
宗教の怖さでもイスラム特有の問題でもない
もうみなさん書いているので付け加えることはないのですが、
これは「イスラム教は怖い」でもイスラム教圏という局地の問題でもなく、ミソジニーを大袈裟に描けばこうなるし、問題の基底の部分は日本も含む他の国でも大差はないと思いました。
やはり恐るべきは犯人が捕まった後のシークエンスですよね。
あと彼女はあいつにキスしてはいけなかったと思う。
すぐ隣にある現実かもしれない怖さ
実在した連続殺人事件を元にしたストーリーであり、全ての被害者が女性であることから、「殺人の追憶」に通ずる鑑後感。淡々とした犯罪シーンを何度も見せつけられるのが辛かった。正義感に溺れる市井の人の行き過ぎた行動は、すぐそこにある現実。両方の正義があり、殺人犯の妻や子供だけでなく世間の言動など、一方を完全否定できないところが、実に恐ろしかった。本編の中で、「蜘蛛」は犯人の標的となる娼婦たちを指していたが、タイトルに込めた蜘蛛は、犯行のきっかけとなる正義が信仰からくるもであり、その正義感=信仰心に犯人が囚われてしまっているという事も意味しているのではないかと感じた。
新味無し。
世界の何処かではこんなに酷い事が実際にあったらしいです、
怖いよね、
知らなきゃ駄目でしょ、
リアル調だからエンタメ要素少ない方が尤もらしいよね?
行政や司法の欺瞞も入れました、
以上。
な一本かな。
要は新味無くツマラン。
等速直線運動
サスペンスという程、
撮り方、編集で煽る事もなく、
ホラーという程、
音楽を使うこともなく、
相変わらずの、
作品の切り口は、
!となるが、
そのまま等速直線運動、
熱量も感じられない、
淡々と物語は進む。
凶行場面も淡々なので、
かえって恐怖感を感じるひともいるかもしれない。
問題は後半?
という事でもない。
あくまでも事実に沿っただけで、
判決後に検事が言っていたようなケースもあり得るという事?
確かに鑑賞後、
自分が蜘蛛の巣に絡まったような気分になったのは間違いない。
憎悪が引き継がれる
元兵士の建築屋の男が、イランの聖地マシュハドで娼婦を殺害する話で、地域と家庭に愛されている男が、無慈悲に次々と犯行を重ねます。
映画自体は、丁寧に作られおりとてもリアルで、エンディングも見事です。
イランは宗教により、女性に規制が厳しく男性社会ですが、犯人の男は妻にはとても優しく接しています。
聖地マシュハドを汚している娼婦を排除する行為なので、殺人にたいする良心の呵責もありません。
イスラム教に反しているならば、娼婦自体を取り締まれば良いし、その原因の貧困について改善する必要があるのだと思います。
日本人から見ると、犯人は行き過ぎた男性優位の宗教偏重の社会が生んだ、中二病男子の様に思えます。
また悲しき現実を映画によって突きつけられる
文化的途上国、もしくは女性蔑視国での現実を映画で知るのはいつも悲しいけれど、目を逸らさないでという映画監督たちの訴えをまた目の当たりにすることになった(自分がそういう映画を選んで鑑賞しているのだろうけど)。
主人公の女性の身体を張った奮闘が実ったのを観て安心したのも束の間、最後のシーンで夜行バスで主人公が観る犯人の息子の映像は、彼女が最も恐れていたであろう、こういう世界にありがちな負の連鎖で、そこにこそ監督の掲げるイスラム社会の問題が表されているんだと思った。
いずれにせよ、休みの日の朝に観るには重すぎるテーマだった…
アップリンク吉祥寺は初訪問。清潔で映画のセレクションがとても良い映画館でした。再訪決定。
怒りに震え、ぞっとした
貧困ゆえに身を売る売春婦を、浄化と称して殺害した連続殺人犯サイード・ハナイの実話を元に描かれた作品。
怒りにふるえ、ぞっとした。
この映画の核心は、サイードが捕まった後半からといえる。
そもそも淫らな欲求を満たしているのは男性の方で、女性側ではない。売春婦を堕落した存在で死に値するというのならば、買う男も堕落しているじゃないか。
商売としてセックスが男女対等に成立している場所はあるにはあるし、好んでそれを選ぶ女性は皆無ではないだろうが、売春を生業とする女性はほとんどの場合、生活の術としてそれしか選択肢がないのではいか。
女性の登校を禁止→文盲、知識の低さ→働けない→売春業に身をやつす。
この悪循環を生んでいるのは絶対的男性優位社会であり、ひいては売春婦を生む原因となってるのは男性側にあるといえる。
そのことに何故多くの人が気づかないのか?
いや、気づきたくないのだろう。自分たちは「正しく」権力を振るう側の存在で居続けるために。
恐ろしいのは、犯人が捕まった後。殺人犯を讃える世論。殺害された女性の家族に対する、脅迫。夫は正しいことをしたとのたまう妻。
基本的人権の欠如と、神の名を口にすれば赦されるという構造の社会の精神性の恐ろしさ。
中でも嫌悪を感じたのはハナイの妻を筆頭とした、自分の保身しか考えない女たちである。殺された女性たちにも人生があり、悲しむ存在がいることをつゆとも考えない。彼女たちにとって、殺されたのは生まれつき「売春婦」という生き物であって、唾棄すべき存在。
事情があり一時的に体を売ったのでは、などと同情することすらない。自分の娘も、同じように虐げられる可能性のある社会だとも気づかずに。実際、選択の自由がないことに不自由を感じず、偏見を偏見と思わない保守的な女性たちも、イラン女性の内なる敵なのだろう。
本物のハナイは、こう言ったという。
「彼女らは私にとってゴキブリと同じくらい役に立たなかった」
ふざけるな。命はその人自身の物で、生殺与奪権など誰にもない。
以前別の機会で知ったが、ヒジャブの起源は不明とのこと。日除け、民族衣装、土着信仰にイスラムの教えがミックスして今に至るとされる。
元々、古代ローマ時代から十字軍、そして現在に至るまで中東は戦争の歴史。本来は主不在の時、敵による拉致やレイプなどから妻や娘を守るために、美しいところを隠しなさいとしたのでは、という史料見解があり、コーランにはヒジャブそのものの記述はないという。しかし今や、イランではヒジャブ一つで殺されてもおかしくない国になっている。
いつしか教えは権力を振るう者の都合のいいように行使され、女性や子どもを所有物のように扱えるものとなった。
選択の自由を誰もが行使できる世界の実現は遠いと感じる。外からできることは僅かだからだ。
デンマークでつくった!
イラン映画といえば、アッバス・キアロスタミの牧歌的な作風が思い出されるが、本作は対極に位置していると言えるだろう。いや残念ながら本作はイラン映画ではない。イランでは本作は作ることができないことがそのまま、本作の意味であると言ってもあながち間違いではないように思う。イラン出身でデンマークで活動するアッバシ監督が、自身がまだイランにいた頃、2000−01年、イランの聖地マシュハドで発生した連続殺人事件(犯人は16人の娼婦を自宅で殺害し、スパイダー・キラーと呼ばれた)をリアリズム的手法を用いて描いた作品だ。監督は本作を「フィルム・ノワール」と呼んでいるようだが、それだと随分と解釈が広がってしまう気がする。恐らくは主人公のように感情移入できる人物を配さず、観る側に作品の社会的背景も含め客体意識を与える作品構造を言っているのだろう。まるでそこに立ち会っているかのようなリアリズム演出は近年、その手法がとても洗練されてきた。本作も背景となる街並みなども含め、映像の中にある種の緊張感が漲っている。残念ながらイランでのロケは叶わなかった(申請したのは驚き!)ようだが、ロケ地のヨルダンも十分な存在感を見せている。
惜しむらくは、ジャーナリストであるラヒミが創作されたキャラクターであり、やはり存在感としては他の登場人物と比較して、どうしても薄くなってしまうことだろう。これは演者であるエブラヒミの責任ではもちろんない。彼女は振られた役割を、自身の背景も昇華して十二分に演じている。これは監督を含め制作側(彼女も製作陣の一人だが)の話で、ミソジニー(女性蔑視)というテーマを作品に理解しやすい形で提示したい思いと、やはり娯楽性を持たせたい欲が、ラヒミに必要以上のヒロイズムを与えたのではないだろうか?。とはいえ、本作の役者を含めたスタッフ全員に拍手を送りたい。ここに描かれている異常は、間違いなく日常であり、世界中どこででも起こり得ることだと、納得するに十分な作品である。イランから遠く北欧のデンマークでこの作品が制作されたということに文化的なグローバリズムを感じる。どういう経緯があったのか?パンフレットもその辺りに少し触れて欲しかった。
見終わったあともモヤモヤののこる
犯人が処刑されたあとに、息子が、「娼婦に対して何ら対策をとらずにいれば、第二第三のは必ず現れる」といったのが印象的だった。日本に置き換えれば、伊勢神宮のご神域の中で娼婦が商売しているようなものか。民族的宗教的感情から、犯人を無罪にせよと言いたくなる人々がいるのも、わからないでもない。ムスリムにとっての聖地を冒涜しているのだから。もし、これがサウジやアフガニスタンのような原理主義国家だったらどういうことになったであろうか。欧米的思考の限界をみたような思いだ。
予想外の結末?
国をあげての女性蔑視。
貧富の差。
宗教観。
英雄を鼓舞する男たちのなかに、どれほどの数の利用者がいたのか。
彼はいったい、何を目的に?
そこがわからないまま、でも最後は結局、汚職なのか。
そこがまかり通らなかったところは、痛快。
いや、でも、待って?
最後、なに?
過去形で語られてる言葉に...ん?
マジか。
とことん、怖い国だな、と思ってしまう。
作り手の強い主張が見える苛烈な作風
「人間が最も怖い」タイプの作品。確信犯的なシリアルキラーの犯行と公判を巡る世間・警察・家族の反応を通して、凝り固まった価値観や序列意識の恐ろしさが描かれていた。
作中の多数派の価値観は、宗教上のルールに加え、彼らが生活する上で連綿と培われてきた文化や歴史とも切り離せないもので、彼らの属する社会の秩序でもある。その構造はおそらく外から変えることはできないだろうが、外からでなければ本作のような視点では描けなかっただろう。
その皮肉な関係は、作品のニュース記事に掲載された、この映画を完成させるための紆余曲折からも伺えた。そういう背景があるせいか、もともとの作品構成なのかわからないが、作り手の視点がやや一方に偏り、攻撃的すぎるようにも見えた。
我々の暮らしの中でも、被害者に対し「そうされても仕方ない」というコメントをネット内外で見かける。この作品内で起きたことを「遠い場所の実在事件を脚色したもの」とせず、襟を正す材料にしたい。
面白いけど
観ててハラハラするしね。どうなるんだろうって。
テーマもはっきりしてて分かりやすい。
ただこれ観てね、じゃあどうすんのって言われると、どうしようかってなる。
根っこのところに貧しさと男尊女卑があると思うの。
それで、それ、どうすんのってなると、どうするんだろうって。
イスラム教国でも男女同権を確立すべしって運動すんのかっていうと、それはちょっと違うだろうなあ。
ただフィクションを通じて、イスラム教国の現実を少し知ったっていうのは良かったんだろうな。いつか、どこかで、判断迫られたときに、少しだけましな判断を下せるかも知れないしね。
道徳という名の魔女狩りはなくならないのか
昨年、テヘランで女性の頭髪を取り締まる道徳警察に逮捕された女性が亡くなった。頭髪を取り締まるとは、悪いヒジャブの付け方をしていないかどうかを取り締まることである。その後、抗議デモが広がったが、抗議デモに参加した女性達も警察の拘束後に亡くなっている。
連続殺人を起こしたサイードは敬虔なイスラム教徒であり、イランイラク戦争では戦死も厭わない程に軍人として祖国に尽くした。家庭では、良き夫良き父親である。彼の行為はPTSDによる可能性もある。しかし、娼婦に向けられたヘイトはPTSDだけが理由ではない気がした。
サイードはどんなに模範的に生きても国家に尽くしても社会に認められなかった。サイードは自身の虚しさを感じない様に怒りの矛先が必要だった。道徳心=不浄なものを浄化するというサイードの大義は、後付けに他ならない。
この間違った大義は、サイードだけに限ったことではない。それは、私にもあなたにも、一部の特権階級を除いた全人類に普遍的なテーマなのだ。例え私が国家の為に命を投げ出したとしても、国家にとってはただ一人の人間が死んだだけのことである。言いようのない怒りが湧いても、怒りの矛先は権力には向かないで弱者に向く。
特に慢性的な貧困と暴力が蔓延る社会では、誰もが容易くサイードになり得るし、娼婦にもなり得る。
日本においても貧困化の進行度と比例して、堂々と差別発言する人(特に男性)が増えたと感じる。高度経済成長期、バブル期には特に優秀でなくても男性であれば妻子を養う程度の賃金はもらえた。こういった男の沽券や面目が保持できなくなったことも差別発言に影響していると思う。
私はサイードと堂々と差別発言をする日本男性が被って見えた。また、サイードを支持した男性達と差別発言に同調する良き夫良き父親である日本人が同じに見えた。
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