聖地には蜘蛛が巣を張るのレビュー・感想・評価
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一筋縄では行かない事件の背景を描く
2000年〜2001年にかけてイランで実際に起きた
「娼婦16人殺害事件」
監督のアリ・アッバシは、イランにいた2000年当時20代の若者で、
実際の事件を見聞きしている。
殺人犯サイードが「娼婦殺しは街の浄化である」
そう言い切るサイードは全く罪悪感を感じていない。
しかも多くの市民がそれを支持する様子を傍観していた。
スウェーデンの大学に進学してそれから20年が経つ。
アッバシ監督は前作の『ボーダー二つの世界』の成功で今作の資金調達に
道筋がつく。
イランでの撮影許可は下りず、ヨレダンで撮影を敢行する。
一見センセーショナルな「娼婦16人殺害事件」
その事件の取材に関心を持ち解決に導く努力をするのが、
女性ジャーナリストのラヒミ。
彼女は囮捜査まで敢行してサィードの検挙に導く。
彼女の徹底的な不信感。
警察を疑い、弁護人を疑い、検事も疑う。
実際に演じたザーラ・アミール・エブラヒミはSNSの
中傷によりイランを捨ててフランスに活動を移した女優である。
その硬い表情に世界への不信感がリアルに浮かぶ。
そして自分の殺人を「街の浄化である」と主張して
「正しいことをやった」と堂々と語る犯人サイード。
聖地アシュハドの街娼は「殺しても構わない有害な存在」
一般市民やサィードの妻、母親などの家族が英雄視される
サィードを認める。
この映画で何より恐ろしかったのは、サイードの息子のアリ。
まだ少年であるアリが幼い妹を実際に被害者に見立てて、
殺人を再現するシーン。
その嬉々とした表情に第二のサィードの狂気を引き継ぐ姿を
見てしまう!!
イランに限らず女性蔑視、女性嫌悪、女性差別は根強く残っている。
狂気に満ちた世界。
冒頭で暗闇に一本のハイウェイが俯瞰で写されて、
聖地マシュハドの全景の夜景が蜘蛛の巣のように開けて行く。
聖地は殉教者も娼婦も殺人者も呑み込んで、
闇に大きく蜘蛛の巣を張る。
イランの聖地で起きた娼婦連続殺人と世界の繋がり
実話に基づいた映画
映画が作られる元の話は、2000年から2001年のイラン第2の都市であり、シーア派の聖地でもあるマシュハドで起きた娼婦連続殺人事件である。16人の娼婦が犠牲となった。この事件を題材にした映画はこれが初めてではなく、「キラー・スパイダー」という映画が既にあった。この映画の製作者は今回映画を盗作だと主張しているらしいが、鑑賞する側としては、別の視点で事件を見ることが出来るので歓迎だ。
事件の背景に宗教の聖地の保守的な雰囲気
殺人の対象はすべて娼婦であり薬漬けにまでなっているものもいる。そんな彼女たちを殺して「浄化した」と新聞社に事を起こす度に通報するという行動に彼になかにある歪んだ正義感、偏狭な世界観が浮かび上がる。街を恐怖に陥れた事件だとしているが、犯人の行動パターンは知れ渡っており、犯人を英雄視する雰囲気があり、それが逮捕後に大きな運動となる。この映画は「イラン政府への批判でも、腐敗した中東社会に対する批判でもない。一部の人達、中でも女性に対する人間性の抹殺は、イランに限ったことではなく、世界中のあらゆる場所で起きている。(映画の公式HP日本版「『聖地には蜘蛛が巣を張る』が描くもの」より)と説明しているが、当のイラン政府がそう理解しないことが想像できる。実際、イランの文化・イスラーム指導省の映画機関は、カンヌ国際映画祭が本作に女優賞を授与したことを「政治的な意図を持った侮辱的な動き」と非難する声明を発表したとのことである。
本当の驚きは最後に
ストーリーは殺人犯は誰かというようなものではないし、犯人とそれを追うジャーナリストの駆け引きというようなサスペンスでも全くない。だから殺人事件の犯人が捕まって終わり、ではない。映画の展開は後半になるほど目まぐるしくなる。犯人の有罪が確定してもまだ終わらない。最後が女性ジャーナリストが取材を終えて現地から離れた後なのだ。
近年には稀な生々しい殺人の描写
殺人犯の残虐な殺人の様子が生々しく描写されている。なぜここまで残酷なシーンを見せる必要があるのか。オカルト映画的な表現もある。事件の残忍性を伝えるための描写とする評論もある。その生々しい描写が映画の最後に見事に繋がるので、最後まで見放せない。宗教の聖地だからこそ起きた事件なのか欧州の国は時に「表現の自由」を振りかざし、ムスリムとの摩擦を引き起こす。ムスリム女性の人権が十分に尊重されていないという問題は存在しないとはいえない。しかしながら筆者が想像するに、イラン・イラク戦争後のイランでこのような事件が起きる環境を作ったのは、イランだけに責任のある問題とは言えないのであるまいかと思うのである。約10年に及んだこの戦争で、国は疲弊したはずだし、多くの男性兵士が犠牲になったであろう。当然、その兵士には家族があり、家族にとっては大黒柱を失ったことだろう。ただでさえ米国の経済制裁により一般の市民の生活も楽ではないはずだ。そのような遺族の生活はどうなるのか。
遺族が救済されない理由とは
イスラムは一夫多妻制が認められているので、男性は未亡人を第2、第3の妻に迎えることができる。これは本来、ジハードで夫を亡くした女性の生計を助けるための制度であるらしい。では、イラン・イラク戦争で犠牲になった兵士の妻は救済されたのであろうか。筆者はそのような人は極めて少なかったと考える。なぜなら、この戦争に明確な勝者はないから、戦利品も賠償金もない。したがって、第2、第3の妻を迎えて生活していく経済力のある人も発生しない。さらにイラン革命から敵対する米国からの経済制裁を受けているため経済的にも困窮している。このため、第2、第3の妻を娶った男性はほとんどいなかったであろう。それまで多妻制のなかで暮らせていた女性が捨てられたケースもあったのではないか。こうしたなか要因も、聖地に困窮者が集まる要素ではなかったか。そもそもイランで困窮者が生まれる事情についても考察しなければこの事件の背景を理解したことにはならないと筆者は考える。
聖なる蜘蛛たち
蜘蛛は多くの人にとっては歓迎されないが、害虫なども食べてくれるの益虫でもあり、地球上の生態系のバランスを調整する働きを担っているといえる生物である。この事件で直接的に蜘蛛として表現されたのは犠牲者となった娼婦たちであった。イランで蜘蛛とはどのように理解されている生物なのかはわからなかったが、犯人の表現だとすると否定的な意味の可能性がある。冒頭に映し出されたマシュハドの夜景は蜘蛛(あるいは蜘蛛の巣)を形作っているようだった。昼間はシーア派の聖地という顔を持つが、夜には彼女たちのような蜘蛛を生み出す顔がある、そうした比喩がこめられていたのだろうか。犠牲者たちは腐敗しているから蜘蛛になったのではない。一人一人が尊厳ある人間で懸命に生きていたのだということをこの映画のタイトルから想う。
イランのシリアルキラーの話
売る側だけを悪し様にゆうなよ。買う側も罰しろよ。
春にみのがしてて、次の機会を待ってた。見られてよかった。
正義とは、社会とは?
まず、文化が違うという事はこれほどまでに通念や考え方が違う事なのかと驚いた。
17人を殺害しながら、本人だけでなく周りもそれを浄化だと言う構図は、外から見れば異常だが、狂気は1人でなければ狂気ではなくなるのだといわんばかりの描写にぞっとする。
サイードは徐々に殺害に快楽を感じているようにも見え、報道されないことに苛立ち自己顕示欲までもをさらけ出していく。
さらに逮捕後、ますます自信を帯びた顔になり、支持者の存在を得て自分の正当性に確信を得ていく様がおぞましく表現されていく。
笑った顔がだんだんと気味が悪くなっていく演技が凄まじい。
娼婦たちを、狂った信念で絞め殺したのがサイードとそれを支持する世論だとすると、サイードを絞め殺したものはなんだったのか。彼らの神とは、どちら側なのか。この社会の法とは?
社会全体が狂っていたとしたら、その犠牲者はどうなるんだろう。どこを正義とするのだろう。
いつでも、人は社会と隣り合わせだ。
そして、ラストシーンは戦慄だった。
等速直線運動
聖なる蜘蛛
連続娼婦殺人事件の犯人を捕まえるために主人公が囮になる、ようやく捕まった犯人は一部で英雄視され、社会全体(警察やお役所すら!)から養護され優遇され、子供もあとを継ぎそうで、思想の次世代への連鎖を匂わせる、だいたい想像通りの展開と結末。
娼婦が聖地を冒涜する街の汚物なら、買う方はどうなんだ、という真っ当な問いをしたところで意味を持たない社会、男尊女卑、ミソジニーが「正論」とされるところは世界中でかなりあると思う。少女を暴行した成人男性が無罪になり、被害者のほうが男と密通した等の罪に問われる理不尽極まりない話も珍しくない。
こういう問題は、「目新しさがない」くらいしつこく世界中に言い続けて共有したらいいのだ。
また、狂信的信者タイプの犯罪者は厄介だ。
やっていることに誇りを持ち使命感がある分、シリアルキラーにもなりやすいと思う。
この映画の犯人は狂信的信者でもあるが殺すことに快感を覚えるようになって、殺さないと眠れないほどになっており、周囲をうまく利用したような気もする。
この映画をイスラム社会は許容したのだろうか、と思っていたら、イラン文化・イスラム指導省が「この映画はサルマン・ラシュディ『悪魔の詩』のような道をたどる」と非難したとのこと。
この作品は「単なる映画」の範疇を超えてしまったようです。
関係者の皆さん、どうかご無事で。
黒頭巾ちゃん気をつけて
開幕早々に犯人は面を割っているので、想像していたよりミステリー要素は希薄だった。あとは追う者と追われる者の攻防ということになるが、女ジャーナリストが自らおとりになる展開は「ああ、やっぱりそうなるか」と気が削がれた。どう考えても無謀すぎるし、実際にはありそうにない。わずかのタイミングの差で主人公は確実に殺されている。
世界には法律よりも戒律が優先される国があり、何なら法律=戒律だったりもするのだろう。日本人には戒律というほどのきびしい宗教的な制約はなく、せいぜい二礼二拍手一礼とか。なので、ラスト彼の国でちゃんと判決どおり死刑が執行されたのは意外だったし、見直した。
娼婦殺しと言えば“切り裂きジャック”だが、あちらは未だに犯人も動機も不明のままらしい。ジャック氏にも宗教的動機があったのだろうか(島田荘司がユニークな説を提示していたが)。肌を露出しないヒジャブが義務付けられている国で街娼が立つというのも、混沌の極みだが。
最近妙に凝った邦題をつける例を散見するが、あざとすぎて鼻白む。この映画も「聖なる蜘蛛」か「スパイダー・キラー」でよくないか。
宗教の怖さでもイスラム特有の問題でもない
すぐ隣にある現実かもしれない怖さ
実在した連続殺人事件を元にしたストーリーであり、全ての被害者が女性であることから、「殺人の追憶」に通ずる鑑後感。淡々とした犯罪シーンを何度も見せつけられるのが辛かった。正義感に溺れる市井の人の行き過ぎた行動は、すぐそこにある現実。両方の正義があり、殺人犯の妻や子供だけでなく世間の言動など、一方を完全否定できないところが、実に恐ろしかった。本編の中で、「蜘蛛」は犯人の標的となる娼婦たちを指していたが、タイトルに込めた蜘蛛は、犯行のきっかけとなる正義が信仰からくるもであり、その正義感=信仰心に犯人が囚われてしまっているという事も意味しているのではないかと感じた。
新味無し。
等速直線運動
憎悪が引き継がれる
また悲しき現実を映画によって突きつけられる
文化的途上国、もしくは女性蔑視国での現実を映画で知るのはいつも悲しいけれど、目を逸らさないでという映画監督たちの訴えをまた目の当たりにすることになった(自分がそういう映画を選んで鑑賞しているのだろうけど)。
主人公の女性の身体を張った奮闘が実ったのを観て安心したのも束の間、最後のシーンで夜行バスで主人公が観る犯人の息子の映像は、彼女が最も恐れていたであろう、こういう世界にありがちな負の連鎖で、そこにこそ監督の掲げるイスラム社会の問題が表されているんだと思った。
いずれにせよ、休みの日の朝に観るには重すぎるテーマだった…
アップリンク吉祥寺は初訪問。清潔で映画のセレクションがとても良い映画館でした。再訪決定。
怒りに震え、ぞっとした
貧困ゆえに身を売る売春婦を、浄化と称して殺害した連続殺人犯サイード・ハナイの実話を元に描かれた作品。
怒りにふるえ、ぞっとした。
この映画の核心は、サイードが捕まった後半からといえる。
そもそも淫らな欲求を満たしているのは男性の方で、女性側ではない。売春婦を堕落した存在で死に値するというのならば、買う男も堕落しているじゃないか。
商売としてセックスが男女対等に成立している場所はあるにはあるし、好んでそれを選ぶ女性は皆無ではないだろうが、売春を生業とする女性はほとんどの場合、生活の術としてそれしか選択肢がないのではいか。
女性の登校を禁止→文盲、知識の低さ→働けない→売春業に身をやつす。
この悪循環を生んでいるのは絶対的男性優位社会であり、ひいては売春婦を生む原因となってるのは男性側にあるといえる。
そのことに何故多くの人が気づかないのか?
いや、気づきたくないのだろう。自分たちは「正しく」権力を振るう側の存在で居続けるために。
恐ろしいのは、犯人が捕まった後。殺人犯を讃える世論。殺害された女性の家族に対する、脅迫。夫は正しいことをしたとのたまう妻。
基本的人権の欠如と、神の名を口にすれば赦されるという構造の社会の精神性の恐ろしさ。
中でも嫌悪を感じたのはハナイの妻を筆頭とした、自分の保身しか考えない女たちである。殺された女性たちにも人生があり、悲しむ存在がいることをつゆとも考えない。彼女たちにとって、殺されたのは生まれつき「売春婦」という生き物であって、唾棄すべき存在。
事情があり一時的に体を売ったのでは、などと同情することすらない。自分の娘も、同じように虐げられる可能性のある社会だとも気づかずに。実際、選択の自由がないことに不自由を感じず、偏見を偏見と思わない保守的な女性たちも、イラン女性の内なる敵なのだろう。
本物のハナイは、こう言ったという。
「彼女らは私にとってゴキブリと同じくらい役に立たなかった」
ふざけるな。命はその人自身の物で、生殺与奪権など誰にもない。
以前別の機会で知ったが、ヒジャブの起源は不明とのこと。日除け、民族衣装、土着信仰にイスラムの教えがミックスして今に至るとされる。
元々、古代ローマ時代から十字軍、そして現在に至るまで中東は戦争の歴史。本来は主不在の時、敵による拉致やレイプなどから妻や娘を守るために、美しいところを隠しなさいとしたのでは、という史料見解があり、コーランにはヒジャブそのものの記述はないという。しかし今や、イランではヒジャブ一つで殺されてもおかしくない国になっている。
いつしか教えは権力を振るう者の都合のいいように行使され、女性や子どもを所有物のように扱えるものとなった。
選択の自由を誰もが行使できる世界の実現は遠いと感じる。外からできることは僅かだからだ。
デンマークでつくった!
イラン映画といえば、アッバス・キアロスタミの牧歌的な作風が思い出されるが、本作は対極に位置していると言えるだろう。いや残念ながら本作はイラン映画ではない。イランでは本作は作ることができないことがそのまま、本作の意味であると言ってもあながち間違いではないように思う。イラン出身でデンマークで活動するアッバシ監督が、自身がまだイランにいた頃、2000−01年、イランの聖地マシュハドで発生した連続殺人事件(犯人は16人の娼婦を自宅で殺害し、スパイダー・キラーと呼ばれた)をリアリズム的手法を用いて描いた作品だ。監督は本作を「フィルム・ノワール」と呼んでいるようだが、それだと随分と解釈が広がってしまう気がする。恐らくは主人公のように感情移入できる人物を配さず、観る側に作品の社会的背景も含め客体意識を与える作品構造を言っているのだろう。まるでそこに立ち会っているかのようなリアリズム演出は近年、その手法がとても洗練されてきた。本作も背景となる街並みなども含め、映像の中にある種の緊張感が漲っている。残念ながらイランでのロケは叶わなかった(申請したのは驚き!)ようだが、ロケ地のヨルダンも十分な存在感を見せている。
惜しむらくは、ジャーナリストであるラヒミが創作されたキャラクターであり、やはり存在感としては他の登場人物と比較して、どうしても薄くなってしまうことだろう。これは演者であるエブラヒミの責任ではもちろんない。彼女は振られた役割を、自身の背景も昇華して十二分に演じている。これは監督を含め制作側(彼女も製作陣の一人だが)の話で、ミソジニー(女性蔑視)というテーマを作品に理解しやすい形で提示したい思いと、やはり娯楽性を持たせたい欲が、ラヒミに必要以上のヒロイズムを与えたのではないだろうか?。とはいえ、本作の役者を含めたスタッフ全員に拍手を送りたい。ここに描かれている異常は、間違いなく日常であり、世界中どこででも起こり得ることだと、納得するに十分な作品である。イランから遠く北欧のデンマークでこの作品が制作されたということに文化的なグローバリズムを感じる。どういう経緯があったのか?パンフレットもその辺りに少し触れて欲しかった。
見終わったあともモヤモヤののこる
犯人が処刑されたあとに、息子が、「娼婦に対して何ら対策をとらずにいれば、第二第三のは必ず現れる」といったのが印象的だった。日本に置き換えれば、伊勢神宮のご神域の中で娼婦が商売しているようなものか。民族的宗教的感情から、犯人を無罪にせよと言いたくなる人々がいるのも、わからないでもない。ムスリムにとっての聖地を冒涜しているのだから。もし、これがサウジやアフガニスタンのような原理主義国家だったらどういうことになったであろうか。欧米的思考の限界をみたような思いだ。
予想外の結末?
作り手の強い主張が見える苛烈な作風
「人間が最も怖い」タイプの作品。確信犯的なシリアルキラーの犯行と公判を巡る世間・警察・家族の反応を通して、凝り固まった価値観や序列意識の恐ろしさが描かれていた。
作中の多数派の価値観は、宗教上のルールに加え、彼らが生活する上で連綿と培われてきた文化や歴史とも切り離せないもので、彼らの属する社会の秩序でもある。その構造はおそらく外から変えることはできないだろうが、外からでなければ本作のような視点では描けなかっただろう。
その皮肉な関係は、作品のニュース記事に掲載された、この映画を完成させるための紆余曲折からも伺えた。そういう背景があるせいか、もともとの作品構成なのかわからないが、作り手の視点がやや一方に偏り、攻撃的すぎるようにも見えた。
我々の暮らしの中でも、被害者に対し「そうされても仕方ない」というコメントをネット内外で見かける。この作品内で起きたことを「遠い場所の実在事件を脚色したもの」とせず、襟を正す材料にしたい。
全115件中、21~40件目を表示