戦争と女の顔のレビュー・感想・評価
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やるせない
全編通して暗い訳ではないが、どうにもならない行き場のない悲壮感の水圧みたいなものに息苦しさで溺れそう。
子どもが亡くなるまでの写し方に愛情がこもっている分辛く、最後のシーンの子は癒しだというのもまたそこに繋がってきて悲惨な時代を知らない無垢な存在だけが持つ力を感じました。
原案と視点から女性がクローズアップされているけど、男も女も戦争が始まったら否が応でもその場や国にいるだけでその人の立場ごとに色々な形で当事者になってしまう。日常が大きな影の下に覆われてその人の世界を暗くしてしまう。
罪に触れずにいること自体が難しく、辛い状況と同じくらいに思いやりや優しさも存在しているのに戦争以前にはけして戻れないのだと、痛みを知らない別の色に置き換えていかないと生きていけない。そんな精神的な不安定感が繊細で綺麗な写し方で細やかな撮り方で絵作りが素敵でした。
マーシャの強い生きる力も必要に感じるし、上流階級の母さんもしっかり現実を見てものを喋っていて嫌いじゃなかった。
それと、タイトルについて暫くなぜノッポなのか考えていたんだけど、最後のビンタでハッとしました。
戦争になるときっと何かしらで有能で役に立つ人間じゃないと存在価値を否定されて生きていかなきゃいけない空気が濃くなると思うんです。そんな時にノッポ(ロシアでもデクの棒的な意味を含んだあだ名らしい)と呼ばれるのって辛い立場になるだろうなと。
ただ作中では戦争で傷ついた周りの人からノッポの優しさや寡黙さが静かに愛されていて好ましく思われている事が伝わってきて、イーヤの存在価値が無いようには全く見えず寧ろ薬の様に必要に見えるところがこの映画の救いになっているなと泣けてしまった。
前線に出ない女やその他の男を=ノッポとして見ても良いかもしれない。目に見えて傷をおった人も、それ以外や優先されない人達も、傷が見えない様に綺麗に塗られて覆われても長く尾を引くのが戦争の怖さと教えてくれる一本でした。
緑と赤が交錯する
原作は読んでいないので分からないが、多くの女性に聞き取りをし、それをまとめたノンフィクションらしいので、おそらくは大きいストーリーというものはないのだろうと思う。
その原作を原案に物語のあるものに仕立て変えた(原作のままでは映画に出来なかったろうし)わけだから、注目すべきは戦後の生き方についてだったかと思う。
戦争が終われば、はい元通りというわけにはもちろんいかない。
国という大きなものの体力を回復させなければならないし、国民も元の生活に戻るために努力しなければならない。
そして、傷つき回復が見込めない元兵士はもちろんのこと、その家族や、傷ついていなくとも戦中の出来事が尾を引くこともある。
物語冒頭は、起こっている出来事に対して誰も彼も笑っていて、陽気にさえ感じる雰囲気が恐ろしくもあった。泣いたり喚いたり誰もしないのだ。
戦争が終わったことを喜んでいるのかとも考えたが、どうやら違ったらしい。マーシャの登場あたりから雰囲気が変わっていく。
いや、陽気なときでさえ恐ろしさがあったのだから変わっていないのかもしれない。
主人公イーヤは緑。マーシャは赤。この二人の物語が全体を牽引する。
二人が着るセーター。緑色に塗られた壁。緑色の模様に赤く縁取りされた模様があるストール。色味が薄いサーシャの家で緑色のワンピースを着ているマーシャ。
もっと多くの場面で緑と赤は二人のパワーバランス、力関係、影響、などを表す。
それらは複雑に交錯しながらエンディングでは互いのセーターの色が入れ替わる。
イーヤ、マーシャともに、心境をあまり語らないので、二人のことを本当に理解するのは難しい。
悲劇的な出来事に対して笑顔でいる序盤と、ある意味で同じだ。
なので、互いが互いを内包したように見える色の入れ替わったラストの意味するところを理解するのも難しい。
しかし、命を奪うものが戦争であるなら、その対比として生きていこうとする。それだけでも価値のあることなのではないか。
子どもは女性にしか産むことはできないが、産むことができない女性が無価値なわけではないのだ。女性は「産む機械」ではない。
「死」の対極が「生」であるなら生きていくだけでも充分なのである。それがどんな形であれ。
よかった
地味な話でけっこう退屈したのだけど、映画的にずっしりと重いものを見た気がする。子どもが死ぬのはつらい。主人公のでかい女がもっと大暴れするところが見たい。50歳の院長はまだちんちんがたつのかと驚いた。美術も撮影も素晴らしくて、本当に当時のその国で撮影したかのようだ。寒そうだ。路面電車は当時のものがまだあるのだろうか。
友だちの女が金持ちのボンボンの家に行って値踏みされて、逆に言い返すところ、非常に居たたまれない。
1945年、第二次世界大戦直後のソ連・レニングラード。 軍の病院で...
1945年、第二次世界大戦直後のソ連・レニングラード。
軍の病院で働く看護婦イーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)。
大柄な体格から「のっぽ」と周りから呼ばれている。
彼女は、かつて前線で対空砲射撃手を務めた軍人だったが、戦地での後遺症により、ときおり全身が硬直してしまうことがあった。
イーヤは、幼い男児パーシュカをひとりで育てる一方、病院長(アンドレイ・ブコフ)の命によって、他人に口外出来ないことを行っていた。
ある日、パーシュカの子守りをしていたとき、全身硬直の発作が起き、それが原因でパーシュカを死なせてしまう。
それからほどなくして、戦地から戦友のマーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)が帰還する。
同じ対空砲射撃手だったが、同じく軍人だった夫がドイツ軍に殺されたことから、戦地に残って戦っていたのだ。
パーシュカはマーシャが戦地で産んだ子ども。
後遺症によりひと足早く帰還するイーヤに預けたのだった・・・
といったところからはじまる物語で、戦争の傷跡を背景にして女性ふたりの確執が描かれていきます。
画面は暗く、物語は息苦しく重苦しい。
そして少しずつ明らかになっていくイーヤとマーシャの秘密。
少々まだるっこしく感じるかもしれませんが、この「少しずつ」というのがいいのです。
戦地で全身不随となった軍人のエピソード(英雄と党幹部から称えられるも、現状に耐え切れなくなって死を選ぶ)、マーシャに恋人もどきの男性が出来るエピソード(はじめは食料の調達係としかみなしていなかったが、憎めない性格からマーシャも絆されていく)を挟んで、その後・・・
マーシャは、イーヤが帰還してからの戦闘で負傷し、子どもの産めない身体になっていた。
だからこそ、パーシュカを抱きしめることを心の底から楽しみしていたのだが、その希望は失われてしまった。
そんなマーシャは、自分に代わって子どもを産め、とイーヤに頼む。
頼むというより脅しに近い。
パーシュカを殺したことの埋め合わせと、病院内で行っていることを口外されたくなければ、と。
その体格に反して、男性に対して半ば恐怖に近い感情を持っているイーヤにとって、男性との交わりは避けたいものだった。
相手は病院長、とマーシャは告げる・・・
マーシャが付き添っての、イーヤと病院長のシーンは痛々しい。
こういう描写は、最近ではあまり見られない。
しかし、イーヤは妊娠しなかった・・・
戦争が女性たちに残した傷跡は肉体的・精神的なものだけではなかったことが終盤、描かれます。
恋人もどきの男性(彼自身はマーシャを恋人だと思っている)に、両親のもとに連れていかれたマーシャ。
彼の両親は党幹部で邸宅に暮らしており、帰還兵のマーシャとは身分が違う。
マーシャが元軍人だと告げると、男性の母親は「支援部隊の補佐役でしょ」と問いかける。
慰安婦としての役割だろう、と侮蔑しているのである。
マーシャは真実を隠して「そうです」と答え、更に、戦地で生き残るためにしなければならないことを告げる。
(食料を得るために隊の士官と懇ろにならなければならない云々。この台詞は、映画の序盤で、恋人もどきの男性が友人と交わす言葉、「女の兵士は食料を渡せばヤラせる」云々と呼応している)
党幹部の母親が期待する回答をするわけなのだが、戦争が女性たちに残した傷跡は、女性に対する偏見を増長したこともひとつであり、戦争によって階級格差は広がってしまったことをを示唆しているのでしょう。
女性の敵は男性だけではない、ということですね。
恋人もどきの男性と別れたマーシャは、帰途、乗り合わせた路面電車に「のっぽ」の女性が轢かれるの遭遇します。
が、それはイーヤではなかった・・・
何も残されていないイーヤとマーシャ。
どうにかして生きていくしかないふたり・・・
救いようのないエンディング・・・
戦争の傷跡を背景にしてはいますが、イーヤとマーシャのふたりの姿は、現代を生きる女性と大きくは変わらないのかもしれません。
そう考えると、ふたりの痛々しさは、より生々しく感じるかもしれません。
ことし1、2を競う出来の映画だと思いました。
原案となった作品を知る切っ掛けになれば……それに尽きます
名著「戦争は女の顔をしていない」を原案にしているという情報を聞いて本作を鑑賞。原案となった作品は大祖国戦争を経験した女性の声に耳を傾け女性ならではの視点から戦争を描いており、戦争経験を英雄譚としてしまう男性の証言とは違った印象を与え、初めて読んだ時に作者のジャーナリスト魂に震えたのを覚えています。一方、映画内で描かれるストーリーは原案の本中には見当たらず(原語版にはあるのかもしれませんが…詳細は不明です。申し訳ありません)、主人公が近所のおっさんに迫られたり、戦友の子供を事故で亡くしたり、さらには傷痍軍人を看取ってそれが元で無理やり友人のために子どもを作るようSEXを強要されたり……戦争と女性と言う2つのテーマのうちギリギリ女性という部分にしかフォーカスできていないように感じました。
もちろん、主人公の発作は戦争由来の心のキズですし、銃弾と砲弾が飛び交い人がゴミのように死んでいく映像だけが戦争を的確に表現しているとは思いません。ただ、原案となった作品にはリュドミラ・パヴリチェンコのような果敢な女性兵士だけでなく、極寒の地で洗濯に従事したり、男性兵に混じって月経に耐えたり、時には女性であることをひと時だけ思い出し同世代ではしゃいだりと言ったり、さまざまなエピソードを交えることで戦争と女性を破綻なく捉えています。本に出てくる女性たちのエピソードを直接描くことは憚られるかもしれませんが、原案として据えることが必要だったかは疑問で、逆にオリジナルの作品として作った方が良かった気さえしました。
最後に個人的に気になった点として、帰還兵の友人が恋人から両親を紹介され娼婦まがいのことをして戦地を生き抜いたと告白するシーンがあるのですが……原案の中では祖国を愛し、党への忠誠を誓って若くして戦地へ赴いた女性たちが、帰還して近所の人から白い目で見られたり、婚約を破棄されたり、挙げ句は自らの子どもから恐れられたりと言ったエピソードが多く語られており、映画内のような女性の帰還兵の描き方はリスペクトに欠けると感じました。もしかしたらそういった真実・側面もあるのかもしれませんが、原案などとして用いずしっかりとしたリサーチの上でオリジナルの作品として描くべきだと思います。
長々と書き連ねてしまいましたが、原案のファンの戯言です。ただ、映像的には私も素晴らしいと思ったので、この作品を見て原案に少しでも興味を持ってくれたら嬉しいと思います。
悲劇の連続だが、映像が高クオリティ
舞台は、第二次世界大戦終戦直後のレニングラード。独ソ戦での激戦の地である。
軍病院で働くイーヤは、戦友マーシャの子パーシュカを預かっている。ともに従軍していたが、PTSDを患ったイーヤはパーシュカを託され、先に帰国していた。
ところがイーヤはPTSDの発作のため、パーシュカを誤って死なせてしまう。
そこにマーシャが帰ってくる。
出てくるエピソードのほとんどが悲劇的だ。もう、この作品は悲劇の連続と言っていい。戦争イコール悲劇であり、そのことが本作のメッセージなのだから当然といえば当然なんだけれど。
ことさらに暗い演出を徹底しているわけではなく、ときにユーモアを感じるシーンもあるのに、とにかく救いがなく、観ていてズシリとくる。
戦場での戦争は終わっても、人々の戦争は続いている。この事実も重い。
いくつかの伏線を回収して映画はラストに向かう。
クライマックスは、マーシャが、彼女を慕う若者サーシャの住む屋敷に招かれ、サーシャの母親に毒付くシーン。
戦争が、国家が、女性をいかに踏みにじるかという叫びでもあり、その叫びは、サーシャの両親に向けられながらも、返す刀で、自身へのサーシャの純粋な愛情をも壊すのだった。
そして帰途に付くマーシャは、路面電車の事故に遭う。イーヤの安否が不安になったマーシャは家まで走る。
果たして、イーヤは家にいた。
安堵するマーシャ。
イーヤとマーシャは抱き合う。
生きて、そこにいること、それだけで価値があるというメッセージは、一筋の救いを見せてくれる。
マーシャが登場してからというもの、彼女の発する圧がすごい。
我が子を殺されたのだから、当然だろう。
だから、本作を覆う重たさは、戦争そのものというより、託した子を殺した/殺されたという個人的な事件に関する緊張によるものだ。
もちろん、その原因は戦争によって生み出されたものなんだけれども、ラストは、それは個人の赦しや救済が克服してくれる、ということを意味するのだろう。
マーシャは、院長に対し、患者を安楽死させていたことで脅して、イーヤと院長がセックスするように仕向ける。
マーシャは戦場で受けた傷が元で、子を産めない身体になっていた。そこで、イーヤを妊娠させようと考えたのだ。
明らかにイーヤは嫌がっているし、院長も本意ではない。
冷静になれば、マーシャだって、イーヤに好きでもない男性とのセックスを強いることの理不尽は分かるはずだ。
それでも、そうでもしなければ埋まらない心の空白がマーシャにはある。
そして、(後に明らかになることだが)マーシャは、産まれた子をサーシャと結婚して育てようと考えている。
イーヤにはマーシャへの罪悪感がある。イーヤにとって最も耐え難いのは、マーシャが自分から離れること。なぜなら、離れてしまえば罪を償うことが出来なくなるからだ。
だからイーヤは産まれた子どもはマーシャと育てたいと思っているし、それゆえ、こんな無理も受け入れた。
院長は良識ある人で、一度は脅迫に従ったものの、安楽死の件の責任を自分だけで負うために、何も語らず病院を辞めようとした。
イーヤと院長のセックスシーン。イーヤが、それを求めたので、マーシャはイーヤの隣に寝ている。3人は同じベッドにいるのに、まったく違うことを考えている。
こうした状況もまた、戦争が人々を歪めてしまったからだと思うと、やるせない。
上記のように、観ていてあまり楽しい作品ではないんだけど、素晴らしいシーンが頻出して、何度も心を奪われる。
例えば、病院の患者を安楽死させるときに、イーヤがタバコの煙を死にゆく患者に吸わせるシーン。
最後のイーヤとマーシャの抱擁は、2人の服の色の赤と緑が美しい(補色の関係にある)。
内容が気持ちのいいものではなくても、優れた技術で撮った映画は、映像自体の美しさに引き寄せられてしまう、ということだろう。
そしてもちろん、本作はいま、ウクライナで、この地球で起こっている戦争、紛争につながっている。
そこから目を背けないために映画の技術が使われる--これもまた、大衆芸術である映画の役割なのだと再認識させてくれる作品である。
付記
原案「戦争は女の顔をしていない」(アレクシエーヴィチ、岩波現代文庫)はノーベル文学賞受賞作品。
第二次世界大戦のソ連は、もともとあった体制を壊して作った国家のため(さらにはスターリンが粛正をしたため)、ドイツと戦争を始めるにあたって軍隊が未整備だった。
そのため、ソ連は国民を大量に動員し、女性も、その例外ではなかった。100万人以上の女性が前線に送り込まれ(看護婦や後方支援などのためだけではなく)、多くの女性が男性とともに武器を取って戦ったのである。
そうした女性たちの聞き書きを集めたのが本書である。
戦争終結後、戦地から多くの女性兵が復員したが、彼女たちは身を削って国家のために尽くしたにも関わらず、社会からは白い目で見られた。
現代のような平等感やフェミニズムの価値観もない時代である。
戦場で人を殺してきた女、または戦地妻と見て、社会は彼女たちを容認しなかったのである。
そのため、復員してきた女性の多くは、従軍していた事実を隠さなければならなかった。
そして、この本もまた、初めはソ連で出版禁止となっていた。
ちなみに、ソ連の第二次世界大戦の人的被害は凄まじく、戦死者数は1,450万人。敗戦国の日本230万人、ドイツ285万人(いずれも民間人は別)と比較しても突出している。
それほど、ソ連では、あの戦争で人が死んだのである。
独ソ戦の中でも激戦となったのがレニングラード攻防戦である。
レニングラードとは「レーニンの町」という意味で、ソ連は、このレーニンの名前を冠した町が占領されることは絶対に避けたいと考え、ゆえにレニングラードを守る部隊、市民に降伏を禁止した。
そのため、両軍による戦闘が激しかっただけでなく、ドイツに包囲された市内では物資が不足し、多くの市民が餓死するほどであった。「人肉を食べた」という話も残っているほどである(劇中、「町中にイヌがいない」というセリフがあるが、食べ尽くしてしまった、という意味だろう)。本作の舞台は、そういう悲惨なことがあった直後の荒廃したレニングラードなのである。
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