「1945年、第二次世界大戦直後のソ連・レニングラード。 軍の病院で...」戦争と女の顔 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
1945年、第二次世界大戦直後のソ連・レニングラード。 軍の病院で...
1945年、第二次世界大戦直後のソ連・レニングラード。
軍の病院で働く看護婦イーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)。
大柄な体格から「のっぽ」と周りから呼ばれている。
彼女は、かつて前線で対空砲射撃手を務めた軍人だったが、戦地での後遺症により、ときおり全身が硬直してしまうことがあった。
イーヤは、幼い男児パーシュカをひとりで育てる一方、病院長(アンドレイ・ブコフ)の命によって、他人に口外出来ないことを行っていた。
ある日、パーシュカの子守りをしていたとき、全身硬直の発作が起き、それが原因でパーシュカを死なせてしまう。
それからほどなくして、戦地から戦友のマーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)が帰還する。
同じ対空砲射撃手だったが、同じく軍人だった夫がドイツ軍に殺されたことから、戦地に残って戦っていたのだ。
パーシュカはマーシャが戦地で産んだ子ども。
後遺症によりひと足早く帰還するイーヤに預けたのだった・・・
といったところからはじまる物語で、戦争の傷跡を背景にして女性ふたりの確執が描かれていきます。
画面は暗く、物語は息苦しく重苦しい。
そして少しずつ明らかになっていくイーヤとマーシャの秘密。
少々まだるっこしく感じるかもしれませんが、この「少しずつ」というのがいいのです。
戦地で全身不随となった軍人のエピソード(英雄と党幹部から称えられるも、現状に耐え切れなくなって死を選ぶ)、マーシャに恋人もどきの男性が出来るエピソード(はじめは食料の調達係としかみなしていなかったが、憎めない性格からマーシャも絆されていく)を挟んで、その後・・・
マーシャは、イーヤが帰還してからの戦闘で負傷し、子どもの産めない身体になっていた。
だからこそ、パーシュカを抱きしめることを心の底から楽しみしていたのだが、その希望は失われてしまった。
そんなマーシャは、自分に代わって子どもを産め、とイーヤに頼む。
頼むというより脅しに近い。
パーシュカを殺したことの埋め合わせと、病院内で行っていることを口外されたくなければ、と。
その体格に反して、男性に対して半ば恐怖に近い感情を持っているイーヤにとって、男性との交わりは避けたいものだった。
相手は病院長、とマーシャは告げる・・・
マーシャが付き添っての、イーヤと病院長のシーンは痛々しい。
こういう描写は、最近ではあまり見られない。
しかし、イーヤは妊娠しなかった・・・
戦争が女性たちに残した傷跡は肉体的・精神的なものだけではなかったことが終盤、描かれます。
恋人もどきの男性(彼自身はマーシャを恋人だと思っている)に、両親のもとに連れていかれたマーシャ。
彼の両親は党幹部で邸宅に暮らしており、帰還兵のマーシャとは身分が違う。
マーシャが元軍人だと告げると、男性の母親は「支援部隊の補佐役でしょ」と問いかける。
慰安婦としての役割だろう、と侮蔑しているのである。
マーシャは真実を隠して「そうです」と答え、更に、戦地で生き残るためにしなければならないことを告げる。
(食料を得るために隊の士官と懇ろにならなければならない云々。この台詞は、映画の序盤で、恋人もどきの男性が友人と交わす言葉、「女の兵士は食料を渡せばヤラせる」云々と呼応している)
党幹部の母親が期待する回答をするわけなのだが、戦争が女性たちに残した傷跡は、女性に対する偏見を増長したこともひとつであり、戦争によって階級格差は広がってしまったことをを示唆しているのでしょう。
女性の敵は男性だけではない、ということですね。
恋人もどきの男性と別れたマーシャは、帰途、乗り合わせた路面電車に「のっぽ」の女性が轢かれるの遭遇します。
が、それはイーヤではなかった・・・
何も残されていないイーヤとマーシャ。
どうにかして生きていくしかないふたり・・・
救いようのないエンディング・・・
戦争の傷跡を背景にしてはいますが、イーヤとマーシャのふたりの姿は、現代を生きる女性と大きくは変わらないのかもしれません。
そう考えると、ふたりの痛々しさは、より生々しく感じるかもしれません。
ことし1、2を競う出来の映画だと思いました。