「悲劇の連続だが、映像が高クオリティ」戦争と女の顔 しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
悲劇の連続だが、映像が高クオリティ
舞台は、第二次世界大戦終戦直後のレニングラード。独ソ戦での激戦の地である。
軍病院で働くイーヤは、戦友マーシャの子パーシュカを預かっている。ともに従軍していたが、PTSDを患ったイーヤはパーシュカを託され、先に帰国していた。
ところがイーヤはPTSDの発作のため、パーシュカを誤って死なせてしまう。
そこにマーシャが帰ってくる。
出てくるエピソードのほとんどが悲劇的だ。もう、この作品は悲劇の連続と言っていい。戦争イコール悲劇であり、そのことが本作のメッセージなのだから当然といえば当然なんだけれど。
ことさらに暗い演出を徹底しているわけではなく、ときにユーモアを感じるシーンもあるのに、とにかく救いがなく、観ていてズシリとくる。
戦場での戦争は終わっても、人々の戦争は続いている。この事実も重い。
いくつかの伏線を回収して映画はラストに向かう。
クライマックスは、マーシャが、彼女を慕う若者サーシャの住む屋敷に招かれ、サーシャの母親に毒付くシーン。
戦争が、国家が、女性をいかに踏みにじるかという叫びでもあり、その叫びは、サーシャの両親に向けられながらも、返す刀で、自身へのサーシャの純粋な愛情をも壊すのだった。
そして帰途に付くマーシャは、路面電車の事故に遭う。イーヤの安否が不安になったマーシャは家まで走る。
果たして、イーヤは家にいた。
安堵するマーシャ。
イーヤとマーシャは抱き合う。
生きて、そこにいること、それだけで価値があるというメッセージは、一筋の救いを見せてくれる。
マーシャが登場してからというもの、彼女の発する圧がすごい。
我が子を殺されたのだから、当然だろう。
だから、本作を覆う重たさは、戦争そのものというより、託した子を殺した/殺されたという個人的な事件に関する緊張によるものだ。
もちろん、その原因は戦争によって生み出されたものなんだけれども、ラストは、それは個人の赦しや救済が克服してくれる、ということを意味するのだろう。
マーシャは、院長に対し、患者を安楽死させていたことで脅して、イーヤと院長がセックスするように仕向ける。
マーシャは戦場で受けた傷が元で、子を産めない身体になっていた。そこで、イーヤを妊娠させようと考えたのだ。
明らかにイーヤは嫌がっているし、院長も本意ではない。
冷静になれば、マーシャだって、イーヤに好きでもない男性とのセックスを強いることの理不尽は分かるはずだ。
それでも、そうでもしなければ埋まらない心の空白がマーシャにはある。
そして、(後に明らかになることだが)マーシャは、産まれた子をサーシャと結婚して育てようと考えている。
イーヤにはマーシャへの罪悪感がある。イーヤにとって最も耐え難いのは、マーシャが自分から離れること。なぜなら、離れてしまえば罪を償うことが出来なくなるからだ。
だからイーヤは産まれた子どもはマーシャと育てたいと思っているし、それゆえ、こんな無理も受け入れた。
院長は良識ある人で、一度は脅迫に従ったものの、安楽死の件の責任を自分だけで負うために、何も語らず病院を辞めようとした。
イーヤと院長のセックスシーン。イーヤが、それを求めたので、マーシャはイーヤの隣に寝ている。3人は同じベッドにいるのに、まったく違うことを考えている。
こうした状況もまた、戦争が人々を歪めてしまったからだと思うと、やるせない。
上記のように、観ていてあまり楽しい作品ではないんだけど、素晴らしいシーンが頻出して、何度も心を奪われる。
例えば、病院の患者を安楽死させるときに、イーヤがタバコの煙を死にゆく患者に吸わせるシーン。
最後のイーヤとマーシャの抱擁は、2人の服の色の赤と緑が美しい(補色の関係にある)。
内容が気持ちのいいものではなくても、優れた技術で撮った映画は、映像自体の美しさに引き寄せられてしまう、ということだろう。
そしてもちろん、本作はいま、ウクライナで、この地球で起こっている戦争、紛争につながっている。
そこから目を背けないために映画の技術が使われる--これもまた、大衆芸術である映画の役割なのだと再認識させてくれる作品である。
付記
原案「戦争は女の顔をしていない」(アレクシエーヴィチ、岩波現代文庫)はノーベル文学賞受賞作品。
第二次世界大戦のソ連は、もともとあった体制を壊して作った国家のため(さらにはスターリンが粛正をしたため)、ドイツと戦争を始めるにあたって軍隊が未整備だった。
そのため、ソ連は国民を大量に動員し、女性も、その例外ではなかった。100万人以上の女性が前線に送り込まれ(看護婦や後方支援などのためだけではなく)、多くの女性が男性とともに武器を取って戦ったのである。
そうした女性たちの聞き書きを集めたのが本書である。
戦争終結後、戦地から多くの女性兵が復員したが、彼女たちは身を削って国家のために尽くしたにも関わらず、社会からは白い目で見られた。
現代のような平等感やフェミニズムの価値観もない時代である。
戦場で人を殺してきた女、または戦地妻と見て、社会は彼女たちを容認しなかったのである。
そのため、復員してきた女性の多くは、従軍していた事実を隠さなければならなかった。
そして、この本もまた、初めはソ連で出版禁止となっていた。
ちなみに、ソ連の第二次世界大戦の人的被害は凄まじく、戦死者数は1,450万人。敗戦国の日本230万人、ドイツ285万人(いずれも民間人は別)と比較しても突出している。
それほど、ソ連では、あの戦争で人が死んだのである。
独ソ戦の中でも激戦となったのがレニングラード攻防戦である。
レニングラードとは「レーニンの町」という意味で、ソ連は、このレーニンの名前を冠した町が占領されることは絶対に避けたいと考え、ゆえにレニングラードを守る部隊、市民に降伏を禁止した。
そのため、両軍による戦闘が激しかっただけでなく、ドイツに包囲された市内では物資が不足し、多くの市民が餓死するほどであった。「人肉を食べた」という話も残っているほどである(劇中、「町中にイヌがいない」というセリフがあるが、食べ尽くしてしまった、という意味だろう)。本作の舞台は、そういう悲惨なことがあった直後の荒廃したレニングラードなのである。