「大人は自らの現在地について考え、若者は将来へと思いを馳せる」さかなのこ GeorgeBest1968さんの映画レビュー(感想・評価)
大人は自らの現在地について考え、若者は将来へと思いを馳せる
言うまでもないことだが、人の人生はさまざまだ。
その中で、「好きなこと」「好きなもの」を自分の人生のどこに置いて生きていくのか―。
「好きなこと」「好きなもの」を大事にしながら、あくまで趣味のひとつとして生きていく人。現実の厳しさに「好きだったこと」を思い出す余裕もなく、日々を懸命に生き抜く人たちもいる。
「好きなこと」「好きなもの」を人生の中心に据えたまま、豊かな人生を送れる人はそう多くはない。本人の実力や努力に、運や縁がうまく重なった者たちだけが、「好きなこと」で大成功を収めることが可能なのだと思う。世の中には、さかなクンのようになりたいと願い、「好きなこと」を懸命に追いかけながらも、実際にさかなクンのように成功できる人は多くない。
この映画を観て、多くの大人たちは自らの幼少期や学生時代を思い、自分の現在地を考えるに違いない。「自分の中で、好きだったものはどうなったのか」「自分は好きなこととどう折り合いをつけ、生きてきたのか」。一方、これから人生を切り開こうと考える若者や学生さんは、好きを貫く尊さや、そうすることの難しさを思いながら将来について考えるに違いない。この映画は、さかなクンならぬ「ミー坊」の半生をファンタジーを交えてユーモラスに描くと同時に、深く普遍的なテーマを持った作品なのである。
ミー坊役をのんちゃんに託したことが作品の色を決定付けたと言ってもいい。のんちゃんとさかなクンには、どこか似た匂いがする。2人とも、いい意味で子どもがそのまま大きくなったような人物。こういう人間は、ややもすると海千山千の大人社会からはじき出されかねない。実際、のんちゃんも大人の事情でいろいろと遠回りを強いられる境遇に陥った。それでも、「好きは身を助く」。演技や絵画、音楽に対する「好き」を貫き、それを支持する関係者やファンの応援も得てしぶとく成長を繰り返してきた。
周囲の縁にも恵まれ、厳しい経験を経て浮上するミー坊の姿と、のんちゃんの生きざまがシンクロする。また、中性的な魅力にあふれるのんちゃんを主人公に据えることにより、回りくどい恋愛やお色気の要素にほとんど踏み込むことがなく、ストーリーがよりすがすがしいものに仕上がった。
役者さんたちが微妙な表情の変化で、状況を表す表現力が見事だ。のんちゃんと柳楽さん(ヒヨ)が海岸線を連れ立って歩くシーン、レストランでミー坊を笑う恋人に、柳楽さんが嫌悪感を抱くシーン、直後に「お魚博士? ミー坊なら楽勝だよ」と乾杯するシーン。幼馴染みゆえの愛情や絆の深さが画面にあふれている。のんちゃんで言えば、ペットショップで宇野祥平さんと会話するシーン、歯科医で豊原功補さんと向き合うシーンも、表情豊かなのんちゃんの本領発揮だ。磯村勇斗さん、岡山天音さんら不良たちとのシーンは、実に楽しく、笑える会話の連続だ。
沖田監督は、やはりうまい。ミー坊の存在によって家庭にはひびが入ったようだが、そこは具体的に説明しない。レストランの場面でも、ヒヨ(柳楽さん)と恋人の間に何が起きたのかを省き、観客の想像力に委ねている。
開始直後の水族館の場面で、母(井川遥さん)は幼きミー坊に魚の図鑑を手渡す。最終盤の水族館では、ミー坊の幼馴染みで、一時はミー坊のアパートに転がり込んだモモコ(夏帆さん)が、ミー坊が監修した魚の図鑑を娘にプレゼントする。ミー坊に寄せた母親の愛情が、成長したミー坊を経てモモコの娘に引き継がれる。
さかなクンは幼少期のミー坊に影響を与える「ギョギョおじさん」として登場する。話題性を重視しただけの起用と思いきや、これが大きく違う。「ギョギョおじさん」は言わば、さかなクンのようになりたくてもなれなかった大勢の人々を象徴する存在として描かれているのだ。
ミー坊の幼少期、雨の降る路地でミー坊と遭遇するギョギョおじさんの手には、長ネギが入った買い物袋が握られている。時は流れ、「お魚博士」として世に出たミー坊が路地で子どもたちの前に現れると、その手には長ネギ入りの買い物袋が。ミー坊は子どもたちを先導するように、海へと走って行く。ギョギョおじさんの教えや思いが、ミー坊に引き継がれ、それがまた、次世代の子どもたちにもつながって行く。
好きを貫いたところで、誰もがさかなクンやのんちゃんや沖田監督のようになれるわけではない。しかし、さかなクンになれなかった多くの人々がいることで、さかなクンもまた輝く。好きなことに強い愛情を寄せ続け、熱く語る名もなき彼らの教えや情熱が、子どもたちの新たな思いや関心をはぐくみ、次世代のさかなクンを生み出す畑を耕すのだ。