LOVE LIFE : インタビュー
初のベネチアコンペ選出で高評価 深田晃司監督にとっての映画のモチーフは「人間は孤独」
世界3大映画祭のひとつと言われるベネチア国際映画祭のコンペティション部門で、最新作「LOVE LIFE」が披露され、イタリアの日刊紙コリエーレ・デッラ・セーラが5つ星評価の4つ星半、英ガーディアン紙が4つ星を付けるなど、高い評価を受けた深田晃司監督。日本でほぼ同時公開となった本作について、いまだ興奮冷めやらぬなか、現地で語った。(取材、写真/佐藤久理子)
本作は、ある悲劇に見舞われた夫婦の前に妻の前夫が現れたことで、夫婦間の溝が深まっていく過程を描く。妙子と二郎のカップルを木村文乃と永山絢斗が演じ、ろう者である前夫パクを砂田アトムが、さらに二郎と再会する元恋人を山崎紘菜が演じ、きりきりとした四角関係を織りなす。
――深田監督が二十歳のときに、矢野顕子さんの歌「LOVE LIFE」を聴いて強い印象を受けたのが、本作のそもそもの始まりと伺っています。この歌の歌詞は、受け取り方によってはかなり自虐的とも言えますが、どんなところに惹かれたのでしょうか。
まず曲がとても美しいと思ったことです。そして最初は男女の恋愛の歌と思って聴いていたのですが、離れていても愛し合うことができるというのは、いろいろな解釈ができると気づきました。それは恋人同士だけではなく、生きている人と死んでいる人かもしれないし、いろいろな距離が連想できると思ったのが、惹かれた理由のひとつでした。もともと矢野顕子さんの歌はとても多義性があって、<愛している>と彼女が歌うと、そこにいろいろな意味合いが含まれるのが素晴らしいと思ったんです。<微笑みをくれなくてもいいから、生きていてね>というのはどういう意味なんだろうとか、考えさせられるところに惹かれました。
――その思いは20年間ずっと変わらなかった?
そうですね、ずっと好きな歌でしたし、この歌を最高のタイミングで映画館に響かせることが、一番のモチベーションで、それはまったく変わることなく今に至りました。
でも唯一変わったとすれば、この映画の制作中にコロナが起こり、ソーシャル・ディスタンスということが言われるようになって。たとえば会議などもオンラインばかりになり、そういう状況のなかで矢野さんの、「どんなに離れていても愛することはできる」という歌詞の意味が更新されたなと思ったことです。そんなことを考えながらこの映画を作っていました。20年前に撮りたいと思った企画を、普遍的なものにしたいと温めてきましたが、急に時代性を獲得したなと。いま観るべき、観せたい映画になったと思いました。
――最初から夫婦の物語を撮りたいと思われたそうですが、深田監督の作品にはいつも、裏切りや嘘が語られますね。
べつにネガティブなものを作ろうと思っているわけではなく、自分が揺るぎないと思っていること、言わば普遍的だと思うことを描こうとすると、結果的にそういうことになりがちなんですね(笑)。たとえば自分にとって揺るぎないことというのは、人はいつか死ぬこと、そして人間は孤独であるということ。それは生きる上でどうしても向き合わなければいけないことだと思っていて。そこにはネガティブもポジティブもなく、どうしたって逃げることはできない、人生の本質だと思っています。たとえば妙子も二郎もパクさんもみんな、どこかしらで誰かを裏切っていて、特別誰かがひどいわけではない。それも自分のなかでは生きる上での本質なんです。誰だってときには嘘ぐらいつくものなので。
またもともと自分はメロドラマというジャンルが大好きなんですが、本作は僕にとってメロドラマで、メロドラマの面白さというのは恋愛が成就する幸福感よりも、むしろ誰かを選ぶということは誰かを選ばないということの選択であり、恋愛が持っている本質的な残酷さがあると思っているんです。結局幸せな結婚があって、誰かを夫に選ぶということは、別の誰かを夫に選ばないということで。それはもう誰もがそういった残酷な選択をしながら生きている。それがメロドラマというジャンルだと明確に立ち上がってくるわけです。ですので、意地が悪いと思われるかもしれないけれど(笑)、それもまた人間の本質だと思っているんです。
――状況によって気持ちの変わるキャラクターがどこか、とらえどころがないということもまた特徴と言えるかと思います。
もともと人間というのは、人との関係性によってその人間性やおこなう行動が左右されるものだと思っているんです。これはどういうキャラクターなのか、ということを自分はあまり考えない。妙子というキャラクターは、誰かと関係するなかで自分の居場所を見つけてきた人で、それはパクの庇護者であったり、二郎の妻であったり、子供の母親である、そういうところで自分の立ち位置を獲得してきたわけで、それがこの物語のなかでひとつずつ剥ぎ取られていく。そこで彼女の取る行動は、理屈には合わないかもしれないけれど、理屈に合わないことをするのもまた人間だろうということなんです。
――夫婦がお互いに裏切り合うなかで、そこにひとり、手話を使うろう者がいることで人間関係の秘密や緊張感が増していますね。ろう者のキャラクターを思いつかれたきっかけは?
これは四角関係の話で、そこにもうひとつ何か緊張感を足せないかと思ったときに、妙子とパクが共通の言語を持っていて、それが他のふたりにはわからないとなったら、緊張感が出るだろうと思いました。で、その言語を何にするかと考えたとき、毎年開催されている東京国際ろう映画祭というのがありまして、自分はちょうど2018年にワークショップをして欲しいと頼まれたんですね。ほとんどの参加者がろう者の方で、自分は初めてろう者の方々と接する機会があったんです。そこで恥ずかしながら、手話というのがたとえば骨折している人の補助器具のようなものではなく、日本語やフランス語と同じような独立した言語であるということを知りました。しかも空間を使った言語なので、ダイレクトに映像的な言語である。
これはいつか自分の映画のなかで使ってみたいと思ったんです。さらに自分のなかでの大きな意識として、そもそも今回の作品にろう者が出る以前に、自分はこれまでずっと映画を作ってきて、ろう者の方と同じ世界に住んでいながら、ひとりもろう者が出てこなかった、そのことの方が不自然だったんじゃないかと思ったんです。それでパクさんをろう者にしようと決めたんです。
――キャスティングのプロセスはどのようなものでしたか。
木村文乃さんと永山絢斗さんは、みんなで候補者を出した上で、写真のイメージが一番妙子と大沢っぽいと思い、それから実際にお会いして決まりました。その他の方はみなさんオーディションです。パクの役は最初から聴者の俳優を除外していたわけではないですが、オーディションをした上で、やはりろう者の俳優にやって頂くのがいいと思い、砂田アトムさんにお願いしました。
――深田監督の作品は、ご自身の人生観が強く出ている印象があります。
そうですね、まあ自分の世界観だと思うんですけれど、それは出るべきだと思っています。いまの現代社会で家族をモチーフにするとしたら、日本の伝統的な家父長制度が問われると思っているので、そこはやはり表現しないといけない。ただ理想を言えば、映画を観てくれた方が百人いたら百通りの見方があるようなものにしたいと思っています。たとえば自分は映画にテーマやメッセージをこめたいとは思わなくて、ただモチーフがあると。そして自分にとってのモチーフは何かと言われれば、結局人間は孤独だよね、ということ。逆にそれさえ描ければ十分だと思っています。救済や救いや答えを与えるのは映画の役割ではない。それを描こうとした瞬間、それは説教臭くなってしまう。
ただ今回の作品について言えば、人間は孤独であるなかで、それでも誰かと生きざるを得ないものでもあると。それに対して、これまでより半歩踏み出した。それはたぶん矢野顕子さんの歌がベースにあるのが大きいと思います。矢野顕子さんの歌の凄みというのは、愛しているといってもその愛は叶わないかもしれないという前提があって。結局人と人のあいだで距離があるということが前提になっているんですよね。でも矢野さんは生きることの負の部分を前提にしながら、それだけではなく、正の部分もある。そこに引きずられて、これまでの自分の映画に比べると半歩進むことができたのではないかと思います。