ザ・ホエールのレビュー・感想・評価
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スタンダードサイズの映像世界に凝縮されしもの
スクリーン上のスタンダードサイズは、さながら窮屈なアパートのようだ。我々は、この場所からいっさい外へ出ることなく、ソファに座り込んだら立ち上がれなくなる主人公の生活に触れ、死を意識した中での心のうごめきをも覗きこむ。ブレンダン・フレイザーが体現するこの人物は、自らを否定するかのようにオンライン講座でカメラをオフにし、ゾッとするほど暴食を繰り返し、命の危険を指摘されても治療を拒否する始末。ここに映し出されるのは人生の集約図であり、様々な過去や感情の重荷によってすっかり身動きが取れなくなった状況を、メンタルとフィジカルが痛切に相まった形で凝縮させている。ただし、たとえ狭苦しくとも本作にはサッと風を循環させる巧さがある。展開ごとに印象を添える登場人物たち、モビー・ディック、そして主人公が唯一望む娘との絆の回復。全てがラストの光に向けて進んでいく、空間と肉体と精神の一点透視図法のような作品である。
ホン・チャウの名前を覚えておこうと思った
270キロ以上の巨体で家から出られなくなった男は、大学のオンライン授業で顔を見せずに講義を行う。顔を見せないオンラインの通信は、つながっていないようでつながっている、か細い人との関係性を象徴しているようだ。余命いくばくもない彼の元には、宗教の勧誘にきた若い男性と、親友の看護師の女性、そして生き別れになっていた娘。小さなアパートの一室で繰り広げられる会話劇は心の傷を深くえぐってくる。生きるに価する人生を送りたいと誰だって思う。ままならない人生の中で苦しんできた男は、最後に思いがけない救いを他者にもたらし、自らも救われる。 この映画、主演のブレンダン・フレイザーは当然素晴らしいのだけど、看護師リズ役のホン・チャウがすごい。彼女のパフォーマンスはオスカーに値するものだったと思う。 生きているといろんな失敗もして、誰かを傷つけてしまうことはあるけれど、重たいしがらみを引きずっていても悔いのない人生はおくれると強いエールをおくる傑作だった。
ブレンダン・フレイザーの声の良さ。
ブレンダン・フレイザーが、人を惹きつけると同時に安心もさせてくれる、素晴らしい声の持ち主であることを忘れていた。全員を特殊メイクのファットスーツで覆われていても、あの声だけで、この主人公がただ憐れむべき存在ではなく、魅力も知性も備えた人物であることが伝わってくる。大げさに聞こえるかも知れないが、フレイザーが発する主人公の声を聞いた瞬間から、このキャラクターを本質的に信用していい気になった。 正直、たまに脇役を演じている姿を見かけるだけだった近年は、ブレンダン・フレイザーが真価を発揮できていたとは思えなかった。しかし本作では、堂々たる主演スターとして演技力も天賦の才能も存分に発揮している。しかも、相棒役であるホン・チャウの演技も素晴らしくで、社会とは切り離されたところで繋がっている二人の絆が感じられる。 監督の演出力を過小評価するつもりではないが、これはダーレン・アロノフスキーの、というよりも、ブレンダン・フレイザーとホン・チャウの映画だ。そして俳優が屋台骨を支える映画も、作家主義で評価される作品と同じ比重で評価されてしかるべきだと改めて思った。
身を持て余した鯨の決意。
なんて凄まじい映画なのだろう。こんな映画が作れるダーレン・アロノフスキーは、健常者を描いたことがない監督かも知れない。欠落を補うために過剰な無理を強いられる、または強いる自我を持つ存在を主人公に据えて、限界の境界線を描き続けている。 『サ・ホエール』の主人公は、同性の恋人を失った反動で過食症となり太り続けた身体を持て余した男。身を起こすだけでも一苦労、歩行補助器がなければ室内の移動も困難で、テレビのリモコンを手にするためには捕獲棒が必要だ。 タイトルが示す通り巨大な白色鯨への復讐に取り憑かれた片足の船長を描いた小説「白鯨」が重要なモチーフになっている。主人公の日常を見つめていると、自分の住処から出られなくなった哀しき“生きもの”を描いた井伏鱒二の小説「山椒魚」が思い浮かんだ。食べ過ぎたために外に出たいが身動きがとれない。究極のジレンマの中で禅問答のような自問自答が続く。 男は身を持て余す極度の肥満体型だが、彼の思考には一切のブレがない。大学の通信講座でロジカルに語りかけるその声は透明感を保ち、文学表現のインストラクターとして仕事をしている。つまり頭脳明晰なのだ。 「山椒魚」と異なるのは、彼には定期的に訪れて面倒を見てくれる義妹がおり、外界とコンタクトする術がある。稼ぎもあるから特大のピザを2枚注文することもできる。 戯曲が描いた閉塞感を伝えるためにスタンダードを採用したダーレン・アロノフスキー監督は、じっと座り続け、決して清潔とはいえない汗かき男の体臭が染み込んだ壁、ジャンクフードが食い散らかされた部屋の臭気が滲み出すかのような暗い映像で、彼の生態を映し出していく。 冒頭、ある行為に身悶えした男が突然の発作に襲われる。なんとか心を穏やかにするために彼は「白鯨」を評したエッセイを読み始める。だがそれも叶わなくなる。その時、新興宗教の勧誘員がアパートの扉をノックする。「これを読んでくれ今すぐに」と床に落ちた紙に視線を送る。初対面の青年が「鯨を描く場面は退屈だ…」と読み上げる。 その後、青年の朗読によって落ち着きを取り戻した彼のアパートに義妹がやって来る。不審な青年を追い払った彼女は、ルーティンとなっている血圧チェックと呼吸器系の診察を始める。 尋常ではない血圧と肥満した身体に宿った病のために彼の人生はあと僅かだが、断固として入院を拒み続ける。自分が生きた証を示すために何が出来るのか。考えた末に別れて暮らすようになって娘と会うことを決める。 身を持て余した鯨の決意。それは生きることの限界への挑戦である。部屋に引きこもった鯨が起こした行動は、やがて小さな波紋となって広がり、感情が結びついていく物語へと昇華されていく。閉塞感と暗い映像の先には、魂の咆哮が呼ぶ奇跡の瞬間が待つ。映画だからこそ描ける奇跡の描写が胸に突き刺さる。
再起の物語と俳優キャリアの復活を重ねる、ハリウッド得意技の最新事例
かつて妻と娘を捨て同性の恋人との人生を選ぶも、恋人と死別した喪失感から過食症と引きこもりになったチャーリー。肥満体による負担から心不全が悪化し、余命わずかだと悟った彼は、娘との絆を取り戻そうとする。 ファットスーツと特殊メイクで体重272キロのチャーリーをリアルに体現しただけでなく、本編の9割がた居間のソファに座ったままという制約の中、表情と台詞とわずかな体の動きだけで観客の興味を持続させたブレンダン・フレイザーが、今年のアカデミー賞で主演男優賞を受賞。オスカー受賞の前には、ヴェネツィア国際映画祭での本作「ザ・ホエール」のプレミア上映を伝える報道の中で、それまでのフレイザーが度重なる手術、セクハラ被害、離婚を経験してうつ病になり、俳優として低迷していたことを知った映画ファンも多いはず。そんなフレイザーの困難な時期を思いつつ観るなら、自暴自棄で世捨て人のようになっていたチャーリーが一念発起し、鯨のような巨躯を奮い立たせて娘との距離を縮めようとする姿に涙を禁じ得ない。 本作は舞台劇の映画化だが、ダーレン・アロノフスキー監督は過去にも、心臓に難のある中年プロレスラーが人生の再起を賭けて大一番の試合に臨む「レスラー」で、長年低迷していたミッキー・ロークを見事復活させた。アロノフスキー監督のこれら2作に限らず、過去の栄光から転落を経て再起しようと奮闘するキャラクターに、実際にキャリアが低迷していたかつてのスターを起用してカムバックさせるのはハリウッドの得意技。ヒーロー映画で一世を風靡した俳優が再起をかけてブロードウェイの舞台に挑む「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」で主演したマイケル・キートンや、17歳にして大スターになったジュディ・ガーランドが40代の借金生活から起死回生を図る「ジュディ 虹の彼方に」で主演したレニー・ゼルウィガーなどが好例だ。最近の公開作では、ニコラス・ケイジがどん底の俳優ニック・ケイジという自虐的なキャラクターを演じた「マッシブ・タレント」にも、そうした傾向が認められよう。
特殊メイクを施しても尚、輝く個性
最愛の恋人を亡くした喪失感が過食症を招き、272キロにまで膨張した巨体をほぼ一日中、カウチから動かそうとしない大学教授。この設定はかつてブレンダン・フレイザーが『ゴッド・アンド・モンスター』(00)で演じた役柄の逆バージョンだ。あの時、彼が演じる庭師はイアン・マッケラン扮する引退した映画監督の前に現れて、枯渇したクリエイティビティを刺激したのだった。 翻って、この『ザ・ホエール』の主人公、チャーリーが住む家には身の回りの世話をする看護師や離婚した妻や疎遠だった娘やピザ配達人たちがやって来るが、みんなそれぞれに悩みを抱えていてチャーリーの心を癒してはくれない。むしろ、彼らはチャーリーに癒しを求めているようなのだ。 ここで、フレイザーが文字通りオスカー級の名演を披露する。分厚いファットスーツやメイクに囲われていながら、その瞳から隠しようのない優しさが零れ落ちて、劇中の訪問者と、観客までも温かく包み込むのだ。特殊メイクを施しても尚、俳優の個性が輝く好例だと思う。
ブレンダン・フレイザーの渾身の演技に圧倒される!
重度の肥満症となった主人公が部屋のソファにほとんど座っているような異色の室内劇の映画化に挑戦し、緊迫感みなぎるヒューマンドラマに仕上げたアロノフスキー監督の鬼才ぶりに改めて感嘆します。愛するものと疎遠となり、死を意識するほど精神的に追い詰められた人間の心の軌跡を描かせたらこの監督の右に出る者はいないのではないでしょうか。観客は主人公の部屋の中にいるような錯覚に陥るほど息づかいを感じ、登場人物たちの内面世界に連れて行かれます。 そして、毎日メイキャップに4時間を費やし、45キロのファットスーツを着用して40日間の撮影に挑んだフレイザーの渾身の演技に圧倒されます。観客は冒頭からその肥満体型に度肝を抜かれるでしょうが、いつの間にかフレイザー演じるチャーリーの深い悲しみと愛、その人間性に心を震わせられるに違いありません。第95回アカデミー賞助演女優賞にノミネートされたホン・チャウが演じる、チャーリーを支える看護師リズが、ふざけて体をくすぐった時に見せるチャーリーの愛嬌のある笑顔が、この作品の雰囲気を一変させるのです。
罪と罰とセルフネグレクト
どこかでドストエフスキーの「罪と罰」につながっているような気がしてならない。 自罰感情、セルフネグレクトと思しきいきさつにより主人公は ひどく健康を害している。 許すも許さないも、救うも罰を与えるも、 犯した自らの間違いをどう解釈しなおすかにかかっている。 だがとうてい正当化することは出来ず、 他者を拒み、許されぬなら神もまた存在せず、事態は悪化の一途をたどる。 この、自らして許しがたき罪と、際限ないセルフネグレクトという罰。 近所のばあさんを殺め、あれやこれやと神経をすり減らせ、 思案にあけくれたラスコリーニコフをどこか連想させてならなかった。 そうしてもう後戻れない底なしの沼の中を死に向かって溺れ行く中、 主人公の一縷の希望となったのは娘であり、その娘がもたらした偽宗教家の顛末だった。 だからしてすでにセルフネグレクトの傾向がある娘へ、必死に肯定的な言葉を投げかけ立ち直らせようとするが、 これを最後まで身勝手、自己満足と取るのか、 出来る限り最大の優しさと取るのか、 とても複雑だと感じている。 苦悩のまま終わりを遂げる。 一部始終に付き合い、見せつけられる方も容易ではない。 ならどうすればよかったのか。 自罰感情から当人も周りも救うこと。 それは神などではなく、それでも互いが許し合うことの難しさを考えさせられた。
これも重い
今夜(2024/11/02)観ました。 ダーレン・アロノフスキー監督らしさを全面に感じさせる哀しい作品です。 極少数のキャストはいずれも精鋭で、このキャスト以外にはこの作品の大成は成し得なかったと思います。 主演のブレンダン・フレイザーの演技力は、細かな目配せを始め、絞り出す様な声の出し方、本当に苦しそうな息遣いや咳き込み方など、どこを観てもケチの付け所がありません。 娘のエリーを演じたセイディ・シンクは思春期反抗期丸出しの生意気な小娘を見事に演じ、本作の暗い雰囲気に、良くも悪くも明るさや色味を与えてくれています。 義理の娘のリズ、チャーリーの元妻のメアリー、宣教師のトーマス、ピザ屋さんのダンはちょい役でしたが、誰もが魅せ場があって、少しだけ長く感じましたが目が離せませんでした。 アロノフスキー監督らしい辛くて痛くて苦しくて悲しい映画ですが、惹きつける魅力を備えている作品で、スマホも弄らずに集中して観る事ができました。回想シーンに頼らない観せ方に脱帽しました。 重いコンセプトですが価値ある作品です。頭から尻尾まで没頭して観てください!
想像していたものと違った
クジラにまつわる物語だと思って観たが全くクジラは出てこない。大きな鯨のように太った中年の男性が家から出る事も出来ずにいる。だから映画はこの一室だけで完結する。映画なのに舞台を観ているような感じ。特に感情を揺さぶられる事はなかった。娘が気が強めで怖かった。
傲慢
面白かった、と言う表現であってるか判らないけど、面白かったです。人は何処までも傲慢で、死を目の前にして、救いたかったのか赦されたかったのか、私には解りませんでした。 ただ、誰もがもがき幸せを求めている。それに引き込まれたのだと思います。
あの子は邪悪
救いのある話なのかそうで無いのかなかなか微妙。世間から隔絶した男性、肥満による心不全で余命いくばくもないのだがその終末に様々な人が関わってくる。成程主人公の愛に生きた姿その一面だろうが確かに捨てられた家族は堪らない。元妻にしても娘にしてもその後の様子からは同情出来ない気もするのだが。ニューライフの青年は一体何だったのだろう?自己完結して帰っていったが。リズが献身的過ぎてやるせなかった。
人は誰かを救えない
己の欲望のままに生きた主人公が死期を迎えて、娘に過ちを詫びるストーリー。自分勝手に生きて、最後に娘に許されたいって、ちょっとむしが良すぎるなーと思ってしまったわ。俳優の演技はお見事でした。特に看護師役のチャウさんの表情にグッときました。
A24、こうきたか。
過食症のチャーリー、命の危機を告げられても病院へは行かない。もう食べたいだけ食べると言わんばかりにひたすら食べる。食べすぎて戻したり、喉に詰まらせたり、チキンを抱えて食べたり、ピザを2枚ガツガツ食べる姿は観ていてあまり気持ちいいものではない。 でもなかなか奥の深い映画。信仰が関わっていたり、彼氏と暮らすために妻と娘を捨てた過去かりの懺悔の気持ち、彼氏に先立たれた悲しみからの過食症。捨てた娘との絆を取り戻そうとする努力が痛々しい。娘からしたら、何を今更、、、だろう。でも歩けないはずなのに、娘に向かって一歩また一歩と踏み出すチャーリー。なかなか感動的なラスト。
救いはある。
"救済"というと急に陳腐に聞こえるが、人生や死にゆくものにとっての救いというのはやはりいつ、いかなる時であっても存在すると思う。それが何か分からないまま人生を終える人がほとんどかもしれないが。というよりは存在していないとイヤだし、希望くらい持って死を考えたいというのが本音だが。 そんな考え方を肯定し、その"救い"というのは存外些細なものだったりするよ。と希望を与えてくれた本作。
キモすぎる
前半を飛ばしながらしか観てないけど、えげつなさすぎて気持ち悪かったぁ・・・ レビューが良かったんで観ようと思ったんだけど、観る人は覚悟が必要だよ。 たぶん最後辺りに感動の嵐が待ってるんだろうけど、それまで我慢するのはオレには無理だった。
情が湧き起こってくる
器具が無いと立ち上がれないほどの極度肥満のチャーリーを、友人で看護師のリズが面倒をみている。8年前に彼はリズの兄アランと一緒になるために、妻子と別れていた。しかしアランの死が原因で、今の体になってしまっていた。もう先が長くないチャーリーのもとに、8歳で別れた娘エリーがやってきて。 同性愛のために妻子の元を去ったチャーリーに対し、エリーの許せない気持ちはわかります。ストレスのために、ここまで太ってしまったことも共感できない。しかし物語の終盤まで来ると、チャーリーに対する憐憫の情が湧き起こってくるのが不思議でした。そして大事にしていた「白鯨」の感想文で、「人生でたった一つ正しいこと」とチャーリーはまさしく浮かばれる。アメリカでも、浮かばれると言うのか。 特殊メイク前を見るとブレンダン・フレイザーは、ずいぶん肥えたんだな。
愛はそもそも歪なもの
ダーレン・アロノフスキー監督は、『ブラック・スワン』ではナタリー・ポートマン、『レスラー』ではミッキー・ロークと、主人公の心の闇を極限まで描くのが特長だ。バレリーナ、レスラー、そして今回はオンライン講師。 それぞれの心の闇は底なしだ。 この作品のブレンダン・フレイザーもしかり。同性愛者の死で、過食症になった200Kgの巨体の男の極限を体当たりで演じている。 彼のメイクアップは圧巻で、立つこともできない身体は、悲惨の度をはるかに超えている。 余命がない男とヤンキーな娘と金がない妻と、どこにもプラス面はころがっていない。 おまけにトランプの支持層が多い中西部のアイダホが舞台ときている。 だが、彼らをほうっておけないなにかが、この作品にはある。 それはおそらく、ダーレン・アロノフスキー監督が、一貫として「歪な愛」を描いているからだろう。 逆を言えば、愛はそもそも歪なもの、と描写する彼の演出がお見事というしかない。
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