「傷つけ合い支え合う人間たちを単純化せず描く」ザ・ホエール ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
傷つけ合い支え合う人間たちを単純化せず描く
この作品には、生きづらさや喪失感を抱える登場人物しかいない。彼らの背景は物語が進むにつれ明らかになるが、理解し共感できる面と過ちに思える面とが背中合わせになっていることが多く、どうにも切なくなる。
主人公のチャーリーは、かつて男性の恋人アランのもとへ行くため妻子を捨てた。そのアランは、父やカルトの教会から理不尽な仕打ちを受けたことが原因で亡くなった。
彼の体を覆い尽くした脂肪は、積み重なった苦悩が具現化したものだ。大切な伴侶を失った失意と、妻子を置き去りにしたことへの自責の念。彼はその苦悩に今や命を奪われつつある。体調悪化に苦しみながらも病院に行かず、娘に残す資産を貯める姿は、償いのために命を差し出しているかのようだ。
因果応報と言って突き放した目で見るのは簡単だ。だが、知性と感受性を持ち合わせた彼が苦悩と後悔で凝り固まった巨体に命を蝕まれつつある姿を見ていると、彼の思いがこちらに否応なく流れ込んできて、とても苦しい気持ちになった。
チャーリーの肉体の表現がいかに大切かが分かる。アロノフスキー監督は当初実際に肥満体の俳優を使うことも考えたようだが、体力的に長時間の撮影に耐えられない恐れがある等の事情により、特殊メイクを選択した。OAC(肥満の人とその家族を支える団体)と密な話し合いをしながら撮影を進めたそうだ。
ブレンダン・フレイザーの少し困ったようなベビーフェイスが、チャーリーという人物にぴったりとはまって、ただ陰鬱なだけではない彼の魅力を作り出している。
チャーリーを献身的に介護するリズは、アランの妹だ。親友とはいえ何故彼女がここまで彼に深く関わるのか、だんだんとその理由が見えてくる。親もカルト宗派ニューライフの関係者だったリズにとってチャーリーは、兄を亡くした悲しみを共有出来る唯一の相手だった。リズはチャーリーといることで、アランが生きていた証を感じられたのだろう。ある意味チャーリーは、その存在によってリズを救っていたとも言える。
ニューライフの宣教師トーマスは、訪問による布教を禁じられ、誰かを救っている実感を求めてチャーリーの家にやってきた。その実感により、トーマス自身が救われるからだ。あなたを救いたいと宣言してはいるが、実態はエゴでしかない。結果的に彼はチャーリーやリズを救うどころか、彼らの心の傷をえぐることになった。
一方エリーは、終始周囲に怒りをぶつけ続けるが、結果としてトーマスが地元に戻るきっかけを作り、チャーリーの最期に立ち会って彼の望みを叶えた。彼女の言動は時に鋭利な刃物のようだが、本音のみでおためごかしがない。文章作法においても率直な表現を好むチャーリーの目に、それは彼女の美徳として映った。母のメアリーが悪魔だと吐き捨てた彼女を、傷つけられても受け止め続けることで、チャーリーもまたエリーを救った。
トーマスとエリーの姿を見ながら、人が何によって救われるかを第三者が理解することは時に難しく、救おうとする意思は少しひとりよがりになれば簡単に傲慢さに変わるものなのだと思った。カルトはその傲慢さの象徴で、その対極にあるのがチャーリーにとってのエリーなのだろう。
彼らに元妻のメアリーを加えた、不完全で不器用な人間たち5人の感情のアンサンブルが、ラストぎりぎりまで静かに加速してゆく。ブレンダン・フレイザーをはじめとした俳優陣の、真に迫る演技が素晴らしい。
人の在り方を単純化も美化もせず、複雑で多面的なまま描き出す脚本が秀逸。チャーリーが死の間際に娘と心を通じ合うラストなどは、凡百の映画なら平気でありきたりなお涙頂戴描写をして終わらせるところだが(お約束通りだからよい、という場合もあるにはあるが)、本作は決してその轍を踏まない。
あふれる光の中で、エリーの表情が初めて柔らかくなる。その一瞬のうちに、それまでの反抗的な態度の奥にあった父に捨てられた悲しみ、その悲しみの根元にずっとあった父への思慕までもがはっきりと見える。チャーリーにもそれは確かに伝わった。
本作のオリジナルは舞台劇だそうだが、映画ならではのこのラストが舞台ではどう表現されているのか興味が湧いた。