カラーパープルのレビュー・感想・評価
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私は美しい
人種で差別され、性別で搾取され、容姿で虐げられ
お前は無力で無価値な存在だと言われ続けたセリーが、自分自身を愛し、私は美しいと言えるようになるまでを描いた素晴らしいミュージカル映画だった。
スピルバーグのオリジナル版は見ていないけれど、前半は辛い出来事ばかりが続くので、音楽のおかげでそこが少しマイルドになる。彼女の悲しみや怒りなどの心の叫びを歌に乗せて届けてくれる演出はとても合っていた。そして曲がもれなく全部良い。
今でも世界には、誰かによって支配されて自由と尊厳。奪われている人がいる。でも生きている限り、諦めない限り、未来は変わるという力強いメッセージは、さまざまな人に勇気を与えてくれる。
セリーにとって運命を変えるきっかけとなったソフィアやシュグも、きっと最初から自立して強い女性だったわけではないだろう。痛みがわかるからこそ理解しあえて、支え合えたんだと思った。
同じ人間同士で上と下も無い。ひとりひとりが私は美しい、自分自身を愛せることが幸せだと言える世の中になればいいな。
罪のないものだけが石を投げよ
冒頭から見ているのが辛い映画でした。子を産んだらすかさず取り上げられるって、本当にそんな時代があったのか。金で取引されて、怒鳴られ殴られ働き通し。力で勝る男の天下で、女性には過酷な時代。恐らく、時代を遡ればもっと過酷だったのでしょう。吉川英治氏の三国志では、劉備に自分の女房の肉を食わせるという「美談」があったのだから(決して吉川氏の創作ではなく、注釈入りで紹介されたエピソードでしたが)。兎に角、古くから続く残酷歴史の一部と思えば、そこまでは驚かなかったのですが。
そして、殴り返して解決? 本当は当然の姿である家族団らんエンドって、ハッピーに見えて「当たり前の姿じゃないか」と思わなくもない。それほど過酷な目にあったということですが、それに対して怒りを覚えなくもない。
では、加害者側である旦那(?)の方はどうか。実はあれらの抑圧的な態度は、親や周囲の環境から受け継いだ当たり前の振る舞いだったのかと思います。そんな時代だからこそ、そうして嫁にも勝ち気で生きてきた。自分が家を仕切っているのだ、云うことを聞かなければ躾けで正す、当然だろう? と、悪びれもなく云ったでしょう。本当に悪いことをしていると思ってないのでしょう。で、女房から殴り返されて思うことは「なんで?」だったのでは。店から追い出されて泥だらけになって反省したように見えましたが、彼もまた、時代に躾けられて弱っただけではないか。本当に自分が悪だと理解できたかどうか、判ったものではない。
何が気になると云って、この映画を見ている自分自身が本当は悪人じゃないかと、そう振り返るべきなのかと悩んでしまったこと。誰かに接する上で、それが何も被害を及ぼしてないかどうか。この映画の彼のように、時代に乗り遅れた悪人ではないだろうか、等々。いろいろ悩まされる映画ではありました。
スピルバーグ監督の前作は見ていないです。ミュージカルにしたということで、躍動感溢れる映画でした。やはり黒人で揃えたミュージカルは凄いですね。他にダイアナ・ロスやマイケル・ジャクソンの出演した、黒人版オズの魔法使い「THE WIZ」がお気に入りです。他、「ブルース・ブラザーズ」のジェームズ・ブラウンが歌い黒人達が踊るシーンなんかも凄い。
ただし黒人音楽、ブラック・ミュージックから発祥したブルースやジャズなんかも奴隷制度や人種差別の苦難の歴史と共に在ったことを考えると、世の中、辛いことが無いといけないのかと、なんとも悩ましく思えてならないです。
もう一度云いますが、スピルバーグ監督の前作は観ていないです。何故なら、良い映画ですが、観れば辛い想いをすることが、観る前から判っていたような気がするから。
ミュージカルになることで、鑑賞しやすいエンターテイメントに♪
少し前までは、ミュージカル映画が苦手でした。何故?そこで?急に?歌い出すのかな?なんて、こっちの心情そっちのけで進んでいくストーリー展開に全くついていけなかったのですが、「ラ・ラ・ランド」「グレイテスト・ショーマン」「ボヘミアン・ラプソディ」など、数々の名作ミュージカルに出会い、今では好んでミュージカル映画を観るようになりました。最近のお気に入りはインド映画の「R R R」です。
ミュージカル映画の何がよいかというと、やはり問答無用で、ソウルフルであるということ。順を追って心情を丁寧に描き出す映画も良いのですが、細かいことは置いといて、とりあえず想いを歌にしたから聞いてくれ!という単刀直入感が潔いと思うのです。任侠ものやホラー映画など、まだまだ好んで鑑賞していない映画もありますが、思い切って一度その世界に飛び込んでみると、もしかしたら新しい世界が広がるかもしれません。
この「カラーパープル」という映画は、巨匠スティーブン・スピルバーグが1985年に手がけた名作映画「カラーパープル」をミュージカル映画としてリメイクした作品です。オリジナルを知らない人にとっては、こっちが正解だったのでは?と思うほど、この映画にミュージカルという手法がマッチしています。ミュージカルにすることで、虐げられた悲惨な人生を送っている主人公たちの重苦しく鬱屈とした日常がそこまで暗くなりすぎません。繰り返し鑑賞したくなる明るさと軽やかさを残しています。勧善懲悪で迎えるラストも、高らかに歌い上げる魂の歌が、爽快感を後押ししてくれます。また、オリジナルとは異なる物語の大ラスは、勧善懲悪を超えて、悪人にも悔い改めるチャンスが与えられいます。この映画は、人は赦されるべき存在であること、不遇な境遇から立ち上がる強さと、人生はいつでも何度でもやり直せることを教えてくれる映画です。
過酷な人生を照らすパワフルな歌声、85年版との雰囲気の違いに驚く
スピルバーグによる1985年版の「カラーパープル」を予習して臨んだが、物語の筋はほぼ同じなのに雰囲気がかなり賑やかなことにちょっと面食らった。
ミュージカルだから、まあ当然ではある。冒頭から、胸を震わす迫力のコーラス。85年版は最初の30分ほどの展開が特につらくて胸が塞がるような気持ちになるが、ほぼ同じ展開でも歌が挿入されたおかげか、全体的に何となくソフトな雰囲気になっていた。
黒人として生を受けた人々の天賦の才とでも言おうか。ダンスで見せる生命力にあふれるリズム、ボーカルの音程の確かさと力強さ、コーラスの心地よい音圧。このクオリティで表現される登場人物の心の声には、観客の感情を動かすパワーがある。
歌の力に圧倒された一方、物語描写と俳優の顔ぶれに関しては、個人的には概ね85年版の方が好みだった。
一番気になったのは、ソフィアの扱いだ。市長を殴って牢屋に入ってから、クライマックスの食卓で自分の言葉を取り戻すまでの時間が、体感的にとても短い。本作は85年版より若干尺が短い上、挿入歌に時間が割かれるためか、彼女のエピソードがぱっと思い出すだけでも2つほど削られていた。85年版では、彼女がひどい仕打ちを受け、心を病んでいた時期を長く感じたからこそ、あの食卓でついに復活した場面にカタルシスを覚えた。本作では、相対的にこの部分が物足りなかった。
シュグのごつさ(申し訳ありません)も気になった。85年版でシュグを演じたマーガレット・エイヴリーが、あまりに都会的で美しかったので……。ウーピー・ゴールドバーグが演じたセリーの人となりや人生とのコントラストを、そのルックスの違いが雄弁に語っていた。
本作は主要キャスト3人(セリー・ソフィア・シュグ)ともがっちり体型なので、85年版の後に見ると各々のキャラ立ちが弱くなっているように見えた。
また、ミュージカルシーン自体は確かにクオリティが高いのだが、85年版にあった物語進行のテンポのよさが、歌唱シーンが挟まれることによって失われたように感じた。
シュグがセリーに歌う「Miss Celie’s Blues(Sister)」は85年版でも歌われているが、使われるタイミングが違うことで微妙に違う意味合いを帯びる。
85年版で歌われるのは、彼女が最初にハーポの店に出演した時だ。普段着のまま店に来て、周囲の女性客に馬鹿にされていたセリーに向かって歌うので、シュグがセリーの内面に惹かれたということが際立つ。誰からも見下されていたセリーを救済する歌でもある。
本作では、ミスターのもとを離れついに自由を得たセリーを祝福するように歌われ、これまで耐え続けたセリーがようやく噛み締めた解放感や芽生えた希望までも、その歌声が描き出す。
同じ歌でも、使いどころでそのようにニュアンスが違って聞こえたのは面白かった。
本作の方がよかったと思えたのは、終盤のミスターの描写だ。
85年版では、原作にはあったという落ちぶれたミスターが改心する過程が描かれず、移民局からセリー当てに届いた手紙を、ミスターが勝手に移民局に持っていく、という台詞なしの短い場面がラスト直前で挿入された。何か悪さをしたのかと思ったら、次の場面では再会した姉妹を遠巻きに見守っていたので、彼の唐突なキャラ変に戸惑ってしまった。
本作では、少々駆け足だが原作にならってミスターの改心がきちんと描写されていたので、若干ご都合感はありながらも引っ掛かりを感じず見ることができ、最後はやさしい気持ちになれた。
同じ物語を描きながらも、歌の力によって重すぎず見やすい雰囲気になった本作。
当時の女性差別や人種差別を描き、同性愛の要素もある物語は、LGBTQが広く知られるようになり、BLMやMeToo運動を経た今、むしろ現代的でさえある。
この物語を生んだアリス・ウォーカーもさることながら、80年代に映画として世に問うたスピルバーグの慧眼に改めて感じ入る。
これは最初からミュージカル向きだった
1909年のアメリカ、ジョージア州で父親からの虐待、女性差別、搾取に耐え抜き、やがてそこから立ち上がっていく黒人女性たちへのアンセムは、改めて観てみると、ミュージカルとの親和性が高かったことに気づく。女性たちが受ける屈辱的な行為や言葉が目や耳を覆うものであり、だからこそ、その反動として描かれる痛烈なリベンジ劇は、ドラスティックな展開が許されるミュージカルというフォーマットにピッタリだからだ。
1985年にスティーヴン・スピルバーグが監督したドラマ版を観た時に感じた、笑っていいのか、泣いていいのか分からない中途半端なムードは、これが当時のスピルバーグにマッチしていたかどうかは別にして、そもそもこの原作はミュージカル向きだったことが原因なのかもしれないと思った。
しかし、今や1985年の映画を知らない人が多いと聞く。ならば尚更、これを人間の生命力と尊厳を歌と踊りに乗せたミュージカル映画としてオススメしたい。中でも、オリジナルのブロードウェー・ミュージカルでもヒロインのセリーを演じたファンテイジア・バリーノが熱唱する"I'm Here"は文字通りショーストッパーもの。気持ちがアガることをお約束したい。
過酷な環境下で、尚も“正しさ”を見失わずに生きられるか?
【イントロダクション】
20世紀初頭のアメリカ南部を舞台に、1人の黒人女性の波乱に満ちた人生を描いたヒューマンドラマ。
アリス・ウォーカー原作の同名小説を、ブロードウェイでミュージカル化した作品を基にミュージカル映画としてリメイク。1985年には巨匠スティーヴン・スピルバーグ監督がウーピー・ゴールドバーグ主演で映像化しており、スピルバーグは本作では製作を務める。
監督にブリッツ・バザウレ、脚本にマーカス・ガードリー。
【ストーリー】
1909年アメリカ、南部ジョージア州。アフリカ系アメリカ人の街に暮らす14歳の少女セリーは、妹のネティと共に高圧的な父アルフォンソ(デーオン・コール)の下、姉妹で支え合いながら生活していた。セリーはアルフォンソとの間に2人の子供を儲けており、2人とも出産後すぐに彼の一方的な判断で子供のいない家庭に売り渡されてしまっていた。
ある日、ネティは農夫の“ミスター”ことアルバート(コールマン・ドミンゴ)に見初められ、ミスターはアルフォンソに「嫁にくれ」と願い出る。しかし、父親は美人で教養もあり、教師になる夢を持つネティを手離すことを拒み、代わりにセリーを牛一頭と卵と引き換えに嫁に出した。
セリーは反論すら許されず、その日の内にミスターの家に嫁に出された。ミスターの家は荒れ放題で、先妻との間に儲けていた3人の子供達の世話、家事全般を押し付けられる。ミスターは少しでもセリーの働きに不満を抱くと、容赦なく彼女を責め立てた。
過酷な日々を過ごすセリーのもとに、アルフォンソから身体を求められたネティが家を飛び出してやって来た。だが、本命であったネティに対してミスターが何もしないはずもなく、ネティに拒否されるとミスターは激昂して彼女を土砂降りのなか家から追い出した。セリーとの別れ際、ネティは手紙を出す事を約束するが、ミスターはセリーが手紙を受け取る事を許さず、毎週届いていたネティからの手紙は隠されてしまっていた。
1917年。成長したセリー(ファンテイジア・バリーノ)は、相変わらず過酷な日々を送っていた。ある日、ミスターの息子ハーポ(コーリー・ホーキンズ)は、気が強く快活な女性ソフィア(ダニエル・ブルックス)と結婚した。ハーポはミスターの家の近くの沼地に家を建て、セリーはソフィアと友人になる。だが、ソフィアは自らを服従させようとするハーポに抵抗し、生まれたばかりの赤ん坊を連れて出て行ってしまう。
1922年。ハーポは沼地の自宅を酒場に改装し、人気歌手のシュグ(タラジ・P・ヘンソン)を街に招いた。シュグは、ミスターが長年想いを寄せていた人物であり、彼女の滞在場所として自宅に招き入れる事を喜んだ。やがて、セリーはシュグと親しくなり、シュグが居る間は、セリーはミスターの暴力から解放されていた。店は繁盛し、万事上手くいくかと思われたが、シュグは巡業の為にしばらく街を離れるという…。
【感想】
スピルバーグ版の同名作は未鑑賞。
掴みの上手さ、つまりはキャラクターへの容赦のなさが素晴らしい。
セリーの人権や女性としての尊厳をひたすらに無視された前半の展開は観ていて辛いが、彼女への抜群の感情移入を促している。
家父長制による圧力、近親相姦と産まれた我が子を取り上げられる理不尽さ、自身を「ブサイク」と評した男の元に突然嫁がされ、彼の子供の世話や家事、性欲の捌け口にされる日々。
序盤は特に、アルフォンソとミスターのネティを巡るやり取りに、男性優位社会における女性の“モノ扱い”ぶりが顕著に現れている。
「(ネティの代わりに)セリーはどうだ?ブサイクだが男並みに働く」
「“あれ”か?要らねえ」
「子供達(の世話)はどうする?」
と、互いにまるでセリーをモノかのように捉え、召使いとして酷使しようとする。その身勝手さと傲慢さ、また1人の女性の人生を牛一頭と卵で簡単に引き換えてしまう残酷さは筆舌に尽くしがたい醜悪さ。
そんなセリーの姿を描いているからこそ、終盤の形勢が逆転していく展開はカタルシス十分だし、彼女とは対照的なソフィアとシュグの自らの意思で生きていく逞しさと奔放さには勇気づけられる。
特に、ソフィアの物怖じせず何事にもキッパリと「NO!」の意思を示す姿は見ていて清々しい。だからこそ、そんな彼女ですら抗う事の出来なかった“白人至上主義社会”の残酷さが際立つ。彼女をメイドとして雇おうとする市長夫人の傲慢さ、投獄の果てに自由意思を奪って使役する姿は、ともすればミスター以上の悪かもしれない。
街の醜聞のネタにされながらも、歌手としての人生と奔放な性生活を謳歌するシュグの「ありのままであり続ける」という姿は、作中最も現代的な人間像かもしれない。だからこそ、彼女はセリーを助ける事も、良き友人として接し続ける事も出来たのだろう。
スピルバーグ版はミュージカル映画ではなかったそうだが、本作をミュージカル映画として再び世に放ったその英断に拍手を贈りたい。
作品を彩る楽曲の素晴らしさ、エモーショナルな歌詞が突き刺さる。
【クライマックスに見る“赦すこと”の意義】
セリーがアルフォンソの葬儀後、彼との間に血縁関係の無いことを知り、母親名義だった店の土地を相続し、培ってきた裁縫の才能を活かして自立する。
セリーが自分自身を、そして自分の人生を肯定出来るようになった姿に感動し、同時に勇気づけられる。なぜなら、それらは全て彼女がどんな苦境に立たされても正しく在り続けた事に対する結果だからだ。神は彼女の清廉さの中にこそ宿っていたのだ。
ラスト、ミスターは自らのセリーへの行為の償いとして、農園の土地の一部を売却し、ネティ達が帰国出来るように手配して、復活祭に招く。
ネティとの再会、そして息子と娘との再会、更には初めて孫の存在を知り、彼らの頬に触れる。正しく生きてきたセリーの人生が報われ、彼女の全てが肯定されたかのようなあの瞬間は、目頭が熱くなった。
ところで、ミスターのこの贖罪は、これまでのセリーとネティに対する仕打ちを帳消しに出来るものだったのだろうか?人によっては、この行為が十分な贖罪とは感じられず、不満を抱く人もいるだろう。しかし、ミスターがネティを追い出す事をしなければ、彼女はセリーの子供達と再会して旅をするという人生は歩めなかったはずだし、結果として、セリーは想像以上の幸福を手にする。運命とは、タイミングの巡り合わせで形作られているのだろう。
また、ミスターの贖罪はこの先も続いていくべきであり、決してこれで終わったわけではない。彼はこの先も、セリーに対する償いを続けていくべきだし、改心した彼ならば、それが出来るのではないかと思う。
大事なのは、ミスターを復活祭に招き、“友人”として在る事を選択したセリーの姿だ。
昔、TVで被害者と加害者の和解について、心理学者の教授がコメントしていた事を覚えている。それによると、心理学的な観点から見ても、被害者が先に進むために1番重要なのは“許す”という行為なのだそうだ。
つい最近、Xで《幼稚園時代や小学生時代に、教師から「××ちゃんも謝ったから、○○ちゃんも許してあげてね」と言われる事が苦痛だった》という投稿が反響を呼んでいた。確かに、まだ判断力も自分の意思表示もままならない中で、納得のいかない“許し”を相手に与えるよう強要される事は、被害者にとっては「大人の欺瞞」であったことだろう。
しかし、成人して判断力や意思表示の仕方を学び、身に付けた人ならば、この“許す・赦す”という行為について、また違った視点から判断出来るのではないかと思う。それは、「自分が前に進むため」にこそ行って良いのだという事だ。断言するが、それは決して、相手のためである必要はない。あなたは被害者であり、受けた傷と記憶を完全に消し去る事は出来ないかもしれない。しかし、あなたが自身の人生の駒を前に進め、よりよき人生を手にする為ならば、許してみる事も重要なのではないだろうか。あなたが幸せになる為ならば、100%の利己的な理由から許して良いはずだ。
勿論、物事によって程度の差はあるし、一生許す事が出来ないこともあるだろう事は理解しているつもりである。これはあくまで、一つの解決策としての提案である。
セリーは、ミスターの改心を受け入れ、“赦した”事で更なる幸せを得た。その姿に、現実の私やあなたがこの先の人生で誰かを許した先に、同じく幸福が待ち受けていてほしいと願うのだ。
【総評】
過酷な人生の中で、それでも正しさを見失わずに生きた女性が最後に幸福を掴み取る姿は、現実の我々の背中を後押ししてくれる。優れたフィクションとは、我々が過酷な現実に立ち向かう為の勇気を与えてくれるものなのだ。
それらを豊かな色彩や楽曲でエモーショナルに表現したスタッフに感謝の拍手を贈りたい。
これぞミュージカルのチカラ。
第一次世界大戦が終わり、国中が前向きな頃。そして世界恐慌までの束の間。アメリカンアフリカンにとっては変わらず凄惨な時代であることは想像に容易い。肌の色、性別のそれぞれの二項対立の中、最下層に位置する黒人女性たちが、本作の主役。
ブルース、ゴスペル、ラグタイムと過去の音源を劇中で使用していたら、きっとここまで注目されなかっただろう。それぞれの役の心境をそれぞれの音楽に載せて気持ちを表現することに、いたくリアルを感じられた。
ラストシーンでは、自然に涙が頬を伝った。
悔しいことがたくさん、でもそれを乗り越えて強く生きる
比較して
1909年、ジョージア州。父の子を二度出産した少女セリーは、妹のネティと大の仲良し。セリーはミスターのもとに嫁ぐが、そこでまるで奴隷のように扱われる。そんなとき、ネティがセリーのところにやってくる。しかし彼女に手を出そうとしたミスターを拒絶したため、ネティは彼に追い出されてしまう。やがてセリーは、気の強いソフィアや奔放なシュグと出会い、自立を知り。1947年までのセリーを描く。
旧作のオリジナル版は以前鑑賞。ミュージカルになっても違和感はありません。物語は、より分かりやすいと思いました。特にミスターが、旧作では急に大人しくなっていたところが、今作では改心しているシーンがあります。ただ旧作のほうが、サプライズありの演出があってよかった。
ウーピーも出ています。
やはり女性は虐げられて来た
カラーパープル、紫色だが、褐色に映るが紫?????
日本だと明治末期の🇺🇸、ちょっと前まで南北戦争や
西部劇の時代。
人種差別もだが、本作は女性差別かな。
やはり、現代の🇯🇵でも今尚、時折感じる女性差別❗️
男は国を問わず偉そうにして女性を下に見ないと
安心できないものか⁉️
一つ疑問、セリーは二度出産しているが、子供の父親は誰なのか❓
セリーの父親といってもラストでわかるが、継父に
乱暴な通称ミスターという男と無理に結婚させられる。
結婚というより、性交渉付きの家政婦としか言えない、
いや、奴隷だ。
夫婦としてセリーを愛し尊重するところが微塵も無い。
さらには暴力を振るう。何か彼自身の尺度で気に入らないことでセリーにボカスカ殴る。セリーは傷だらけ。
白人から差別されていたとしても、同人種の女性をこんな目に遭わす奴は許されない。
またコイツ、妹のネティも暴行しかけてネティを
追い出してしまったのだ。
行くあての無いネティは生きていけるのか⁉️
後半、満を持してセリーは立ち上がる。
それまでに出会ったシュグやソフィアにも感化されて。
このシュグやソフィア、魅力的‼️
ハーポは、ソフィアに恐れをなしているけど、
ちょっとソフィアもハーポに合わしてくれたらバッチリ👌
だけど、白人の市長夫人に👀をつけられて、
ど酷い👀に遭ってしまう。
ここで少し人種差別が映されている。
白人同士ならあり得ないこと。
気を許すとえらい目にあうのだ‼️
その収監されていた間、
毎週セリーが来てくれ励ましてくれたと
感謝するソフィア🥲
やはり優しいセリー❣️
シュグに助け出され自由の身に。
幸運はそれだけでなく、
知らなかったが、顔も見ぬ実父がいて
お店を財産として残してくれていたんだ。
得意の裁縫を発揮して仕立て屋?ブティック?開業。
もう、イキイキして本領発揮❣️して
お店大繁盛❣️
垢抜けてセリーも粋なマダム❣️
あのミスターがやって来てパンツ一本買って行った。
このミスター、改心したのかあるビックリを仕掛ける。
セリーは親しい人たちにパーティーの招待状を送る。
よく晴れた穏やかな日、
大きな🌲をぐるっと円で囲むようにテーブルを並べ、
そろそろゲストが集まり出した。
一台の車が止まり、
中からネティが、オリビアが、その子供たちが、アフリカの正式な衣装を纏い降りて来たのだ。
何年ぶりだろう、
抱擁するセリーとネティ、子供、孫たち。
生きていたのだ。
これからセリーとネティはどんな話をして、
どんな生活をして行くのだろう。
この点だけは、ミスター、でかした👏👏👏👏👏
また観て修正するかも、です。
しんどい!
だいぶ見やすくしてくれてるけど、なかなかしんどかった。
ミスターの改心については全DV男性の化身として、そんな彼らにも救いの道を提示した結果なのかな。
許す自由も許さない自由もあると思うので許すべきって話とは別としたいところだけど、キリスト教的な考えで許し許されるが大切なんだろね。許さないで終わると男性達が教義的に救われないから天国へのセーフティネットみたいな。
話の中では黒人男性の辛さも所々で書いてたし個人の人間性を攻撃するよりも社会的な問題の皺寄せが弱者コミュニティに降りかかって更にはセリーの様な人に降りかかってそんな人が沢山いたと思うとホントしんどい。
シュグやソフィアの様に自分らしく生きようとするだけでもの凄くパワーが必要で亜種扱いになる社会もホントしんどい。
左の頬を叩かれたら殴り返せのマインドが必要すぎる。
あとやな感じの白人のマダムもアレだけど、白人の男性はモブ化してないで白人版ミスターとしていや〜な感じをあの場で振る舞ってほしかったと意地悪に思ってしまう。
だってあの時代の価値観の中心にいる白人男性社会が抜け落ちてるじゃん。
きみまろさんの漫談でも言ってたよ部長が課長を怒り課長が部下を怒り部下が家で犬を怒りって。
ミュージカルにして入口のハードル下げてくれて良かったです。
85年版も見ます。
個人的に長く感じた
辛く悲しいミュージカルでも・・・
重いテーマをリズミカルにカラフルに
歴史と社会の見事なエンタメ化
black, poor, ugly, woman, but i’m here
真っ平ご免! 力強く歌い上げ、色付く人生を
“お子様ランチ”ばかり撮ってきたスピルバーグ初のシリアス作品であり、ウーピー・ゴールドバーグの映画デビュー作。
ピュリッツァー賞に輝く同名小説を基に、一人の黒人女性の壮絶な半生。
スピルバーグ版は昔に見た事あり。アカデミー賞10部門11ノミネートされるも受賞ゼロばかり取り上げられるが、力作である事に違いはない。
そんなシリアス力作を、ミュージカル映画化。
小説→映画化→ブロードウェイでミュージカル化→ミュージカル映画化。昨今珍しくない流れ。
オリジナルの監督スピルバーグとキャストのオプラ・ウィンフリーと音楽のクインシー・ジョーンズがプロデュースで参加。ウーピーも冒頭特別出演。
強力バックアップ、新たなスタッフ/キャストと新たな魅力を持って、歌い上げる。
1900年代初め。ジョージア州の田舎町。
優しい母を亡くしたセリーとネティの姉妹は横暴な父の下で堪え忍びながら支え合って暮らしていた。
父からの性的虐待でセリーは身籠り出産するも、子供は売り飛ばされる。子供の名を記した織物と共に。
ある時“ミスター”と呼ばれる農場経営男が、ネティを嫁に欲しいとやって来る。
頭が良く、美人のネティを嫁にやるのを断る父だったが、代わりにセリーをくれてやる。
横暴な父の下から解放されたセリーだったが、ミスターも同じだった。
望まぬ結婚。そこに愛など全く無い。
前妻との間の子供たちの世話。来る日も来る日も家事に労働にこき使われる。
奴隷と変わりない。初日から暴力も…。
そんなある日、姉が居なくなり手を出してきた父から逃げるように、ネティが転がり込んでくる。
また姉妹一緒に居られる事を喜ぶが、迫ってきたミスターを拒んだ事で、ネティは追い出される。
また独り…。ネティは手紙を出すも、郵便物はミスターが管理。唯一の愛する肉親からも完全に引き離され…。
序盤は見ていてとにかく辛い。
男尊女卑、人種差別、父親からの性的虐待、無理矢理結婚させられ相手も暴力、奴隷同然…。
“物語(フィクション)”として描かれるくらい。当時の黒人女性の境遇。劇中のミスターの蔑みで言うなら、“醜いゴキブリ”。
そんなセリーの人生が、様々な出会いによって色付き、変わり始める…。
ミスターと前妻の息子ハーポの妻、ソフィア。
この時代の黒人女性に於いて、メチャパワフル!
男に屈しない。ミスターにも堂々物言う。ハーポを尻に敷く。
夫に虐げられるセリーにとっては衝撃でもあるだろう。
よくよく考えれば姑と嫁なのだが、孤独なセリーにとって心強い友人に。
演じたダニエル・ブルックスはブロードウェイ版から同役。トニー賞も受賞。
オリジナルのようにオスカー期待されながらも、作品はことごとくノミネート落選。楽曲も。唯一ノミネート(助演女優)されたのがブルックス。それも納得の存在感。
ミスターの前妻、シュグ。
各地を回る人気の歌姫。ハーポが建てた酒場で歌う為に招待され、久し振りに帰ってくる。
彼女もまた。男に屈しない。散々わがままを言い、ミスターをこき使うほど。
自由奔放な性格と生き方。
彼女もソフィアと同じく、この時代の黒人女性に於いて自分を貫く。
フレッシュなキャストの中で比較的実績と実力あるタラジ・P・ヘンソンが好助演。
こんな生き方もあるんだ…。
だけど、私は…。
勇気付けられる。奮い立たせられる。
立ち向かって。闘って。
その思いを燻らせず胸に秘めたまま、それでもミスターに従う。
堪え忍んで、堪え忍んで、堪え忍んで、堪え忍んで、堪え忍んで、歳月が流れ…。
遂に立ち向かい、闘う時が…。
妹から送られていたたくさんの手紙を発見する。
妹は遠く離れた地で、生きていた。しかも、セリーの生き別れの子供たちと一緒に。別れ際送った織物が繋げた。
今も姉を思っている。愛している。
私だってそう。今も妹を思っている。愛している。ずっと変わらず。
そんな妹を、私から引き離した。夫は。
いや、夫などではない。馬のクソ男。
もう真っ平ご免!
遂に反発。オリジナルでも印象的な屈指の名シーンは、勿論本作でも。
私を虐げる限り、あなたに不幸が訪れる。
力強くミスターに言い放ち、セリーはシュグともう誰にも縛られない自由な生き方と自分を。
ダニエル・ブルックスと同じくブロードウェイ版から同役のファンタジア・パリノが体現。
黒人女性たちの力強さ、ユーモア、抗い自分で選んだ自由な生き方、胸に秘めた熱い思い、不屈の精神…。
それらを歌い上げるミュージカル楽曲の数々が素晴らしい。
まだ一緒に暮らしていた時のセリーとネティのデュエット曲、ソフィアのパワフルさを表す曲、セリーとシュグのファンタスティックなデュエット曲、セリーが自由を決めた曲…。
他にも魅力的な楽曲が彩る。
俊英ブリッツ・バザウーレがドラマチックにエモーショナルに新たに歌い上げた。
逆境に挫けず、諦めなければ、いつか必ず報われる。救われる。
そうなったのは運命とかではなく、自分自身。
ある時ソフィアを襲った人種差別の魔手。さすがのソフィアもどん底に叩き落とされる。
そんな彼女を勇気付けたセリーの優しさ。
セリーが去った後、ミスターには不幸続く。農場は害虫被害で焼き払う事になり、飲んだくれ、落ちぶれ…。
ミスターも本当だったらシュグのバンドで華やかな人生を送っていたかもしれない。父親の農場を継ぐ事になり、泥土まみれの人生…。横暴さはその鬱憤かもしれない。
落ちぶれた姿を見て、初めてミスターを憐れに思った。
そんな彼がある行動を…。ラストの感動の“再会”の為に尽力。
ずっと嫌な奴だったのに、最後の最後になって、ミスター、泣かせる事しやがって! 好調コールマン・ドミンゴが魅せる。
罪を悔い改める。
そしてそれを赦す。
セリーが信じる“神の神業”と言ってしまえば宗教色で日本人にはピンと来ないかもしれないが、つぐないややり直しや赦しは万国共通。
あらゆる出来事や思いが集って、繋がって…。
素直に心温かなハッピーエンド。
灰色から紫へ、カラフルに。
私の色。あなたの色。
色付く人生を。
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