PLAN 75のレビュー・感想・評価
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終わり方が微妙
考えさせるようなエンディングを意図したのでしょうか、少し消化不要に思えました。このテーマは超高齢化社会である日本の一つの選択肢であることは間違いないと思いますが、大変難しい問題に切り込んだ良い作品だと思います。
例え高齢であっても、親族であれば(そんなことはないのですが)もしかしたら明日画期的な治療法が見つかって、元のように元気になるかもしれない、元の様ならなくてももう少し生きていられるかもしれない、もっと生きていたいと願っているかもしれない、などと考えてしまうのが当たり前だと思います。
この映画の主人公のように働く意欲もあり、元気で病気もしていないのであれば、都会ではなく過疎地で暮らすことで職を得られる可能性が大きくなると思いますが、環境をなるべく変えたくないと思う人も多いのでしょうか。
また、他に身寄りもなく孤独であれば、ただ生きている時間を長くすることに意味を見出せなくなることもわからないではありません。
いろいろ考えさせてくれる良い映画でした。
今からでも始まるかも🫨
事件がきっかけ?で政府が決定した75歳になったら、安楽死の選択が出来る法案プラン75が出来る。
主人公のミチ(倍賞千恵子)が、主人に先立たれ生活がギリギリでバイトも高齢がきっかけになり解雇される。プラン75を選択するが…
いやー、考えたくない内容ですが日本の未来もこうなるかも🫢
なんて思ってしまいます。
まず、政府がテレビなどで極めて安全な保健に加入出来るよーって宣伝している。
役所の人間が、炊き出ししている場所で勧誘しているのが、ぞっとしましたね。
いかにも,世のため人の為に行っていますと、善人ズラしてる事に、人が生きるとか死ぬ事はどうでもよくて、不必要な人間は消えて下さいと。
いつからか、老害なんて言葉がでてきて当たり前に使われているが、これこそが差別意識を植え付けているんじゃないかと考えてしまう。
安楽死の問題も、生きにくい世の中になっているのは何故か?年金問題?政治の腐敗?移民問題?現在進行形やん!なんて考えさせられました。
倍賞千恵子さんの演技は素晴らしいです。
ラストは、何を思いその決断にしたのかは、不明ですが、ミチさんの選択は正解だと思わされました。
今だからこそ、考えるべき作品
TVドラマで話題の磯村勇斗 さん&河合優実 さんが共演していることを思い出し、再度鑑賞。
近い将来、加速度的に進む超高齢化社会の中で、増え続ける高齢者対策として「75歳になったら自分で死を選べる法律」が出来た。「生きたい」気持ちと誰にも受けれず「見捨て」ていかれる現実のはざまで、主人公はプランに参加を決めるが・・・
という物語を倍賞千恵子さんが文字通りに体当たりで演じている。
映画は、理不尽な世の中に対して声高に訴えることもなく、老人たちの日常を淡々とつづって描いています。余計なセリフも派手なBGMもありません。最近はやりの大どんでん返しも伏線回収もありません。「この後どうするのだろう」という疑問を投げかけて映画は幕を下ろします。
大方の若いレビュアーには理解不能な作品かも知れません。予想通り「セリフがない」「主張が見えない」「暗い」「現実味がない」・・等々のレビューが散見されます。「老い」と「死」をまだ遠くに感じて、元気な老人たちしか知らない若者には違和感しかないと思います。でも、まもなく定年する私のような人間からみると、主人公が追いつめられてプランに参加していく過程が本当に恐ろしく感じます。
プランに参加した老人たちの映画の中での遺体の扱いが、このプランの真の狙いを表現していて、また恐ろしい。「自ら死を選べる」ではなく「死を選ばざるを得ない」状況を作っているのだと理解するのです。
暗く重い物語の中で、若い三人(磯村勇斗 さん&河合優実 さん、ステファニー・アリアンさん)の苦悩が、わずか一筋の光として救いとなります。特に河合優実さんの「先生」は出番は少ないものの、素晴らしいです。
現実味がない。と感じたひとはどういう現実を見ているのか。今こそ向き合わなくてはならない命題が、ここにはあると思います。
セリフが少ない
現実離れにもほどがある
まず第一、老人議員が多い日本の国会でこんな制度を可決することは絶対にありえない!
また、仮にこんな制度があったら日本は滅ぶ。なぜなら、この国の農業従事者の70%は65歳以上であり、サラリーマンと違って厚生年金はもらえない。彼らがもし「国民年金だけじゃ生活できないし、農作業続けるのもしんどいから死なせてもらおう」となったら、日本の農業は立ちいかなくなり、食が脅かされる。農業のほかにも社会の役に立っている老人は多くいる。老人が負担だと思う人たちは、そういう存在を知らないだけだ。
今、老人が増えすぎると何が一番問題なのか、何が現役世代の負担になっているのか、冷静に分析すべきだ。日本では、老人が倒れても簡単には死なせてくれない。ほっておけば息をひきとるような老人を、手術、胃ろうや経管栄養、酸素吸入、痰の吸引などありとあらゆる手段で無理矢理命をひきとめようとする。そんな老人がこの国の病院、施設、家庭にあふれている。それがどれだけ負担になっていることか。亡くなる間際の老人の命を無理に引き止めさえしなければ、社会保険料や税金など財政を無駄に圧迫しなくてすむし、家族も介護から解放されるのだ。
この映画の主人公ミチさんのように、働く意欲もあってボウリングもできる元気な老人に、死を奨励することは明らかに間違っていて、現実的ではない。しかし、死ぬときに安心して亡くなることができる社会を実現できないものだろうか。この私も、年をとって倒れたら無理に救命措置などせず、静かに逝かせてほしい。助かってもその後に寝たきりになって介護が必要になったらと想像するだけでぞっとする。
多発する殺人事件の後に安楽死が合法化された近未来の日本の話である。...
病気で助からない人を殺してあげるという国があるみたいだけど、もしかしたらこの映画みたいなことをする国も出てくるかもしれない。
倍賞千恵子さんのインパクトが凄かった。
この役は妹の美津子さんでもいいと思うけど、美津子さんはいつも同じような役をしていて『護られなかった者たちへ』でも同じような役をしているからあえて千恵子さんにしたのかもしれない。
倍賞千恵子さんは昔美人女優でならした人だし、山田洋次監督作品のイメージが強い。
代表作は『寅さん』で、『幸せの黄色いハンカチ』とか『家族』にも出演している。
妹さんと違っておばあさん役はあまり見たことがなくて、個人的なイメージでは今でも若い頃の美人女優のまま。
その人がいきなりおばあさん役なので驚いた。
更に凄いのが声とか喋り方とかの演技の感じが昔のままのこと。
人間は年をとってくると「わたしゃおばあさんだよ」みたいになってくると思っていたけど違うと思う。
そうなったとしてもそれは演技的なもので、経験値は増えるけど中身は若い頃と変わらないと思う。
人によって違うと思うけど、青年期で完成するみたいな時があって、あとは死ぬまでそのままいく感じじゃないのかな?
自分もたぶんそうだと思うし、アイドルの人とか見ていても、若くして完成してしまって、後はこのままおばあさんまでいくんだろうという人がけっこういる。
そういうことを、倍賞千恵子さんの昔と変わらない演技を見ていて考えた。
それに加えて昔見た作品と重なってしまって、あまり金持ちの役はなかったし、あのキャラクター達の最後はこんな感じなのかなと思った。
内容的には以前松田翔太さんの主演で映画化された『イキガミ』とか星新一さんのショートショートで最近NHKでドラマ化された『生活維持省』みたいなことだと思う。
やっぱり人間は、必要以上に生物を殺しまくり、食いまくり、貴重な地球の資源を使いまくって地球環境を破壊するから、地球環境にとってはいない方がいい生物かもしれない。
人間同士でも争いあって、自然界の掟なのかもしれないけど、弱肉強食で、強い人が弱い人から巻き上げるみたいなことばかりやっている。
このままいくと結局、この映画みたいに、最終的にはまた『楢山節考』的なことになっていくのかもしれない。
個人として考えてみても、生きるのは非常にめんどくさいから、死ねばめんどくさくないし、何もいらないので、死ぬのが一番効率がいいような気がしないでもない。
頭ではそう思うけど、本能的には、周りに迷惑かけまくって、非常に情けない状況になったとしても、生きていたいというのが本音かな?
あといやなのが死ぬ時期がわからないこと。
明日かもしれないし、何十年先かもしれない。
永遠に生きるみたいな気分で生きているけど、人生で確実なのはいつかは死ぬということだけ。
わかっていれば、いろいろ準備をしてやりたいことやってサヨナラできるけど、明日どこかで突然死ぬというというのは勘弁してほしい。
死んでしまえばわからないからどうでもいいんだけど、死んだ後も多少生きているみたいな変な妄想がある。
その辺のところでいろいろ揺れているのに、この映画のように「政府がお手伝いするので死にませんか?」と言われたら本当にやってしまうかもしれない。
病気で助からない人を殺してあげるという国はけっこうあるみたいだけど、もしかしたら期間は長いかもしれないけど助からないという意味では同じなので健康な人も希望者は殺してあげるという国も出てくるかもしれない。
最後の「リンゴの木の下で」は黒澤監督の『生きる』の「ゴンドラの唄」パロディー的なことなんだろうけど、比べたらコメディーか?と思うくらいいろいろ情けない映画ではあったけど、個人的には面白かった。
自分が安楽死を導入すべきと思っているからなのか
ちょっと主人公に感情移入出来ない。主張が無いので全然気持ちが伝わって来ないのだ。死を強制することは間違っているし、暗黙の了解として75歳過ぎたら死ぬべきというのも間違っている。だが、死を救いだと思っている人がいるからこそ自殺もあるのだ。生きたいと願うのは自由だし、本来それを邪魔される謂れは無い。無言の圧力になるというこの制度の問題点はそこにある。
しかし、後期高齢者と区分される75歳ともなれば個人差こそあれ身体的にあらゆる部分にガタが来る。そして75歳で10人に1人が認知症、80歳過ぎれば4人に1人と激増するのだ。つまり75歳というタイミングは自分で自分のための客観的な判断が出来るラインとして見なすことが出来る。レカネマブなんて薬も出たが、認知症の進行抑制を期待できる効果があるとされるだけで発症したら手遅れ。認知症にも程度はあるが、記憶が定着しない、トイレが出来ない、自分が自分で無くなる、家族の顔さえ忘れてしまう。そんな状況になったら、自分は正直生きていたくない。それはそんな自分の姿を家族に見せなくないという思いもあるし、もし孤独ならば老後の楽しみも無いだろう。
高齢者に関わらず、不治の病であるALSなどのことも考えれば本当に現実で安楽死を導入する話し合いを一刻も早く始めて欲しい。まだまだ元気で生きられる、生きがいがある、そんな人たちは長生きするべきだ。どんな状態になったとしても家族で支えてあげたいというのは、すばらしい心だし自分も親を出来る限り支えたいとは思う。だが、本人が選択して死を選ぶというならば説得こそすれ、翻意出来なければ見送るだろう。本人の意思を無視してまで胃ろうさせて延命治療する今の日本は正直異常である。それこそ個人の尊厳を無視しているのだ。
今はこんなことを言っている自分でも、いざ75歳となったら翻意するかも知れない。だが、もうダメだ、生きていることに希望を持てないという時にこの選択肢はあるべきだと思う。ガンになった人が苦しい治療はもう嫌だと言えば、無理に治療することは無い。そのように安楽死も選択肢の一つになればいいと、自分はこの映画を見て改めて感じた。
コントラストから呼び起こされる思い
観ている途中で気がついたが、この映画、至る所で、画面の真ん中に境目がくる構図が出てくる。単に監督の好みというわけではなさそうだなと思っているうちに、陰影と光のコントラストも様々な場面で使われる。
なるほど、一見そうは見えなくても、対比的に提示されたものから様々に感じ取って欲しいというのが、監督・脚本の早川千絵の目論見なのだろう。
心臓に疾患を抱え手術が必要な子どもと元気で健康な老人、地中海クルーズに行かれる者とスーパーのサバを贅沢と考える貧困層等々、あげ出せばキリがない。
考えてみれば、この世の中は対比に満ちている。そしてそれは、一人の個人の中にも存在する。
主人公だけではなく、plan75に関わる仕事をしている2人の若者たちも、その対比の矛盾と向き合い悩む。でもそれは、彼らは真っ当に生きているからこそだろう。
対して、この映画の中で、対比が隠され、矛盾がないように描かれているもの(老人殺しを正当化する者、謎の会社、plan75の対応のレクチャーをする指導員等々)の気持ち悪さといったら…。
細かく説明されていないが、これから主人公はどうするのだろう。一番隠されているのは、個人の意思を超えた、社会の事情。それと向き合って、彼女はどんな最後を迎えるのか。
そして、この映画を観ている自分自身も現実社会の中でどんな最後になるのか。
日常ではあまり考えずに生活をしている「自分自身の最後という問題」は、当たり前に、常にすぐ隣にあるということを思い知らされた。
倍賞千恵子がすごいのはさることながら、個人的には、河合優実がとてもよかった。
公設「楢山節考」へと、時代は循環するのか
昔 観た「ソイレント・グリーン」(1973年米)を思い出す。
「人口抑制」と「食糧危機」の難題を一挙同時に解決させた、近未来予言の問題作だった。
「ソイレント・グリーン」も、そして本作「プラン75」も、《それ》を自分で選んだ高齢者たちは、一様に穏やかで、幸福そうな最期の姿として描かれていた。
《システムの妙》が、それを実現させていたのだ。
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【あと何年生きるつもりですか】
さて、
レビューアーの皆さん、お年はおいくつですか?
お勤め先で、またご家族で、将来の事とか、定年の話題は上がることはありますか?
「エリカ38」を観たとき、樹木希林のインタビューを読みました、
共演で親友の浅田美代子に対して樹木いわく
・絶対に家を買っておきなさいよ
・65過ぎたらもう誰も家を貸してくれないのよ
僕の会社では、そのあたりの話題は、同年代の社員同士の切実なテーマとなっていますね。
寄るとさわるとその話。
自分の体について、最近の不調とか、良い病院の口コミとか。
いろんなサプリや塗り薬。その効果や失敗談(笑)や、
子供にかかるお金。親の看取りへの物心面の準備。
定年延長やら、年金やら、寿命やら、生活保護のことやら。
そして、
「あと何回お給料をもらえばその翌月から自分は無職となって、冗談じゃなくマジ無収入になるのか」という計算。
そしてもうひとつ実感するのは、身内や知り合いは喪中ばかりで、僕らの年代は年賀状も減るのですよ、
そんな年末年始。
↑↑
それを横で立ち聞きしている若い人たちは一様にポカーンとしています。
「老い」や「定年」というワードは、彼らにとってはギャグか、もしくは「木星」とか「銀河」のような、まだ考えたこともない、遥かに遠い絵空事のようです。
還暦はおろか定年など、あたかもSFの世界の話題に聞こえてしまうのなら、彼らのああいう反応も、仕方ないことですよね。
先日入社して、僕が担当して仕事を教えた若者は「お母さんが51歳」なのだそうです。
愕然としました。それならすべては無理のない話です。
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【雇い止め・保証人なし】
映画は
ホテルのルームクリーニングのパート従業員、倍賞千恵子さんの毎日を追っていきます。
本人たちの「老い」と「将来への不安」。
そして“自らの始末”を、自分で責任をもって付けようとする高齢者たちの身だしなみ。
この姿、美しいのだと思います。肯定すべき生き様です。
飛ぶ鳥跡を濁さず と言いますもの。
倍賞さんはクビになってもロッカーをきちんと片付ける。布巾を洗って干す。寿司桶を綺麗にして返す。
この「プラン75」の申し込みカウンターでは、本人たちの熟慮の末の、彼らが決めた真摯な姿に、それはあらわれています。
円熟の姿。謙譲の美徳ですよね。
日本社会の高齢化と少子化は、もはや笑ってはいられない状況にあります。
あと100年で日本の人口は半分になるのだと見積られているのですが、低め安定で落ち着く100年後までは、国庫の税収は低下し、福祉補助の受給者は逆にうなぎ登り。労働者の数は圧倒的に足りなくて、これはけっこう厳しい世の中を我々は体験するのだろうと想像します。
お隣中国などは、あの取り返しのつかない一人っ子政策の後始末で、今や国家は致命的な状態のはず。
「国は困っているだろう、よくわかる」。
「私も困っているから それがわかるの」 。
「ちょうどいい頃合いかも。優遇ポイントも付くらしいし、それに乗るとするか」。
・・こういう流れかと。
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【安楽死希望者と、理由は分らないけれどそれを阻止しようとして暴れる若者】
駅前や、市役所での のぼり旗を立てた「プラン75」の申し込み所。
国家としても苦肉の策ですね。
国民の間にパニックや「優生思想」への抗議行動が起こらないように
極めてハートフルなイメージで、笑顔での対応。パンフレットもTVコマーシャルの政府公報も 穏やかで優しい。
ちゃんと職員の応対マニュアルも備わっています。
カウンセラーもケアマネもよく働く。
「お気持ちよくわかります」
「いつでもキャンセル出来ますからご心配はいりませんよ」と。
しかしその実、国家の危機なのです。政府は金のかかる高齢者の口減らしを、決して後退させることなく国策として強行に推し進めているわけでした。
国のこの願いと、老後に不安を覚えている当事者たちとの《心情的なマッチング》が、あまりにも上手く行けているので、シナリオがお見事でした。
行く先が見えないのです、国も個人も。
そんな時代の設定がすべて理解できるし、僕自身も心が動くし、あれこれ想像もつくだけに、何とも言えない思いが込み上げてしまう映像でした。
劇中、叔父の安楽死を止めようとして、公務員としての務めを忘れる男性や、脱走を助けようとする施設職員が出てくるのは、先述の「ソイレント・グリーン」も同じ。
でも、その若い人たちの気持ちに感謝しながらも そっとしておいてくれよなと、それをなだめるかのような老人の姿も同じ。
ナチス・ドイツが本当にやっちまった”ガス室ベルトコンベアー式"でないだけ、「プラン75」は、今日的で、民主的なやり方なのかもしれません。
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【DVDを見終わったあと、布団の中で考えた】
でもね、言ってみれば、
死ぬのが怖いから
貯蓄だ、ホームだ、年金だ、と我々は大騒ぎするのです。
発想の転換をして自分の死を受容すれば、あーら不思議、本当はなんにも困らないお話なのです。
騒ぐのは、「自分は死なない」とか、「長生きするはずだ」との、根拠の無い、非科学的な思い込みをしている人のすることです。
もういいかなーと思ったら、水だけ飲んで食を断てば1ヶ月で、綺麗に、静かに、楽に、人生を閉じられます。
ぜんぜん怖くない。
僕はこの方法を取りますよ。多分。
これは満足なエンディングでしょ?
どうだろう。
お国に命を献上する「特攻隊」とか、
お国の推奨する死を受け入れた人にのみ授与される「英霊」称号とか、
そしてこの「プラン75」への受付窓口の笑顔とか、お褒めの言葉とか、感謝状とか、支度金とか、埋葬サービスポイントとか。
そういう
《我々の極めてプライベートな個々の死に方》を、お上に優劣付けてもらうようなことはしなくてもいいと思うのです。
うちの犬もネコもチャボも、慌てず騒がず静かに死んで行きました。
外野に指図されることなく、感心するほど、命は まったく彼らのものでしたねぇ。
僕は、出来ればですが、あれに習いたいのです。
倍賞千恵子さんは、宵やみ迫る町並みを見つめながら映画は終了。
自分が死ぬのは初めてのことなので、不安なのは僕も隠しようがないけれど、出来ればそんなふうにしてみたいなと。
布団の中でずっと考えました。
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【倍賞千恵子】
歌に、演技に絶品の、
松竹歌劇団=SKDの華であった女優の倍賞千恵子さん。
ラジオで時おり流れる彼女の「さくら貝の歌」や「かあさんの歌」がとても良いですね。
この名女優が辿ってきたのはトップスターの人生です。でも彼女がお姫様女優やらセレブ女優にはならずに、彼女がずっと庶民であり続けたのは、
やはり「寅さんシリーズ」のお陰ではないかなと思いました。
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【おまけ、終活の知恵】
ちなみに「お金のまったくかからない死に方」についてお教えしますね、
大学病院の医学部への「献体」を今のうちに申し込んでおくのです。
臨終後、遺体搬送の寝台車の料金、
火葬等にかかる一切の諸経費、
望むなら大学病院の納骨堂への納骨、
すべてが0円、無料です。
慰霊の式典も大学がサービスでやってくれます。
うちの叔父夫婦はこれをやってのけたので、親族中のリスペクトの的です。
うちの両親も申し込み済みです、
年に一度の総会で、お土産にもらえるお弁当が楽しみなのだと、父は言ってます。
ただし、僕も申し込んでみたところ
「もう余っているので受け付け停止中」とのことでした。これは
・献体を申し出る篤志家が増えたのか、
・医学生の減少によるライヒェ=遺体の余剰か、
はたまた
・もうそこまで“無料”を聞きつけた生活困窮の高齢者が増えてきている、その結果なのか、
思いは複雑です。
ちなみに「献体」は、大学病院に登録申請書があるのですが、申請が満杯理由での不受理でも、枠としては都道府県別での受け付け故、献体が不足している他県への融通も情報の提供もやっていないとのことでした。
サービス悪いね。
えっ、僕ですか?
はい。長野県在住なのですが
第1志望校は 東京女子医大での解剖実習です。
身も心も純粋。まったく汚れなきわたくしの願い。
(このギャグだけは若い後輩たちにも、ようやくウケました)
テヘペロ。
75歳で自分の人生を選択できる世の中。 現代の75歳ってけっこう元...
一石を投じる意味では佳作
<映画のことば>
お年寄りって言うのは寂しいんです。
誰かに話を聞いてもらいたくて仕方がないんですね。
そういう方々に寄り添って、じっくり話を聞いて差し上げるのが、皆さんの仕事です。
実際、やっぱり途中で「やめたい」ってなる方がすごく多いんです。
そうならないように、皆さんがうまく誘導してあげなくちゃいけない。
人間ですから、不安になるのは当たり前ですよね。誰も好き好んで死にたいなんて思わないですよね。
そういう気持ちには、きちんと寄り添うことが大切です。
そのうえで、利用者様がこの世に未練を残すことなく心安らかに旅立っていただけるよう勇気づけるーそれが私たちの役割です。
☆ ☆ ☆
「駕篭に乗る人、担ぐ人。そのまた草鞋を作る人。」ー世の中は、いろいろな立場の人から成り立っている訳ですけれども。
立場が違えば、価値観も、ライフスタイルも、当然に違ってくることでしょう。
そういう違いの一切を捨象して「75歳」で線引することの無意味さということが、本作を通底するように、評論子には思われました。
つまり、個々人の特性に着目することなく、75歳以上は一律に社会的には無用・無価値と分類するもので、それは弱者・劣者に社会的な存在すら認めない優生思想の一種であって、政策としての当否を論ずる以前に、その前提として「個」の尊重を欠くことのできない民主主義社会での議論として、「外道」のそしりを免れないと考えます。
上掲の「映画のことば」は、覆っても覆いきれないプラン75のそういう矛盾をはからずも糊塗しようとするものとして、本作の中では重要な意味合いをもっていると、評論子は思います。
また、高齢者問題というと、年金保険料の負担など、若年層への負担ばかりが注目されがちですけれども。しかし、多くの高齢者は持病を抱えて病院にかかることで、若い医療従事者に雇用の場を提供し、公的介護保険の自己負担分を支払うことで介護産業を需要者として支え(そこでも若年労働者が多数雇用されていることはいうまでもない)、年金を原資として衣食住の需要を満たすことで経済の循環にも、立派に与っている。
そのことに思いが至ると、プラン75の「無意味さ」というのは一層明らかになると思いますし、そういう「無意味さ」の象徴としてか、ラスト近く、ミチ(倍賞千恵子)の、生気の抜け切ってしまったような、まるで魚か能面かのような無表情が、評論子には、印象に残る一本になりました。
現下の社会に切実な問題に、果敢に一石を投じようとする点では、佳作では、あったと思います。
『PLAN75』、次作に期待。
カンヌ国際映画祭・カメラドール特別表彰という触れ込みで、2022年に公開された映画です。高齢者の生き方、高齢者の存在を考えさせられます。
■リアリティが感じられない理由
なぜ、この映画には、リアリティが感じられないのか?
1976年生まれの早川千絵監督が持つ高齢者に対する誤解に起因しているか。あるいは、高齢者をめぐる古い社会通念が、この映画からリアリティを奪っているなのか。
「PLAN75」というタイトルが示すように、映画では75歳になると生死の選択権を高齢者に与える法制度が設けられ、その制度に翻弄される人々を描いています。
しかし、現在の75歳は、身体的にも精神的にも映画で描かれた人々より元気です。
日本老年学会と日本老年医学会は、心身が健康な高年齢者が増えたことから、高齢者の定義を75歳以上に引き上げるべきだと提言しており、75歳は高齢者の入口に差し掛かったにすぎません。
タイトルを付けるとすれば「PLN85」、女性中心に描くのであれば、男女の寿命差が5~6歳あるので「PLAN90」とすればよかったのかもしれません。
■ステレオタイプな高齢者の苦悩
年齢設定はさておき、
この映画のユニークなところは、生死の選択権という「法制度」を設定したところで、高齢者の社会的存在について問題提起しています。
ただ、この物語設定が、有効に機能するには・・
1) 超長寿化等によって多くの高齢者が苦難を抱えるようになり、
2) その結果、多くの高齢者が潜在的に死の願望を持つようになり、
3) それを法制度が後押しする
といった前提が必要です。それであれば、生死や善悪について深く考えることができます。
だからこそ、この物語設定に負けないように「”多くの”高齢者が抱える苦悩」をしっかり描く必要があります。
映画で描かれているのは、どちらかというと貧困に置かれている高齢者の苦悩でした。しかし、高齢者の8割が持家に住む現状の日本では、住宅難や就職難は高齢者共通の問題ではありません。
それでは、高齢者の貧困問題を取り上げたのでしょうか?
確かに高齢者は経済的・社会的に多様で、その中で貧困問題はむしろ若者世代以上に深刻です。しかし、PLAN75という法制度は全高齢者を対象にしたもので、制度的に貧困層にアプローチできるものではなく、それでは設定が曖昧になってしまいます。
このように、物語設定が面白いにもかかわらず、「多くの高齢者が抱える苦悩」の描き方が、ステレオタイプだと感じてしまいます。
■シニアの実存を描いて欲しい
それでは、「多くの高齢者が抱える苦悩」、潜在的に死の願望を持つような苦悩や問題はあるのでしょうか。
一つあるとすると「老い」の受容です。
もちろん、老いの受容は今に始まった問題ではありませんが、近年の超長寿化によって、老いとの向き合い方は大きく変容しています。
例えば、高齢者が働きたいと思っても働く場がないという就職ミスマッチは、特に元気で働く意欲を持つ高齢者が増え、働きたい期間も長くなって、拡大の一途をたどっています。
そして、これは映画で取り上げられたように貧困層に閉じているわけでなく、経済的に豊かな高齢者にも起きる新たな問題です。
このように横断的に拡がる高齢者の「社会からの疎外」を、超長寿化が後押ししてしまっていて、社会制度だけでなく1人ひとりが持つ通念を変えない限り、解決が難しい問題になりつつあります。
早川監督には是非、その繊細なタッチで、高齢者のリアルな実存の問題について描いてもらいたいというのが素直な感想です。
現実的なテーマ
説教くさい
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