「コウノトリが落ちたとき」チェルノブイリ1986 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
コウノトリが落ちたとき
主人公はチェルノブイリ原子力発電所のある地域を担当する消防士アレクセイ(愛称アリョーシャ)である。チェルノブイリ原発は、ベラルーシとの国境近く、ドニエプル川の支流であるリカ・プリピャチのそばに作られた冷却池の横に建てられている。南方100キロメートルに首都キエフがある。
同じ原発事故を扱った邦画の「Fukushima 50」とは切り口がまったく違っていて、事故の全体像があまり見えてこない。それも当然で、本作品はロシア映画である。民主主義国とは違って、当局の検閲は厳しい。「Fukushima 50」のような作品を作ったら、上映ができない可能性があるだろう。
その点を考えると、家族愛を物語の中心にしたのは苦肉の策で、それでも登場人物のセリフの端々には国民の命を軽視する政治権力への批判がある。前半を主人公の個人的な生活の描写にしたのも、当局の検閲を和らげるためかもしれないし、主人公を身勝手な大酒飲みの男にしたのも、前半は割と退屈な話がダラダラ続くのも、同様かもしれない。
後半は刮目して鑑賞することをおすすめする。本作品の中心は事故発生後にある。現場の従事者は命がけで頑張って被害者を救おうとしているが、政権中枢の反応は遅い。福島原発事故のときはスマートフォンなどの通信機器が行き渡っていたが、1986年の段階では電話が最速の通信手段だった。電話では画像も送れない。
とはいえ、強い放射能が発生している炉心付近では、画像や通信どころか、近づくことさえできない。その点では福島原発事故も同じで、原子炉がどうなっているのか、未だに分かっていない。分かっていないまま、福島原発は廃炉作業が進められている。廃炉には30年から40年ほどかかるそうだ。
はっきりわかるのは、原子力は人間が制御できるものではないということだ。できるのは原子爆弾や水素爆弾で、雷管さえ作動させなければ爆発はしない。それに対して原子力発電は核分裂の連鎖反応を制御するわけだから、非常に困難な技術であり、僅かなミスや誤作動、それに天災地変によって容易に暴走する。
核爆弾は別の意味合いで人間には制御できない。核の抑止力は核兵器を使わないことで成り立つが、ひとたび核兵器の発射ボタンが押されてしまえば、対抗策として核のボタンが押される。更に対抗してとなると、何発の原爆が爆発するのかわからないし、どれくらいの被害が出るか予想がつかない。人類滅亡の危機が訪れる可能性もある。
ロシアのプーチン大統領がウクライナに侵攻したこの時期に本作品が公開されたことの意義は、原子力は人間には制御不可だというテーマにあると思う。
原題の直訳は「コウノトリが落ちたとき」である。これから鑑賞する人は、この言葉を覚えておくといい。