「避妊の自由こそ、女性の究極の自由」われ弱ければ 矢嶋楫子伝 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
避妊の自由こそ、女性の究極の自由
当方は聖書は読むが、クリスチャンではない。だから本作品のようなキリスト教礼賛の映画には若干の抵抗がある。精神の自由を毀損されるように感じてしまうのだ。
予想していなかった終映後の舞台挨拶は、例によって作品の礼賛と、SNSでの拡散希望を訴えるもので、いつものことながら辟易してしまった。山田火砂子監督の90歳という年齢ばかりを強調する司会者にも呆れた。舞台挨拶があるなら見たかった常盤貴子はスケジュールが合わなくて来られなかったとのこと。一から十まで残念な舞台挨拶である。
冒頭の三浦綾子の文章の朗読(栗原小巻)ですべてを了解した。三浦綾子はクリスチャン小説家として有名だ。「愛とは許すこと」というテーマでたくさんの小説を書いている。クリスチャンの矢嶋楫子を礼賛するのは当然だろう。
登場人物はたくさんいたが、俳優らしい俳優は主演の常盤貴子と渡辺いっけい、それに石黒賢くらいだ。ワンポイントの竹下景子や小倉一郎、ほっしゃん、駒井蓮は役を卒なくこなしている。ほかは素人さんが学芸会みたいに出演していた。俳優の渡辺大が酷かった。俳優とも思えない存在感のなさは、父親の渡辺謙に反比例したみたいだ。
女性の地位向上を主張するのは悪いことではない。国会議員や大臣の男女同数制もいいと思う。企業の女性重役登用の促進もいいだろう。しかしそれだと一部の女性だけが地位向上するのみである。貧しい一般女性の地位はどうすれば向上するか。
それは女性向けの避妊薬を無料で配布することである。避妊目的のミレーナの子宮挿入を保険適用し、女性の避妊手術の制約も撤廃するべきだ。
恋をすればセックスをしたくなるのは自然である。そのときに女性だけが妊娠のリスクを負うのは不公平だ。この不公平が是正されてはじめて、女性に自由が得られると思う。避妊の自由こそ、女性の究極の自由である。