「それなりに楽しい作品」マイ・ニューヨーク・ダイアリー 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
それなりに楽しい作品
何のエッセイか忘れたが、大江健三郎が、数年に一度はドストエフスキーを読み耽ることがあって、それは幸福な時間だという意味のことを書いていた記憶がある。ドストエフスキーを読んだことがある人ならご存知だと思うが、作品の多くは会話によって成り立っている。話し手が自分の魂を取り出して見せるような会話である。あるいは人の心の奥を覗き込んで囁きかけるような会話である。そんな会話で溢れたドストエフスキーの小説は、一度読みはじめると止まらない。ドストエフスキーとの濃密な時間を過ごすことになる。
本作品の原題は「My Salinger year」である。ヒロインのジョアンナは、とても気に入って長期滞在することにしたニューヨークで、J・D・サリンジャーという生きる伝説にまつわる濃密な時間を過ごす。
サリンジャーを読んだこともないジョアンナだが、サリンジャー本人からの電話を受けて勇気づけられる。そして同居相手が留守をしている間に、サリンジャーを読み耽る。それは大江健三郎がドストエフスキーを読んで過ごした濃密な時間と同じで、優れた作品は読む人の魂を揺さぶり、自分でも見ようとしなかった心の闇を炙り出す。
心の闇はカオスだ。あらゆる感情と記憶と妄想が渦巻いている。多くの人はそれを理性の衣装で押し隠して、社会と上手く生きていく。しかしカオスを言葉で表現しようとする人もいる。詩人であり、小説家だ。ジョアンナはサリンジャーとその作品との関わり合いによって、人生を見つける。にこやかなジョアンナの心の奥には、マグマの滾った火山があるのだ。いくらでも噴火できるだろう。
ジョアンナを演じた女優さんはやや表情に乏しく、観客が想像力で補わなければならないところがあったが、共演したシガニー・ウィーバーの素晴らしい演技に助けられて、ジョアンナという難役をなんとか演じきったと思う。それなりに楽しい作品だ。