「人間としての器量」ケイコ 目を澄ませて sankouさんの映画レビュー(感想・評価)
人間としての器量
冒頭の説明的なテロップの効果もあり、フィクションでありながらまるでドキュメンタリー映画を観ているような感覚を抱いた。
これが演出的にとても成功しているのだろう。
特にミット打ちのシーンは、演技ではなく本気で向かい合っているのが画面を通して伝わってくる。
そのリアルな臨場感がこの映画の持ち味だろう。
主人公は耳の聞こえない小柄な女性ケイコ。
王道なストーリーであれば、耳が聞こえないというハンデを克服し、ケイコがプロボクサーとして成長していくまでの過程を描くのだろうが、この映画では既にケイコはプロボクサーのライセンスを取得している。
そしてプロボクサーとしてリングに上がり、順調に勝ち星を重ねている。
リアルな空気感をまとったボクシング映画でありながら、ケイコがボクサーとして成長していくことに焦点は置いていない。
そもそもケイコがボクサーを目指した動機も謎のままだ。
この映画では語られない部分がとても多い。
ではこの映画の主題は何なのだろうと考えさせられた。
障害を持つ人間に焦点を当てているが、社会の生きづらさをテーマにしているわけではない。
印象的なのは、会長がインタビューでケイコにはボクサーとしての才能はないが、人間としての器量があると答えるシーンだ。
この台詞がこの映画ではとても重要なのではないかと思った。
ケイコは連続して勝ち星を重ねるが、突如ボクシングへの熱を失ってしまったように感じる。
それは会長がジムを閉めることを決意したことと無関係ではないだろう。
彼女がボクサーを目指したのは、そしてモチベーションを保っていられたのは、おそらく会長の存在が大きかったのだと思う。
認められたいという欲求とも違う気がするが、とにかく彼女は会長がいない世界でボクシングを続けることに意義を見出だせなくなったのかもしれない。
ボクシングとしての才能はないのかもしれないか、彼女はひたむきになれる強さがある。
そして無愛想だが実はとても親切で心優しい。
彼女が掛け持ちしているホテルの清掃の仕事で、新人にシーツの畳み方を教える時の柔らかな表情が印象的だった。
ケイコはボクシングを休みたいと伝えるために会長の元を訪れる。
しかしそこで会長が熱心に自分の試合の録画を見ながら、トレーニングメニューを組んでいる姿を見て驚く。
ケイコと会長が二人でシャドーボクシングをするシーンは印象的だ。
言葉を介さなくても、二人は心で繋がっていることが分かる。
そんな折り、会長は病に倒れてしまうが、再び彼女はボクサーとして戦う気力を取り戻していく。
ひたすらロードワークとミット打ちを繰り返す日々。
派手な試合のシーンよりも、そうした単調な基礎の練習の積み重ねを描くことの方が、この作品にとっては重要だったのだろう。
確実にミット打ちが上手くなっているケイコの姿に感動を覚えたのも確かだ。
努力を積み重ねても、必ずしも結果が伴うわけではない。
それは障害の有無とは関係がない。
悔しい思いをしても、地道に努力を積み重ねるしかない。
そしてひた向きに生きていれば、理解を示してくれる人は絶対に現れる。
ケイコの人物造形といい、かなりリアリティーのある作品ではあったが、どこにこの作品の肝があるのか、最後までいまいち理解出来ないままだった。
理屈抜きに好きになれるかどうかがはっきり分かれる作品だとも思った。