劇場公開日 2022年3月11日

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「美青年の彷徨を描くブレッソン流の「青春の蹉跌」。老人が描いた「若さ」の虚無と高慢の輝き。」たぶん悪魔が じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0美青年の彷徨を描くブレッソン流の「青春の蹉跌」。老人が描いた「若さ」の虚無と高慢の輝き。

2022年3月21日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

演劇的な感情表現や過度な演出を極力排し、素人役者だけを使って、人形(モデル)を振り付けるように「シネマトグラフ」を撮ったロベール・ブレッソン。
本作は、彼が遺作『ラルジャン』の一本前に撮った晩年の作品だ。

ブレッソン自身は、この映画を大衆文明批判として撮ったと言及している。「私たちはすべてのものを台無しにしようとしている、このまま大衆文明が進めば、もはや個人など存在できなくなる。この狂気の煽動。私たちの住んでいる場所で、巨大な解体作業が進んでいる。そのことに、一部の明晰な若者たちを除いては、誰もが驚くべき無関心を決め込んでいる」
要するに、本作を製作した根底には、「社会派映画」として世界の危機を訴える意図がある。
若者たち(とくにミシェル)は、その壊れゆく社会について「自覚的な」明晰なる若者であり、議論を明確化する「触媒」として導入されているといっていい。
そのなかで希死念慮に抗えず、死への傾斜を滑り降りてゆくシャルルは、おそらくなら「壊れゆく社会」の悪しき影響を受けた犠牲者、あまりに敏感で感受性豊かであるがゆえに、狂った世界の汚濁に拒否反応を示し、ペシミズムとニヒリズムに否応なくとらわれてゆく存在として定義されている。
「では、人類を嘲笑って楽しんでいるのは誰なのか? 私たちを裏から操っているのは誰なのか? たぶん悪魔だ!」(バスの乗客のセリフ)

でも僕としてはこの映画が、76歳の老人監督が20代の青年たちの日常を描いてみせた「青春映画」なのだということを、まずは肝に銘じたい。
主人公に『ベニスに死す』(71)のタッジオと似た青年を選び、わざわざ似た髪型までさせていることも。本作のカメラマン、パスクァリーノ・デ・サンティスが『ベニスに死す』のカメラマンであることも。
それから、『たぶん悪魔が』では、化学汚染と環境破壊に対する危機意識が強く打ち出されている一方で、『ベニスに死す』では「コレラの流行」が物語の重大な背景になっていた点にも留意したい。
「若さ」をテーマとする両作は、どちらも「得体の知れない他者による世界への攻撃と“穢れ”」が、若者の未来を脅かす存在として背景に組み込まれているのだ。

そもそもヴィスコンティは同性愛者だが、『ベニスに死す』は必ずしも性愛的な意味での同性愛映画とは言い切れない。むしろあれは、死を目前にした老いた人間が、自分の手から零れ落ちてゆく「若さ」と「活力」の原初的発露を少年の美に見出し、ある種のイデアとして焦がれ、希求する美学的な映画だ。だからこそ、胸を焦がす対象は同性でなければなかったのだ。

『たぶん悪魔が』が、青年の希望と未来ではなく、虚無とよるべなさと希死念慮を描く映画でありながらも、そこに、とある年齢の青年しか持ちえない、はかない一瞬の美と若さの輝きが刻印されているのもまた事実だ。全編にわたって、抑え目ではあるがブレッソン映画にしてはどこか爽やかで、叙情的な空気が間違いなく流れている。ニヒルで陰鬱ではあるが、透明感があって、みずみずしい。

やはり、これはブレッソンという「老人」が考える、「若さ」の映画なのだ、と僕は思う。
きわめて逆説的ではあるが、余命いくばくもない生に執着するしかない老人からしてみれば、むしろ虚無を生き、何にも心を動かさず、死に囚われて彷徨う青年の姿もまた、「若さ」の大いなる特権といえるのかもしれないのだから。

実際、今まで観たブレッソンの作品においても、『バルタザールどこへ行く』の不良軍団や、『田舎司祭の日記』のバイカー青年など、アプレっぽい青年を描くときに限って、ブレッソンの眼差しはどこか温かいというか、好ましいと感じている風なのが漏れ出ているように思われる。
シネマトグラフの独自ルールが少しゆるむというか、映画に自然さと感情の機微が増すのだ。
これは、『たぶん悪魔が』でも間違いなく言えることだ。
冒頭で触れたとおり、ブレッソンは政治的な若者について「世界の危機に自覚的な存在」として高く評価している。だがその前提として、彼は純粋に、若い連中を見たり、相手に仕事するのが好きだったのではないか。

それにブレッソン映画で、若い子があっけなく「自死」を選ぶのはむしろ「普通」のことだ。
圧力をかけると突然ぽっきり折れる木のように、受難の続く厳しい生に背を向けて、彼らは「それじゃあね」と死を選ぶ。
『少女ムシェット』しかり、『やさしい女』しかり。『田舎司祭の日記』だって、パンと葡萄酒ばっかり食べてて胃がんになるんだから、半分自死みたいなものである。
要するにブレッソンにとって、「死」は必ずしもネガティヴな試練と呼ぶにとどまらず、みずから選んで「真実にまみえる」ことのできる特権的な瞬間でもあったようだ。
そして、その真実にまみえる権利を、「苦しみのなかで生きる受難の若者」だけが有しているということだろう。
『たぶん悪魔が』は、どこまでも救いのない映画だ。でも、案外ブレッソンは本作を「とても楽しんで」撮っていたのではないか? 僕にはそう思えてならない。

ーーー

ちなみに、本作を観ていてちょっと驚いたのは、環境汚染問題に関するフッテージフィルムの、あまりに直截的で衒いの無いストレートな扱いだった。
いや、そりゃ「社会派映画」として撮ってるんだから、当たり前だろと言われるかもしれない。
でも、なんか違うんだよね。
ブレッソンって、こういうダサいこと、平気の平左で出来る監督だったんだ。
あれだけ、人間の感情表現については、嫌悪感に近いほどの拒否反応を示し、シネマトグラフという「マイルール」まで作って、自作から排除しようとしたのに。
こういうプロパガンダっぽい卑俗な環境破壊映像はしれっと挿入できちゃうんだ。
まあ、監督が入れたというより、作品内の登場人物が流している体ではあるんだけど、それでも彼の「戒律的」ともいえる極度に禁欲的な演出スタイルからすれば、こういうたとえばアザラシの赤ちゃんが撲殺されて可哀想!みたいなフィルムを生のまま放り込んでくるってのは、正直ちょっと意外だったのだ。

でも改めて考えてみると、ブレッソンって、車とか、船とか、ゴーカートとか、馬とか、ロバとか撮るときは、別に言うほど禁欲的ってわけでもなかったりする。
むしろ、躍動感をもってちゃんと動的にとらえられているし、なんなら感情豊かですらある。
「人を撮る」ときにだけ、異様に「演技」を忌み嫌い、やたら「穢れ」を気にしているということだ。
役者を、与えられたコマンドを出力するだけの「人形」にまで貶めないと気が済まないというのは、敷衍すれば、ブレッソンという人物がそれくらい生理的なレベルで、感情豊かな人と人との自然なやりとりを怖れている、といっていいのかもしれない。
だから、ちょっと思うんだよね、ロベール・ブレッソンってじつは結構強度の自閉症スペクトラム(アスペルガー)だったんじゃないかって。
なんとなく、この人には、人と人とのコミュニケーションが、そもそも(=もともと)他の人とは違って見えてたんじゃないかと。それをマイルールのコードで「変換」しながら、自分にも腑に落ちるように咀嚼しながら生きてきたんじゃないかと。そのコード変換を「映画技法」として表現したものこそが「シネマトグラフ」なんじゃないか、と。
同じような「ズレ」と「気づき」の感覚は、内田百閒や川端康成を読むときにも感じるし、キューブリックの映画を観るときにも感じるわけだが、人間のやりとりについて僕たちとは違う感性をもって、違う角度から眺められる能力を有するというのは、創作者として、ある意味圧倒的な「強み」でもある。ロベッソンという人は、そこを極めて雄弁に「理論化」「方法論化」してみせた人物だったのではあるまいか。

『たぶん悪魔が』に話を戻せば、本作の主人公シャルルの抱える虚無と、居場所のない宙ぶらりんの感覚に共感できるかできないかで、作品の好き嫌いは180度変わってきてしまうだろう。
正直をいえば、僕自身はあまりこういう殺伐とした青春とは無縁で、大して悩むこともなく打算的に楽しく暮らしてきた口なので、あまりそちら方面には負の想像力が働かなかったりする。ぶっちゃけて言うと、自殺に惹かれる感覚自体、僕にはあまりよくわからない。世の中に対して生きづらさ自体を感じたことがないからだ。これは生来の性分だから仕方がない。
それでも、高校生の頃は『されどわれらが日々』とか『ノルウェイの森』とか読んで号泣したりもしていたので(笑)、別にそういう悩み多き若人の生を敵視したり、嘲笑ったりしたいわけでもない。
むしろ、ある種の憧れがあるくらいだ。
『ノルウェイの森』などは、『ここに悪魔が』よりずっとセンチメンタルな青春小説ではあるが、登場人物がきわめて容易に死への傾斜に囚われて、ころころと煙草でも喫うかのように死んでいく様子には、まあまあ衝撃を受けたものだった。
でも、あの小説が僕の心を動かしたのは、そのように感じるように「情緒的に」書かれていたからだ。

でも、ロベール・ブレッソンの情動を抑えた禁欲的な手法で、青年の無軌道と孤独を描かれても、僕としては、客体化された(虫のような)観察の対象としてしか、捉えられないところがあった。
『少女ムシェット』や『バルタザールどこに行く』を観たとき、なぜ僕の心が動かされたかというと、それは主人公が一方的に世界から総攻撃を受けていたから――「受難」の果てに待ち受ける「死」に、前向きな意味でのキリスト教的な「解放」と「啓示」の可能性を見出し得たからだ。
でも、本作のシャルルの場合は違う。むしろ世界はシャルルに優しい。みんながシャルルを気に掛け、シャルルに尽くし、シャルルにかしずいているといっていいくらいだ。
それでも彼は満ち足りない。もともと壊れているから。心が死にたがっているから。
そういう人間を前にしたとき、僕は思ってしまうのだ、ただ「じゃあしょうがないね」と。

まあ、あとシャルルみたいな青年を観ても、別にかっこいいともハンサムとも思わないってのも、いまいち乗り切れなかった理由として、あるのかな。僕の理想の「美青年」は、あくまでアラン・ドロンと沖雅也なので(笑)。

じゃい