たぶん悪魔がのレビュー・感想・評価
全10件を表示
青春の蹉跌
冒頭にある青年の死が報じられ、そこから遡って死へのカウントダウンを追っていく「市民ケーン」風の構造。ロベール・ブレッソンの映画ではおなじみの、無表情な登場人物たちが抑揚のない台詞を語る。ブレッソンやジャン=ピエール・メルヴィルに親しんでしまうと、普通の映画の口跡が白々しく感じるという副作用が生じる。
環境汚染や核などの社会問題についての言及が、ブレッソンにしては珍しい。黒澤明の「生きものの記録」では核の恐怖に耐えられなくなった主人公が狂気へと逃避するが、この映画の青年が破滅に導かれたのも同様の絶望なのだろうか。
青年たちの属性や人間関係が説明されないまま進行するので、置いてきぼりにされたような気分になる。ブレッソンは「創造とは付加よりもむしろ削除である」と言っているように、必要最小限しか描写しない。この唯一無二の高踏的な作風は、遺作「ラルジャン」で完璧に結実する。
ブレッソンの余りにも救いのない到達点
ロベール・ブレッソンの日本劇場初公開作品。
主人公の美しき青年。
学問にも、政治にも、宗教にも、そして彼を愛する二人の女性にさえも救われることがなかった。
挿入される環境破壊のドキュメンタリー映像も陳腐化することなく世紀末を映し出した。
ただ淡々と死に向かって行く。
あまりにも殺伐としていた。
何の救いもなく何の感情移入も許さなかった。
観る者すべてを陰鬱にする傑作。
う〜ん、これをブレッソンの到達点とするのか。
しなければいけないのか。
見かけに反してムチャクチャ難易度は高い…。
今年120本目(合計394本目/今月(2022年4月度)30本目)。
映画の内容自体は他の方も書かれている通り、当時のフランスのあのような思想観というか空気感というのはあったのだろうとは思います。このいった時代を生きた主人公(シャルル)の行動がひとつのテーマなのですが、なにせ「たぶん悪魔が」というタイトルなので、行く場所も発言も実にムチャクチャで、理解がかなり苦労します。というより理解はもう無理…?
特に精神疾患を持っているという設定はなかったと思うのですが(薬を飲む、というシーンはある)それにしても話が飛び飛びでついていくだけで大変です。
(1) モンテスキューの思想がどうこうという話
(2) プロテスタントの決まりがどうこうというお話
(3) 文系ネタかな…と思いきや、(log x) を微分したらどうなるか?という話を突然してくる…( (log x)' = 1/x が正解)。
(4) 環境問題に興味を持ったシャルルが日本の水俣病の話をしたりという展開(日本で観る限り、肖像権の問題などは大丈夫なのでしょうか…)
(5) そのあと、薬を飲んだとか飲まないとかという話
(6) どこかの大学。物理学か工学をやっている模様。「エルグ」や「レム」といった聞きなれない単語が出てきて???????になる(多分ここで力尽きる…下記※1)
(7) 理系映画なのか文系映画なのかよくわからないなぁと思ったら、また哲学がどうこうという話になる
(8) あと色々あるものの、最終的には衝撃的なラストを迎える(といっても、書かれている方いますが)
実に文系理系両方の知識を相当要求している映画でして、一般にフランス映画は何らかの意味で余韻を残すような映画が好まれますが、この映画に限って言うと余韻がどうこう以前に「全体として何を言っているのかわからない or 映画の主義主張がまるで不明」という人は多数出るんじゃないか…という印象です。正直ムチャクチャマニアックです。
減点は1.2(七捨八入で4.0)にしました。過去の3.5の基準(→「樹海村」「DAUナターシャ」と同じレベルとまでは認め得なかったためです)
-------------------------------------------------------------------------------------------
(減点1.2) 上記の(6)の「エルグ」「レム」という単位が突然出てくるところがとにかく難易度が高めです。実際、わかる方は相当少ないのでは…とさえ思います。
日本では古い時代に使わていた慣用の単位から、一部の分野でのみ使われていた単位、また、分野によっても単位の使い方が違うといったことが普通にありました。これでは国際貿易の観点で日本は勝てませんから、「計量法」(平成4年)に「社会ではこれら以外の単位を原則として使わないようにしましょう」という法ができ、それまで使われていた単位は使えなくなりました(一定程度の猶予はありました)
▼ 計量法で取り締まりの対象になるもの:理科の教科書や、「取引や証明」
→当然、個人の知識も計量法が前提とした考え方になる
▼ 計量法の対象外になるもの、
→ 小説や映画、ニュースなど
ここで「エルグ」という単位が出てきますが、「エルグ」は熱などを表す非SI単位系(CGS単位系といった)で用いられていた単位です。今ではSI単位系の「ジュールJ」があります。もちろん、簡単に単位「だけ」よいというものではなく、1J = 10^7 erg (10の7乗)という扱いです(レムについても同様。SI単位系のシーベルトに変換。1Sv = 100rem (Sv:「シーベルト」、rem 「レム」)
--------
▼ 参考
★ 日本でも、この計量法が運用されるにあたって「誰でも知っていること」が変わった事例があります。秋になるとよく台風がきますが、計量法以前は、台風の気圧は「ミリバール」でした。しかし「バール」は認められていない単位でした。しかし、計量法で「バールが」使えない以上、実質同趣旨のSI単位系を使うしかありません。しかし、それが「(ヘクト)パスカル」です。
しかし、950ミリバール(ヘクトパスカル)を単純に「パスカル」に言い直すと9.5「パスカル」というよくわからない表記になってしまいます。このときは、計量法の順守ということ以上に「台風といった自然災害の報道で視聴者に混乱を与えない」という点も論点でした。そこで「100倍」を意味する「ヘクト」をつけて「ヘクトパスカル」とすることで「○ミリバール」と「○ヘクトパスカル」は言い換え可能になったのです。
ヘクト自体は「ヘクタール」(ヘクト・アール)くらいでしか従来出てこなかったのですが、ここで「株を上げた」感じです(もっとも、それ以降「ヘクト」を使うようなことも余りありませんが…)。
--------
シャルルは自分の手で自殺することはせずに、ともだちに「古代ローマ風...
シャルルは自分の手で自殺することはせずに、ともだちに「古代ローマ風に」と頼んで墓地で自殺に見せかけて殺してもらう。
死に至るその瞬間に最も崇高な瞬間が訪れる、とシャルルは語るのだけれど、シャルルは、死の瞬間を知ることはなく、ともだちに背を向けて話しながら歩いているときに殺されてしまう。でも、よかったのかもしれない。死の瞬間を彼が自覚した状態で迎えたとしても、結局彼はその崇高な瞬間を手に入れることはないように思うから、
彼は虚無にとらわれていて、いわば後ろ向きに生きていたのだけれど、ここでもまた、死にすら背を向けていることが描かれている。彼が生と死のあいだをゆらゆら揺れ動くこの物語には、恐ろしいくらい、ぴったりだ、
彼の最後の言葉は、ともだちに向けた「知りたいか?」という問いかけ。ともだちはそれには答えることはない。誰も答える者がなく浮遊して漂い続ける問いかけの言葉があまりに空虚だ。そして、最もその答えを「知りたい」と思っているのはきっと彼自身なのかもしれない、
シャルルは虚無にとらわれて淡々と生きているから、物語はゆるゆると進むのだけれど、最後の場面は、シャルルを撃ち殺したともだちがお金を握りしめて、走り去っていく。突然に物語のテンポがあがり、そのまま終わってしまう。死んだシャルルの身体と一緒に、見ている観客まで置いていかれるような、あの静かさ。
死んだシャルルの美しい顔が忘れられない。虚無を抱えたまま、ひとりで、ほんとうに古代ローマの彫刻の題材のように死んでしまった、
・突然に物語のなかに挿入される、環境問題や争いなどの同時代の暗いニュースの映像が、シャルルの虚無を可視化しているように使われていたように思う。特に、人間がアザラシをめちゃめちゃに叩く映像、、人間の愚かさとか、それをどうしようもできない無力さとか。または、めちゃめちゃに叩かれてるのって実は自分自身なんじゃないかっていう社会の理不尽さだとか。そんな映像たちをシャルルたちは、悲しむわけでもなく、ただ、淡々と虚に無表情で見ている。
・容姿が美しくて、頭も良くて、なんの不自由のない人だからこそ、あんなに虚無にとらわれて死んでいってしまう社会の生きづらさ、
退屈&陰気
ゲージュツ系で暗いし退屈。登場人物たちはみんな鬱っぽくて悩んでて世の中と人生が面白くなくて無表情で全然笑ったりすることもなくて思わず走り出したりすることもなくてクソ真面目な会話しかしなくてユーモアのカケラもなくてワロタ。すごい不自然な感じであざといわ。
みんな美形だしフランスの景色や生活が絵になるから退屈な話でも観れるけど、日本を舞台に日本人だけ出演して同じもの作ったらクソつまんないと思う。
2度見に来て2度共眠ってしまった。疲れているのかブレッソンは私には...
2度見に来て2度共眠ってしまった。疲れているのかブレッソンは私にはハイレベルなのか。ただヴェニスに死すを意識しているのはわかった。一人ヴェニスに死す。
美青年の彷徨を描くブレッソン流の「青春の蹉跌」。老人が描いた「若さ」の虚無と高慢の輝き。
演劇的な感情表現や過度な演出を極力排し、素人役者だけを使って、人形(モデル)を振り付けるように「シネマトグラフ」を撮ったロベール・ブレッソン。
本作は、彼が遺作『ラルジャン』の一本前に撮った晩年の作品だ。
ブレッソン自身は、この映画を大衆文明批判として撮ったと言及している。「私たちはすべてのものを台無しにしようとしている、このまま大衆文明が進めば、もはや個人など存在できなくなる。この狂気の煽動。私たちの住んでいる場所で、巨大な解体作業が進んでいる。そのことに、一部の明晰な若者たちを除いては、誰もが驚くべき無関心を決め込んでいる」
要するに、本作を製作した根底には、「社会派映画」として世界の危機を訴える意図がある。
若者たち(とくにミシェル)は、その壊れゆく社会について「自覚的な」明晰なる若者であり、議論を明確化する「触媒」として導入されているといっていい。
そのなかで希死念慮に抗えず、死への傾斜を滑り降りてゆくシャルルは、おそらくなら「壊れゆく社会」の悪しき影響を受けた犠牲者、あまりに敏感で感受性豊かであるがゆえに、狂った世界の汚濁に拒否反応を示し、ペシミズムとニヒリズムに否応なくとらわれてゆく存在として定義されている。
「では、人類を嘲笑って楽しんでいるのは誰なのか? 私たちを裏から操っているのは誰なのか? たぶん悪魔だ!」(バスの乗客のセリフ)
でも僕としてはこの映画が、76歳の老人監督が20代の青年たちの日常を描いてみせた「青春映画」なのだということを、まずは肝に銘じたい。
主人公に『ベニスに死す』(71)のタッジオと似た青年を選び、わざわざ似た髪型までさせていることも。本作のカメラマン、パスクァリーノ・デ・サンティスが『ベニスに死す』のカメラマンであることも。
それから、『たぶん悪魔が』では、化学汚染と環境破壊に対する危機意識が強く打ち出されている一方で、『ベニスに死す』では「コレラの流行」が物語の重大な背景になっていた点にも留意したい。
「若さ」をテーマとする両作は、どちらも「得体の知れない他者による世界への攻撃と“穢れ”」が、若者の未来を脅かす存在として背景に組み込まれているのだ。
そもそもヴィスコンティは同性愛者だが、『ベニスに死す』は必ずしも性愛的な意味での同性愛映画とは言い切れない。むしろあれは、死を目前にした老いた人間が、自分の手から零れ落ちてゆく「若さ」と「活力」の原初的発露を少年の美に見出し、ある種のイデアとして焦がれ、希求する美学的な映画だ。だからこそ、胸を焦がす対象は同性でなければなかったのだ。
『たぶん悪魔が』が、青年の希望と未来ではなく、虚無とよるべなさと希死念慮を描く映画でありながらも、そこに、とある年齢の青年しか持ちえない、はかない一瞬の美と若さの輝きが刻印されているのもまた事実だ。全編にわたって、抑え目ではあるがブレッソン映画にしてはどこか爽やかで、叙情的な空気が間違いなく流れている。ニヒルで陰鬱ではあるが、透明感があって、みずみずしい。
やはり、これはブレッソンという「老人」が考える、「若さ」の映画なのだ、と僕は思う。
きわめて逆説的ではあるが、余命いくばくもない生に執着するしかない老人からしてみれば、むしろ虚無を生き、何にも心を動かさず、死に囚われて彷徨う青年の姿もまた、「若さ」の大いなる特権といえるのかもしれないのだから。
実際、今まで観たブレッソンの作品においても、『バルタザールどこへ行く』の不良軍団や、『田舎司祭の日記』のバイカー青年など、アプレっぽい青年を描くときに限って、ブレッソンの眼差しはどこか温かいというか、好ましいと感じている風なのが漏れ出ているように思われる。
シネマトグラフの独自ルールが少しゆるむというか、映画に自然さと感情の機微が増すのだ。
これは、『たぶん悪魔が』でも間違いなく言えることだ。
冒頭で触れたとおり、ブレッソンは政治的な若者について「世界の危機に自覚的な存在」として高く評価している。だがその前提として、彼は純粋に、若い連中を見たり、相手に仕事するのが好きだったのではないか。
それにブレッソン映画で、若い子があっけなく「自死」を選ぶのはむしろ「普通」のことだ。
圧力をかけると突然ぽっきり折れる木のように、受難の続く厳しい生に背を向けて、彼らは「それじゃあね」と死を選ぶ。
『少女ムシェット』しかり、『やさしい女』しかり。『田舎司祭の日記』だって、パンと葡萄酒ばっかり食べてて胃がんになるんだから、半分自死みたいなものである。
要するにブレッソンにとって、「死」は必ずしもネガティヴな試練と呼ぶにとどまらず、みずから選んで「真実にまみえる」ことのできる特権的な瞬間でもあったようだ。
そして、その真実にまみえる権利を、「苦しみのなかで生きる受難の若者」だけが有しているということだろう。
『たぶん悪魔が』は、どこまでも救いのない映画だ。でも、案外ブレッソンは本作を「とても楽しんで」撮っていたのではないか? 僕にはそう思えてならない。
ーーー
ちなみに、本作を観ていてちょっと驚いたのは、環境汚染問題に関するフッテージフィルムの、あまりに直截的で衒いの無いストレートな扱いだった。
いや、そりゃ「社会派映画」として撮ってるんだから、当たり前だろと言われるかもしれない。
でも、なんか違うんだよね。
ブレッソンって、こういうダサいこと、平気の平左で出来る監督だったんだ。
あれだけ、人間の感情表現については、嫌悪感に近いほどの拒否反応を示し、シネマトグラフという「マイルール」まで作って、自作から排除しようとしたのに。
こういうプロパガンダっぽい卑俗な環境破壊映像はしれっと挿入できちゃうんだ。
まあ、監督が入れたというより、作品内の登場人物が流している体ではあるんだけど、それでも彼の「戒律的」ともいえる極度に禁欲的な演出スタイルからすれば、こういうたとえばアザラシの赤ちゃんが撲殺されて可哀想!みたいなフィルムを生のまま放り込んでくるってのは、正直ちょっと意外だったのだ。
でも改めて考えてみると、ブレッソンって、車とか、船とか、ゴーカートとか、馬とか、ロバとか撮るときは、別に言うほど禁欲的ってわけでもなかったりする。
むしろ、躍動感をもってちゃんと動的にとらえられているし、なんなら感情豊かですらある。
「人を撮る」ときにだけ、異様に「演技」を忌み嫌い、やたら「穢れ」を気にしているということだ。
役者を、与えられたコマンドを出力するだけの「人形」にまで貶めないと気が済まないというのは、敷衍すれば、ブレッソンという人物がそれくらい生理的なレベルで、感情豊かな人と人との自然なやりとりを怖れている、といっていいのかもしれない。
だから、ちょっと思うんだよね、ロベール・ブレッソンってじつは結構強度の自閉症スペクトラム(アスペルガー)だったんじゃないかって。
なんとなく、この人には、人と人とのコミュニケーションが、そもそも(=もともと)他の人とは違って見えてたんじゃないかと。それをマイルールのコードで「変換」しながら、自分にも腑に落ちるように咀嚼しながら生きてきたんじゃないかと。そのコード変換を「映画技法」として表現したものこそが「シネマトグラフ」なんじゃないか、と。
同じような「ズレ」と「気づき」の感覚は、内田百閒や川端康成を読むときにも感じるし、キューブリックの映画を観るときにも感じるわけだが、人間のやりとりについて僕たちとは違う感性をもって、違う角度から眺められる能力を有するというのは、創作者として、ある意味圧倒的な「強み」でもある。ロベッソンという人は、そこを極めて雄弁に「理論化」「方法論化」してみせた人物だったのではあるまいか。
『たぶん悪魔が』に話を戻せば、本作の主人公シャルルの抱える虚無と、居場所のない宙ぶらりんの感覚に共感できるかできないかで、作品の好き嫌いは180度変わってきてしまうだろう。
正直をいえば、僕自身はあまりこういう殺伐とした青春とは無縁で、大して悩むこともなく打算的に楽しく暮らしてきた口なので、あまりそちら方面には負の想像力が働かなかったりする。ぶっちゃけて言うと、自殺に惹かれる感覚自体、僕にはあまりよくわからない。世の中に対して生きづらさ自体を感じたことがないからだ。これは生来の性分だから仕方がない。
それでも、高校生の頃は『されどわれらが日々』とか『ノルウェイの森』とか読んで号泣したりもしていたので(笑)、別にそういう悩み多き若人の生を敵視したり、嘲笑ったりしたいわけでもない。
むしろ、ある種の憧れがあるくらいだ。
『ノルウェイの森』などは、『ここに悪魔が』よりずっとセンチメンタルな青春小説ではあるが、登場人物がきわめて容易に死への傾斜に囚われて、ころころと煙草でも喫うかのように死んでいく様子には、まあまあ衝撃を受けたものだった。
でも、あの小説が僕の心を動かしたのは、そのように感じるように「情緒的に」書かれていたからだ。
でも、ロベール・ブレッソンの情動を抑えた禁欲的な手法で、青年の無軌道と孤独を描かれても、僕としては、客体化された(虫のような)観察の対象としてしか、捉えられないところがあった。
『少女ムシェット』や『バルタザールどこに行く』を観たとき、なぜ僕の心が動かされたかというと、それは主人公が一方的に世界から総攻撃を受けていたから――「受難」の果てに待ち受ける「死」に、前向きな意味でのキリスト教的な「解放」と「啓示」の可能性を見出し得たからだ。
でも、本作のシャルルの場合は違う。むしろ世界はシャルルに優しい。みんながシャルルを気に掛け、シャルルに尽くし、シャルルにかしずいているといっていいくらいだ。
それでも彼は満ち足りない。もともと壊れているから。心が死にたがっているから。
そういう人間を前にしたとき、僕は思ってしまうのだ、ただ「じゃあしょうがないね」と。
まあ、あとシャルルみたいな青年を観ても、別にかっこいいともハンサムとも思わないってのも、いまいち乗り切れなかった理由として、あるのかな。僕の理想の「美青年」は、あくまでアラン・ドロンと沖雅也なので(笑)。
砂時計の時間
音楽もなく、生活音と出演者たちが話す会話が現実的な世界での物語を紡いで行く。砂時計の砂が落ちて行く確実な時間の中で、主人公の青年の辿り着く死が近付いて来る。絶望感がスクーリーンから零れ出す。やり切れない作品ではある。役者たちの美しさがまた死の匂いを漂わせる効果をもたらす。間違いなく佳作ではあるのだが、見ていて辛い作品である。
「僕の病は物が見えすぎることだ….」という青年、近視な社会、この世界の糸を引いているのは誰だ…
世界が見えすぎる少年の近視な社会への反発。人は利益に囚われ、環境を壊し、あらゆる種を死滅させる。幸福とは文明か、それとも自然にあるのか… 死ぬも生きるも絶望的な厭世観に取り憑かれ、堕落の果てに得た啓示。それを提示することなく終わる圧巻の幕切れ。噂通りの大傑作。先日鑑賞して、AllTimeBest級に好きになった『テオレマ』と同様に、『たぶん悪魔が』もラストがこの上なく素晴らしいと感じた。観客を置いてけぼりにしつつ、無尽蔵に思考の余地を残す…ahh すごい。やはりラストが良い映画って愛。
全10件を表示