湖のランスロのレビュー・感想・評価
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ストーリー、というよりも…
学者には中世騎士の写実性を評価された映画ということもあって、そこへの力の入れ方が すごい! 中世当時の騎士道物語といえば、栄光と恋愛が骨子になっていますが、現実的にはそれぞれ表裏がありますね まず栄光ですが、職業軍人としての泥臭い戦争で立てる功績もあれば、馬上試合や決闘のような、華々しい個人の闘争によって掴み取るものの二種類があるのです 演出も派手に娯楽性を持たせ、個人対個人の腕比べ的な性質のある後者に比べ、当時の戦争は”少数精鋭の騎馬隊による集団戦”で、某ドラマのように、本来鋭い剣でズバズバ切り倒すことのできない重装騎士は、槍や大剣(作中のものはゲームや映画などのせいで小さく見えるかもですが、十分重くて大きいんです)で”かち割り”、”叩き潰す”ことでしか倒せません。槍で仕留めきれなければ、くんずほぐれつしながら剣でカチンカチン叩き合うしかないんです。鉄の鎧を割り潰すということは、中身も相応にぐっちゃになるわけで…「無理にスプラッター入れてない…?」と思った方、これがリアルなので仕方ないんです 次に恋愛ですが…キリスト教の戒律では姦通(不倫、寡婦が後夫を迎えたり恋愛すること、婚前の性交etc…)は大罪なのですが、まあそんなの枚挙に暇がないんです。そもそも教義も女人禁制だったのがいつしか修道女ならいいということになり、結婚して子供を産むことも認められ、果てはローマ法皇が実子を公然と設けるようになります。つまり姦通が公けになって処罰されるということは、ある程度身分のある人の場合、告発する側か告発を受理する側、あるいはその両方との政治的な対立があるということなんですね。その点、モルドレッドの暗躍を絡めてよく描かれています 「え、騎士って真面目で紳士なんじゃないの…?」と思うかもしれませんが、物語として伝わる騎士道は、吟遊詩人がかなりヒロイックに広めたものです。中世終期や近世以降に形骸化する以前は、騎士という制度は領主と職業軍人が封建的主従関係を結び、土地と社会的な地位を与えたものに過ぎません。 ストーリーの出来ということになると、人文学的な知識が必要になりますが、史学の観点から見ればかなりの名作と言える…らしいです!個人的には、中世騎士を写実的に描き、騎士道物語では語られない負の面が強調される脚本となっていて、ブレッソンの作風とマッチしている気がします 映像効果や編集については詳しくないのですが、個人的には役者の演技も含めて監督に編集されるべき要素であるという小津安二郎の考えが好きなので、構図や音を演技が邪魔しないブレッソンの映画の作り方も好みです。役者の演技が好きだとか、ドラマチックな感動が得たいという方にはおすすめできないですね… 逆に編集やカメラワークなど、技術的な知識と絡めて映画を見たい!という方はおもしろく見られると思います!
甲冑者かわいや
“アーサー王伝説”というのは、おそらく欧米人にとっては(日本人の“源平合戦”や“忠臣蔵”のように)周知のものなんだろうな。この映画は最終盤のエピソードを切り取ったようだが、詳しくない者からしたら、みんな甲冑を着けているし誰と誰がどこで戦っているのかもよくわかりません。ジョン・ブアマンの「エクスカリバー」やモンティ・パイソンのパロディは見ているが、剣豪ランスロットが王妃と熱愛中だとかはまったく記憶になかった。
ロベール・ブレッソンの文体は揺るぎなく、騎馬試合の場面でも馬の足ばかり映しているし、勝敗の決した瞬間も観客席しか見せないという徹底ぶり。独自のモンタージュの迫力は認めるものの、省略が多いのでストーリーが入ってこない。
「最後の決闘裁判」ではフランス人(役)が英語をしゃべっていたが、この映画はイングランド人(役)がフランス語をしゃべっていて、少しく違和感あり。
円卓の騎士たちの寒々とした終焉
『たぶん悪魔が』と同日に観たブレッソンの日本劇場初公開作品の2本目。とにかく観た順番が悪かった。陰鬱な気分のまま観た。 . . 「アーサー王伝説」の後日譚という今作。聖杯の探索に失敗し多くの死者を出した円卓の騎士たちが城に帰還した。 不倫関係にある王妃グニエーヴルと円卓の騎士ランスロだったが、二人の間に温もりなど微塵もなかった。 スキャンダルを盾にランスロを貶めようとする騎士たち。騎士道精神の崩壊とともに呆気なく終焉に向かう円卓の騎士たちがいた。 暗がりの中で何の光も見えなかった。 . . この後、1977年の『たぶん悪魔が』、83年の『ラルジャン』を遺したブレッソン。世の中に絶望したようなまったく希望のない作品たち。99年に98歳で亡くなるまで彼は何を思い生きていたのだろう。
ユニークさに感心はするけど感動や楽しさは皆無
フランス語とか西洋中世史とか聖杯伝説とか詳しくないからストーリーはイマイチよく理解できなかったし説明するつもりも全然ないみたいだったけどヨーロッパ中世の情景がエキゾチックで意外と楽しめた。騎士の甲冑姿とか馬上での剣術の試合とか森の中を走るかっこいい馬たちとか。撮影が素晴らしいし短いのも良い。ただ中世ものなら最後の決闘裁判のほうがずっと面白いけどね。 作品の雰囲気は殺伐としてて登場人物はとにかく深刻で陰気で無表情で生きるのが苦痛で喜びが全く無い感じ。中世ってこんなに暗い時代だったのかねえ。あと、けっこう残酷っぽい描写が悪趣味だと思った。 この監督の日本で観れる作品はほとんど観たけど、独特の美学があってユニークだしカッコいいとは思うのだが全然感動しないんだよね。僕の人生に何の影響も与えることがないというか。まあどの作品にも共通している殺伐とした雰囲気が結構クセになるのは否定しませんがw。暗い話の巨匠かもしれないけどハッピーな話は撮れないのでは。たぶん監督はあんまり幸せな人じゃないんだろうと思う(余計なお世話)。
中世の「箱庭」の中で展開する、騎士と王妃のミニマルな不倫劇。ジョスト競技の異様なグルーヴ感!
開幕早々の三隈研次ばりの首チョンパ&大出血スプラッタ(笑)。 とくに、杵みたいなので頭ごいーんとしたら、兜の下から血がじょば~ってのが良い。 え、ロベール・ブレッソン的にそれはありなんだ? とちょっとびっくり。 ただ、話が進めば、いつものブレッソンだ。 というか、ブレッソンが提唱する「シネマトグラフ」っぽさは他作以上に顕著。 人形のような俳優の扱い。棒読み、無表情の強烈な「言わされ感」。 もちろん、出演俳優はみな演技経験のない素人ばかりである。 ミニマル・ミュージックのように反復される同一動作、同一事象。 なんだか、映画じゃなくて絵コンテでも読まされているかのようだ。 監督に与えられた「型」が、古典芸能ばりに全編を支配している。 それは、もはや「型」というより、役者に課せられたある種の「枷」だ。 たとえば、初期作のようにモノクロームだったら、まだその「異化効果」がある。 主人公が「少女」や「ロバ」だったら、その無垢さが不自然さをある程度緩和するだろう。 語りが主体の『田舎司祭の日記』みたいな手法も、シネマトグラフとは相性がいい。 だが「歴史劇」でこれをやると、シネマトグラフの特異性が、逆に「悪目立ち」する。 監督が他作では巧妙に避けていたように思われた「あざとさ」が前面に出てしまう。 なんだか、作り物の鎧を着て先生に言われたとおりやってる、文化祭の演劇のような……。 歴史劇なのに歴史っぽさは皆無で、演じている「今の人」が逆に浮かび上がってくる。 今回、実見してそれを痛感した。 とにかく画面の端から走り込んで、対角線に抜ける「足」の描写が異様に多い。 まずは、人や馬の「足」が横から入って斜めに移動する動きが画面の基本リズムを形成する。 その合間に、二人がセットになって並ぶ静止画のヴァリエイションが何度も試される。 時に大写しになる紋章や壁のくり抜き窓は、たいがいシンメトリーの二つ模様を成す。 おそらくなら、ランスロ(ランスロット)とグニエーブル(グィネヴィア)のイメージが全編につきまとっているのだろう。 男はとにかく、鎧で個性を奪い取られたうえで、マシンのように馬に乗り、フェイスガードを上げたり、下げたりする動作を繰り返す。正直、誰が誰やらフリで観ていてもさっぱりわからない。 (ちなみに、彼らのつけている甲冑はすべてプラスティック製で、映画の間じゅううるさいくらいにガチャガチャ鳴り続けている金属音は、すべて後付けの効果音らしい) グニエーブルの扱いはそこまで機械的ではないが、代わりに徹底して「ラファエル前派の画家が描くグィネヴィア像」のイメージに近づけるように意図されているように思われる。 (ラファエル前派とは19世紀中ごろに復古的な絵画理念を掲げて運動を展開したイギリスの若い画家たちによる画派。ロセッティやミレイに加えて、第二世代にウィリアム・モリスやバーン₌ジョーンズなど。ロマンティックで象徴主義的な画風が特徴的だが、「今の女性をコスプレさせて装飾空間に放り込んだ」かのような作り物くささは顕著だ) 極端に奥行きのない室内を背景に、プロフィール(横顔)を見せるグニエーブル。 これこそは、まさにラファエル前派的な美観だ。 湯あみのシーンで、美尻をさらして、顔はかざした手鏡に写り込んでいるという構図も、映画的というよりは、絵画的、美術史的なコンテクストが強い。 (そういえば、森の中で鎧武者たちが馬を駆りながら戦う幻想的な情景も、おそらくなら初期ルネッサンスのイタリア人画家パオロ・ウッチェロの『夜の狩り』や『サン・ロマーノの闘い』あたりのビジュアル・イメージを念頭に置いていると見て間違いない。このへん、反撥し合っていたといわれるブレッソンとドライヤーが、中世を描くにあたって似たようなアプローチを示しているのは面白い。) 要するに、男は鎧のなかに封じ込められ、女は絵画のなかに封じ込められている。 そうして、ブレッソンは役者から「人間性」を剥奪し、「駒」として配そうとしているのだ。 この猛烈な違和感は、それが効果的に思えるか否かはさておき、「ロベール・ブレッソンがわざと仕掛けてきている異化効果」なので、素人芝居に見えるからといって非難しても仕方がない。 こうして、「どこかおかしなもの」を観ている気にさせること自体が、彼の狙いなのだから。 ただ僕には、同じ手法が『バルタザールどこへ行く』や『少女ムシェット』ほどに「はまっていた」ようには、どうしても思えなかった、ということだ。 違和感の頂点には、中盤に登場するジョストの馬上槍試合がある。 (昔、ジョスト競技をテーマにしたエロゲとアニメがあって、なぜかルールは知っていたw なお西洋では、ジョストと「円卓の騎士」はイメージとして切っても切れないくらい深く結びついている) あがる旗。走る馬。肝心の槍がぶつかる瞬間はオフショット。 勝者はランスロらしい。シンパの若造が「口で」毎回そう言ってるから(笑)。 それが、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、繰り返される。 だんだん、自分が何を見せられているかもよくわからなくなってくる。 でも、なんとなく、グルーヴィーではある。 そのあとは、ひたすら騎士同士で殺し合いが起きているらしいのだが、誰が何をやっているのやらさっぱりわからないので、観ているほうとしては、けっこう困る。 でも、ブレッソンは、「わざとわからないように」フィルムを編集させているらしいので、これはこれでいいのだ。 ラストのあっけなさも、静止画としてはとても美しいが、あまりに素っ頓狂だ。 でも、これが狙いなのだから、仕方がない(笑)。 とはいえ。 これだけあれこれ言いつのりながらも、「絵」や「動き」のほうは、僕はそれなりに楽しめたのだ。 ただ、あまりにお話のほうがうんざりするような内容すぎた。 僕がイマイチこの映画にはまれなかったのは、むしろそちらが理由だ。 これまで観たブレッソン作品はいずれも、一方的に苦難に見舞われる弱者の死に至る道程を描いた「受難劇」だった。でも『湖のランスロ』はちがう。 何故に、間男と淫売のくだらない痴情に巻き込まれて、騎士団が崩壊しなければならないのか。 あまりに理不尽である。 誰にも負けない強すぎる「英雄のなかの英雄」が、プライベートでは「俗物」すぎることで生まれる、周辺の認識の混乱とでもいおうか。 政治家とか俳優とかお医者さんとかでも、そういうことあるよね。 誰から見ても超優秀な人なのに、不倫とか乱倫とかギャンブルとかが止められない人。 本人たちは良くても、だんだん回りの人間関係がめちゃくちゃになってくっていう。 相手の強大なカリスマ性とか俗悪性とかに引っ張られたり、理解がおっつかずに惑乱したりして。 どこかで「あれだけ出来る人がそんなバカなことするのかな?」ってのがあって、仲間内でも認識の齟齬が生まれて、亀裂が深まっていくんだよね。 本作は、そういう現代的な事象を、「歴史」と「人形化した役者」を用いて客体化し、ミニマリズムの領域で扱ってみせた、ある種「箱庭療法」のような映画でもある、ともいえるだろう。 よくいえば、ですが。 それと、どうでもいいことだけど。 そもそも僕の世代には、アニメ『円卓の騎士物語 燃えろアーサー』で初めてアーサー王伝説に触れたという人間も多いのではないかと思う。 アーサー王の騎士たちに関しては、あれの正しく勇敢でヒロイックな印象がやたら強いから、そのあとランスロットとグィネヴィアがガチ不倫するとか、モルドレッドが裏切って返り討ちに遇うとかやられても、それが正史(?)だとわかっていてなお、なんか不愉快に思えてしまう、ってのもあるかもしれません。 あと、ずっと「いつ湖が出てくるんだろう?」って思いながら観ていたのは内緒(笑)。 そういや、「湖の騎士ランスロット」ってのが、こいつの二つ名だったな。
異色の時代劇
ブレッソンによる唯一のスプラッターと私個人は勝手に認知している。しかし、内容はブレッソンならではの静かな真実を映し出す。神、愛、信の三つ巴の中で翻弄される勇者の姿。間違なく素晴らしい出来の作品である。
「あなたは殺されます」
王への忠誠、仲間たちとの絆、騎士道精神、神への信仰、王妃への愛、すべてがなんだかうまく貫けないように描かれていたように思う、
ランスロと王妃の不義で、ランスロは王からの信頼を失う。任務を遂行できなくて騎士たちは連帯を失う。ランスロの不義に気づいた騎士がそれを利用して権力を得ようとする。ランスロは誤って信頼できる部下を殺してしまう。謀反を起こした騎士の討伐にランスロたちは向かうけれど、王はもはやランスロに期待などしていないし、ランスロたちは全滅してしまう。王妃への愛も最初は断ち切ろうとしたのにもかかわらず、結局断ち切れなくて、露見してしまい、国が滅ぶ原因になる。すべてが中途半端で、貫徹されず、満たされる者は誰もいない。完璧ではないところが、人間らしいのだけれど。
ランスロたちが全滅したから、きっと、王も王妃も殺されてしまったか、辱められているかどちらかの結末をむかえたのかもしれない、
全編を通じて、男(騎士)の象徴である甲冑が、からから、と音を立てているのが印象的だった、最後の場面では特に、その、からから、はあまりに空虚に響く。
その最後の場面では、ランスロは愛する王妃の名を口にして、仲間たちの死骸のうえに斃れる。斃れてしまえばもう、みんな甲冑を着た男たちで、区別はつかない。そこにはもう既に「個」「個人」「個性」は存在しなくて、王の単なる「駒」のひとつとして死んでいくように思えた。
血がたくさん溢れたり、首が飛んだり、みんな壮絶に死んでいく。なのに、ブレッソンが映画にすると静謐で淡々としている。いかにも騎士っぽい勇ましい音楽が流れるのだけれど、その淡々とした映像とはなんだかミスマッチに感じて、そこがまた、空虚さを増長させるようだった。
黒澤明ならどれ程素晴らしく撮っただろうかと考えてしまった。ブレッソ...
黒澤明ならどれ程素晴らしく撮っただろうかと考えてしまった。ブレッソンにはあまり向いていないジャンルだったのではないか。
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