生きる LIVINGのレビュー・感想・評価
全51件中、1~20件目を表示
黒澤明版「生きる」との印象の違い
1950年代のイギリスを舞台に、堅物の公務員ががんで余命宣告をされたことから、自分の人生を見つめ直す。ストーリーはリメイク元の黒澤明「生きる」に比較的忠実に作られており、オープニングやエンディングのクレジット、スタンダードサイズの画角で当時の雰囲気を出している。
話はオリジナルに忠実とはいえ、主人公の印象は少し違う。
志村喬の演じた渡辺勘治は、かつてはあった仕事への積極性を忘れた、くたびれた中年。単調な毎日に対してすべて受け身であることが一見してわかる。自身ががんであることを知ってからは、不器用さを抱えたまま行動を起こすが、うじうじとして俯くことが多く、その瞳には絶えず悲壮感がにじむ。そして、通夜の席で彼の心情が明らかになるまでは、周囲から軽視され続ける。
ビル・ナイの演じたウィリアムズは、いかにもお堅い英国紳士といった風情だ。志村喬と比べると、くたびれ感が少なくてなんだかカッコよく見える。さりげなくフォートナム&メイソンをチョイスしたり、部下にスマートな手紙を残したりする。周囲から堅物だと思われてはいるものの、あからさまに下に見られている様子はあまりない。
音楽の違いも印象的だ。黒澤版は「Happy Birthday to You」と「ゴンドラの唄」が効果的に使われている。それぞれの歌詞が、その場面での渡辺のありようと密接にリンクする。無為に生きてきたことへの後悔や、死の間際においては最後に生ききったことへの満足感までもが歌で表現される。
本作で「ゴンドラの唄」の代わりに使われたのは「ナナカマドの木」。作中では、死に別れた妻との思い出の曲という設定で、美しい旋律のスコットランド民謡だ。人生を振り返るような歌詞が印象的。
主人公の特性と挿入歌の違いで、物語の印象がソフトになったような気がする。
黒澤版は、人間の弱さの描き方がより赤裸々だ。志村喬が体現する日本の中年男性の朴訥さ、いじらしさ、不器用さは同じ日本人だからかとても生々しく感じる。彼が余命を知り、いっそう背中を丸めて苦悩しつつ慣れない放蕩をする姿も、瞳に悲壮感を漂わせて公園作りに奔走する姿も、痛々しいほどの彼の弱さがあってこそはらはらするし、切ない。彼に感情移入するうち、”いのち短し”といった歌の言葉が自分自身に刺さってくる。
一方ウィリアムズは、公園建設のため各部署を回る姿は必死ですがりつくというよりタフネゴシエーターという感じだし、若い部下に気の利いた手紙を残すのも大人の余裕という感じで、渡辺に比べるとうじうじした弱さが見えづらい。
本作はウィリアムズの物語として十分感動できるが、黒澤版は「おまえは『生きて』いるのか?」と映像の向こうからこちらに問われている気持ちになり、心が重くなるほどメッセージに力がある。
これは、イギリスに舞台を移していることも一因かもしれない。国内の話の方がニュアンスがわかる分生々しく感じられるということもあるだろう。海外の人が観るには本作の方が身近に感じやすいぶん、受ける印象も私とは違うのだろうか。
少し気になったのは、マーガレットの役割だ。
黒澤版では、公務員を辞めた小田切とよはぬいぐるみを作る工場に就職している。病を告白し、どうすれば彼女のように生き生きと生きられるのかと問う渡辺にうさぎのぬいぐるみを見せて、「課長さんも何か作ってみたら」と言ったことから公園建設のための奔走へとつながる。
本作ではマーガレットはカフェに再就職しており、ウィリアムズに何かを作ることをインスパイアする発言はしていない。そのため、ウィリアムズが公園建設に熱を上げるようになった経緯がちょっとぼやけたかなという気がする。
余談だが、UFOキャッチャーがこの時代からあることに驚いた。調べたら、クレーンゲームの発祥は1800年代終盤だそうだ。そんなに歴史あるアミューズメントだったとは。
少しの間だったが、この老人が持てた生きがいを脚色して欲しかった
黒澤監督の作品に脚色した気配がない。
だから、元の映画と同じ様な評価をしたい。
願わくば、
終末を迎えた老人が、生きる事の素晴らしさを如何に取り戻せたかを脚色に加えてもらいたった。それが、元の映画を含めてのテーマと考えている。
1953年当時イギリスの市民は、ジェントルマン気取りで、皆さん山高帽を被っている。しかし、髭をはやしている者は極端に少ない。現在のイギリスでは考えられない。老いも若きも汚い髭面。ジェントルマンなんかイヤしない。まぁ、好みの問題なのだろうが。
本日、電車に乗って新橋に行ってきた。時間をずらして行ったので、電車は混んでいなかった。前の席は全てうまっていたが、なんと全ての人達がスマホ片手に持っている。みんなゾンビに見えた。勿論、僕も持っていた。一昔前は全員がタブロイド紙を持つ時代があったが、その一期一会よりもましか!
まぁ、今日の電車の中は、空いていたので座れたが、普段、混んでいれば、僕くらいの中途半端な年齢は、絶対に席に譲って貰えない。だから、僕は優先席へ行って、直接話す事にしている。
『すみません。席を譲って下さい。』って。
旧国営放送で『老人を守る』を大義名分に『オレオレ詐欺に気を付けて』キャンペーンを相変わらずやっている。だが、そんな事やらずに『75歳でサ・ヨ・ナ・ラしてくれる老人には、席をゆずろう』
キャンペーンでもやってもらえないだろうか。?
ビル・ナイだけでは…
凡庸な作品だった。ビル・ナイは英国紳士とはを見事に演じていた。変化を嫌い、陳情もたらい回しにしていた公務員としての働き方、息子夫婦からも疎まれ、変化のない生活をおくっていた男が余命宣告を受けたことで、市民からの陳情の一つを叶え、一部の人に影響を与えたと言う話。前半静かなら後半はもっと盛り上がってほしかった。結局息子夫婦には何もしていないし、残された部下達も何も変わってない。
生きるとは?
何十年も市役所に勤めた男がある日医者から癌だと告げれる。残りの人生は、あと僅かだと知った。
そんな事から今まで自分が向き合ってこなかった現実と目を向ける事になる。
どの役者のセリフも一つ一つが意味があると感じました。
特に好きなセリフ主人公の言った「私には怒っている暇などない」これは末期癌であるからこそその言葉に重みが伴っている感じしました。
自分がまだまだ死なないとしたら、何の脈絡もない生き方をして、周りからゾンビだとあだ名をつけられる事にも何の抵抗も覚えずに生きていたら?
ゾンビというあだ名自分の余命が僅かだと知ったら逆に残された命は、おまけのようなもの、やるだけやっても後悔する事ないと励ましにも似たようなものに変わっていたと感じました。
この映画がリメイクされ、今の時代に映されているのは時代が変わっても人間的な本質の部分は、いつまでも変わっていないという明確なメッセージなんだと思いました。
完璧リメイク
オリジナルなら文句なく星5つでしょう。原作では志村喬さんの熱演とブランコで歌う「命短し恋せよ乙女~♪」のゴンドラの唄のシーンが印象的でしたので英国版ではどんな歌になるのかがとても興味深かったです。最初は英国なのでビートルズの名曲が頭をよぎりましたが流石に年代的に合いませんね、スコットランド民謡の「ナナカマドの木」は企画・脚本のイシグロさんのスコットランド人の奥様が良く歌われていた唄とか。
日々の暮らしに流されがちな現代人、特にお役人ともなればセクショナリズムに翻弄され保身的な仕事ぶりになりがちなのは英国も同様なのでしょう、カンヌでパルムドールを獲った「わたしは、ダニエル・ブレイク(2016)」もお役所の不条理を指摘した社会派ドラマでしたね。後年、松戸市にできた「すぐやる課」も話題になりました。
余命半年と告げられて改めて生きることの意味を問うというシチュエーションの説得力が肝、 原作との違いは、若者にメッセージを託す前向きなところでしょうか。
志村さんに引けを取らないビル・ナイさんの抑えた熱演をはじめ文句のないリメイクですが、やはり原作の良さがあってこそ、あらためて黒澤監督の人間の本質を見抜く慧眼の素晴らしさを再認識した傑作でした。
大傑作のリメイクも大傑作
原作の生きるを見た時も大傑作だと思いましたが、リメイクされたこの作品もやはり大傑作でした。
全く色褪せない脚本。
違う部分はわからないけど、この映画としての秀逸さを感じます。
また、ビルナイの味わい深い演技も最高ですね。
死を前にすれば、人は何かできると思いがちだが、そうではない。
彼は死を前にして、本当になりたい自分になる決意をしたのであって、それは誰もができることではない。本当のジェントルマンにために残りの人生を捧げることこそが、彼の生きるということ。
誰もが真似ようとしてできないという現実も皮肉的であり、この映画の面白さでもある。
日々を生活するうちに、生きる意味を失って誰もがゾンビになる。でもゾンビとは違って、誰もがいつからでも、生きようとすることはできるのだ。
この作品は原作含めて、自分にとって一番大事な映画だと言える。
ブランコに揺れる~パイレーツ・オブ・カリビアンのデイヴィ・ジョーンズなのね
サクラ満開で家族揃って花見ですよ~
犬の散歩もウキウキ気分。(*´ω`*)
そんでもって どうもね劇場空き気味・・・
今日は「生きる LIVING」みました。
この作品はリメイクで、
元作は、1952年に公開の黒澤明作品です。
(直接映画を見た事ないですね)
今作は脚本:カズオ・イシグロ氏でちょいと話題かも。
昭和時代の役所の話で、今で言ういかにもお役所というイメ-ジが
醸し出していた。現在は活発な市民団体が目を光らせるので
こんな感じでは無いと思うけど。
後で元映画スジと今作スジを見比べると
公園創る動機が無かったような気がします。
受けた感じの全体的展開流れは、
元作の方が圧倒的に良いんではと
感じますね。
やっぱりリメイクは何処か遠慮してて
これは日本の話なのかな~と思える節もあり。
良かった点は、
亡くなった後、部下に手紙を書いていて
その中に 自分の手がけた公園も小さい規模だし、いつかは
使われなくなるかも知れない。
物事というモノはそう言うものなんだと。
いつか自分の仕事(生き方)に行き詰まったら
あの公園の事を思い出して欲しい~
雪の舞い散る寒い中、誰もいない公園・・・
彼がブランコに揺れながら見た
生きる事という世界に
少しは触れることが出来るかもですね。
主役:デイヴィ・ジョーンズじゃなくて ロドニー・ウィリアムズ役に
ビル・ナイ氏。
とっても紳士的だけど声が低いね。
周囲の役者さんから一人浮いてる気配を感じましたわ。
興味あります方は
劇場へ!
眠くて困った
................................................................................................
役所の課長だった主人公は、かなりの堅物だった。
ある日、ガンで余命宣告をされ、急に会社に行かなくなる。
そんな折に部下だった女の子と会った。彼女は転職してた。
この子の明るさに敬意を持ってた主人公は、心中を聞いてもらう。
余命宣告のことは家族にも話してないことだった。
そして一念発起、棚上げされてた婦人団体の要望に取り組む。
子供の遊び場を作って欲しいというもの。たらい回しにされ続けてた。
で見事に実現させ、そして死ぬ。
................................................................................................
かなり古い作品のリメイクらしいが、うーん・・・眠い・・。
映画館で寝てしまう珍しいパターンとなってしまったわ。
まあ後半は起きてたし、大体ストーリーは把握できたけどな。
思ったのは1つ、余命宣告される前から全力で仕事せえや!!
このへんは今と時代がちゃうからそう思うのか?
今は昔と比べ、仕事に全力を注ぐのが普通になってると思う。
だから主人公の頑張りに何の感情移入もないし、手遅れ感満載。
なのに何でこの作品、ここでこんなに点数高いの??不思議。
短くとも
ウィリアムズは、
役所の仕事を忙しくこなしては来たが、
ただただ惰性で遂行していたのではなかったか⁉️と考えた。
命の期限を知って、ちょうど路頭に迷った
幼な子のように、今、何をすればいいのか
わからなくて、仕事に行かず、すべきことを
見つけるために彷徨う。
だが、遊興的なことにはどうしても
馴染めない。
そうこうするうちに、職場の若い職員と
偶然出会い行動を共にしているうちに、
病気を打ち明ける。
息子のマイケルと妻は、父が若い女性を
連れ回しているという噂に気が気でないが、
父本人には聞けず問い正せない。
市役所に戻った課長のウィリアムズは、
以前と打って変わって精力的に動き出す。
懸念されていた子供たちが遊んでいる場所の
改善について着手しようとする。
何度も現地に足を運んだり、市役所の
色々な管轄を辛抱強く回って段階を追って
承認を取り付け、工事着手、完成に至る。
葬儀の場面。息子のマイケル、マーガレットを呼び止め、病気のこと余命のことを
父本人が知っていたかと聞く。
市役所仲間、列車内で、ウィリアムズの功績を認め後に続こうと誓い合う。
夜に遊び場に立ち寄った部下のピーター、
巡回の巡査と話す。
巡査は、ウィリアムズさんが、
雪降る日に一人ブランコに乗る姿を目撃して、あまりに幸せそうで声をかけなかったことを後悔していると。
このことにピーターは、
課長は幸せだったと確信して気にしないように
と巡査に告げる。
惰性で生きていたかのような生活から
限りある生を感じて、
その短さゆえに精一杯生きる、
そんな人生。
余談:名優だが、年齢が行き過ぎている気がした。
「生きる」、そして「繋ぐ」
公開が決まった時からメチャメチャ楽しみにしていた「生きるliving」。黒澤明の「生きる」のリメイクで、しかも主演はお茶目でエレガントな名優ビル・ナイとくれば、今年の注目作ベスト10には確実に入ってくるでしょ!
リメイク作品はオリジナル作品と比較される宿命にあるが、今作は傑作映画「生きる」と比較しても何ら遜色のない、美しい映画だった。
オリジナルである黒澤版「生きる」はもちろん観ていて、今でも邦画のベスト3に入るほど好きな作品だが、実際に周囲に薦められるかと言えばちょっと難しい。
「古い・白黒・120分超え」の三拍子で、かなりの確率で敬遠されるからだ。しかも主演は志村喬で、志村喬はもちろん超名優なのだが、いかんせんオッサン過ぎて魅力が伝わり難いのである。オッサンなところが良いんだけどねぇ。
対して「生きるliving」はノスタルジックなアスペクト比やタイトルデザインを使用しながらも、やはり現代的なスタイリッシュさとわかりやすさが感じられる。
上映時間もコンパクトだし、主演は老いてもなお華やかさを失わないビル・ナイだし、プレゼンしやすいことこの上ない。
「オススメしやすい」という点ではオリジナルを大きく上回るかもしれない。
映画全体の印象としては、黒澤版「生きる」が志村演じる渡辺課長を強い光のように描いて、観客に「生きる」意味を問いかけたのに対し、「生きるliving」は光を受け取るピーターを用意し、映画の中にも可能性を描いたという違いがある。
もちろん「どちらが優れているか」という話ではなく、狙っている意図が違うのだ。
黒澤は「渡辺の決意」と、それが「特別」であることを際立たせるために、その後結局変わることの出来なかった役所を淡々と描き、作品の影を担わせてメリハリをつけている。
それは一言で言うなら「叱咤」なのだ。「こんなことを続けていたら、生きているなんてとても言えないぞ」という警告なのだ。だからあえて光と影を極端に描きわける。
だから映画を観終わったら闘う気力のようなものが湧いてきて、生きることに血が滾ってくるのだ。
「生きるliving」は、既にピーターがその生き様を受け止め、なんなら手紙で「遊び場のことを思い出して欲しい」と教えられている。
それは作り手が既に黒澤に焚き付けられ、それを繋いでいきたいと思っていることの現れだ。だから、今を生きる人々に対し、「わかりやすく」「優しく」そして、それを実践したウイリアムズ氏と受け継ぐピーターを優しい紳士として描いている。
だから観終わった後、血気盛んになるというより雨上がりの澄んだ空気のような、清々しい気持ちになる。
最初に「オリジナルと比べても遜色のない、美しい映画」と書いたが、あえて好みを述べるなら、私はやっぱり黒澤版が好きだ。泥臭くて、オッサン臭くて、熱い血潮を感じる方が好み。
でも現代に「生きる」を繋ごうとしている「生きるliving」も、その志は充分熱い。
熱さを感じられなかったとしても、ビル・ナイがあまりにも切なくてカッコイイので、それだけでお釣りが来るほど満足できる。
この映画を観て、普段の生活で溜まった濁りを洗い流し、「生きる」ことに前向きになれたら、ついででも良いのでオリジナルを観て欲しい。
大丈夫、ストーリーは同じだし、観たら「生きる」ことに、もの凄いテンション上がっちゃうから!
私は、生きた
黒澤明監督の『生きる』のリメイク。
黒澤映画と言えば時代劇が人気だが、現代劇でも名作多く、中でもオリジナルは黒澤ヒューマンドラマの最高傑作。『七人の侍』などを抑え黒澤のベストムービーに挙げられる事も。
私もオリジナルは大好き。それは世界中だって同じ。
この愛され続けるオリジナルをリメイクするなんて相当なプレッシャー。しかし本作は、その高いハードルに成功したと言っていい。
基本的な話は同じ。
無欠勤無遅刻無早退、真面目だけが取り柄だが、無味無色の人生を送る市役所市民課の課長、初老のウィリアムズ。ある日、癌で余命僅かと宣告され…。
初めて仕事をサボり、酒を飲んだり夜の街をさ迷うなどするが、満たされない。やがて元同僚の若い女性との再会、市役所でたらい回しにされていたある案件に人生最後の情熱を見出だす…。
あの語り継がれる名シーン、夜の公園で歌を歌いながらブランコに乗るシーンも勿論。変に逸脱せず、オリジナルへの誠意溢れたリスペクト感じる。
とは言えリメイク。そっくりそのままだったらやる意味は無い。アレンジこそ注目。
戦後のイギリスに舞台設定変更は前提として、職場に新人公務員を配置。彼の視線でも語られる。
オリジナルではもっと希薄だった親子関係だが、息子の父への思いを加味。終盤のあるシーンで活きてくる。
ブランコに乗って歌う歌。心染み入る「ゴンドラの唄」からスコットランド民謡「ナナカマドの木」へ。初めて知った曲だが、この変更はいいと思う。幾ら名シーン再現とは言えイギリス人が日本の歌を歌うのは違和感ある。その国その人、それぞれの思い出の歌がしみじみさせる。
これらアレンジや変更点が、単なる焼き直しじゃなく新たな魅力や意味をもたらしている。
オリジナルの志村喬は比類なき名演。映画史上最高の演技と称えられるほど。
こちらも比較は避けられないがしかし、ビル・ナイの演技も素晴らしいの一言に尽きる。
ナチュラルな演技やコミカルな演技やエキセントリックな演技や変幻自在のカメレオン役者だが、実直さ、不器用さ、哀愁、悲しさ、温かさ、優しさ、人生最後に燃やす生きる事への意味…。これらをしみじみたっぷり滲ませ、漂わせ、絶品!
オリジナルではもっと小心者で不器用だったが、少しお堅くも英国紳士に。これ、意味ある設定。
もっと無口で口下手だったが、オリジナルと比べると少し饒舌に喋る。
これらもその国の性格や演者のキャラが反映されたと言えよう。
リメイクでビル・ナイが演じると聞いた時果たして合うかなと思った不安は一蹴。さすがの名演技巧者!
ノーベル賞作家カズオ・イシグロが脚本を担当した事も話題。
日本長崎で生まれ、早くにイギリスへ移住。それからずっとイギリスで暮らし、話す言葉も英語らしいが(日本語がもう上手く喋れないと何かで聞いた事ある)、それでも幼き頃の日本の思い出は心に残っているという。故郷の風景や映画など。
オリジナル・リスペクトとリメイク・アレンジの巧みさは、日本とイギリス双方で生まれ育った氏だからこその手腕。勿論作家としての語り口の巧さも光る。
イギリス人でも日本人でもない、南アフリカ出身のまだ若い30代という監督オリヴァー・ハーマナス。イギリスや日本への先入観なく、ただただ純粋に人生を見つめる。誠実な演出も好感。
映像・音楽・美術・衣装も美しい。
個人的に気に入ったのは、まるでクラシック名作のようなOPクレジット。これだけでスッと作品世界に入っていってしまった。
オリジナルは今も尚愛され続けている。
このリメイクも新たなファンを獲得。
何故この作品は、こんなにも見る人の心を捉えるのだろうか。
きっとそれは、古今東西普遍的なテーマが込められ描かれているからだろう。
自分の人生への意味。自分の人生は何だったのか…?
今付けられたあだ名は“ゾンビ”。生きているけど死んでるような…。
昔はこうじゃなかった。もっと光り溢れ、生き生きとしていた。
そうだ。私は紳士になりたかったのだ。
きっかけは妻との死別。以来、空虚さや生きる意味をも失い…。
波風立てず。事なかれ主義。
そんな私にとって、勤める市役所はぴったりの“墓場”。
面倒な事はたらい回し、後回し、忘れ去る。市役所の官僚主義は昔も今も何ら変わっていない痛烈な皮肉。
これが、“紳士”なのか…?
そんな時、元同僚と再会。周囲や当人からあれこれ陰口囁かれ、変に思われるが、本人の思う事は至って真摯。
若く輝く君を見て、憧れた。私にもそんなかつてがあった。
それはもう失われたのか。取り戻せないのか。
いや、そんな事はない。何かをする事に遅いか早いかなんてない。大事なのは、それをやるかやらないか、だ。
人生最後に捧げた公園作り。決して大それた事じゃない。後生に残る偉業でもなく、いずれは忘れ去られる。
市役所の上役は手柄を横取り。同僚たちもウィリアムズ氏の最後の姿に感銘を受け見習おうとしたのも、最初の口だけ。結局…。
意義や意味、私は何を変えたのか…?
わざわざ説明する必要もない。
お偉い人たちには無関心でも、尽力してくれた人たちからすれば永遠に忘れない。
見返りや称えなど求めない。ただただ、それが私が今出来る事。それをやっただけ。
それが、人だ。紳士だ。生きるという事だ。
そこに幸せを見出だした。最後の瞬間まで、それに包まれて。
余命僅かの者が死にゆく物語じゃない。
死を前にして、見つけた誇りと証し。
私は、生きた。
最後にしか出ない力もある
楽しむ方法を知らない役所の市民課長ウィリアムズが余命を知って遊興にふけようとするも、自分が本当にしたいことは遊びではないと気づき、職場に復帰して散々後回しにしてきた下水汚染の解消と子供の遊び場整備を成し遂げ、寒空の下自らの手で整備した遊び場のブランコを漕ぎ満足そうに歌いながら逝った姿は、自分らしく生きることの大切さを教えてくれています。
ウィリアムズの死後、彼を見習い市民からの陳情をたらい回しにしないと誓いを立てた市民課の部下達は、やはりと言うべきか程なくして誓いを守らなくなりますが、単純な日常の繰り返しに心が麻痺してしまったというよりは、余命僅かだったウィリアムズと違いいくらでも先延ばしできる状況下で、困難な問題に率先して取り組むことがいかに難しいか、大きな感動によって奮い立った気持ちに正直でいることがいかに難しいかを、見るものに問いかけ、戒めているようにも思えます。
どう生きるか?どう生きたか?
それは人間の永遠の命題だと思います。
黒澤明監督の不朽の名作1952年公開映画「生きる」が、
2022年英国でカズオ・イシグロの脚本、
ビル・ナイの主演で映画化されました。
とても嬉しく喜ばしい出来事です。
1952年。
イギリスも未だ戦後の復興途上で配給制度も残っていたそうです。
通勤のプラットフォームには山高帽に黒い仕立ての良いスーツに
ステッキの英国紳士が「通勤は私語禁止」と整然と並び
プラットフォームに入ってくるのは蒸気機関車です。
「生きる」の主役・ミスター・ゾンビとのあだ名を
部下のマーガレットから聞いて、納得して頷きつつも内心穏やかではない
市役所の市民課課のウィリアムズ氏。
ビル・ナイほどウィリアムズにふさわしい主役はいるでしょうか?
英国のレジェンド俳優を知ったのは
「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」でした。
それからは好んで彼の出ている映画を観ました。
特に好きなのは「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」
特にハンサムとも思えないのに妙にセクシーで印象に残ります。
ビル・ナイ。彼からは、生命力の薄さ・・・が匂います。
言ってしまうと、「いつ死んでもおかしくない」雰囲気の俳優。
あまりに痩せて見えるので、健康ではないのか?と危惧する程です。
カズオ・イシグロがビル・ナイのために書いたと語る脚本。
イシグロ氏は1930〜1940年代の英国映画がとても好き・・・
そう語り、
この映画もとてもクラシックな作りになっています。
スタンダードサイズの小さな画面。
クレジットの字体、エンドクレジットも古い映画そっくりです。
イギリスは建造物が立派ですから、日本版より高級な雰囲気を
感じます。
市役所の書類の山積みはオリジナルそのまま。
公園の新設を陳情に来る婦人たちに、
最初はウィリアムズ(ビル・ナイ)が課長をする市民課、
それからは、やれ土木課→水道課→公園課→下水道課→
とたらい回しになり、周り周って市民課へ戻る。
そして書類の山のてっぺんに置かれて先送りされてしまう。
程なくウィリアムズは余命宣告を受ける。
癌のため余命は6ヶ月から9ヶ月。
彼は妻の死後、正気を失い・・・
市民課の仕事を惰性でしかやって来なかった。
彼の心の中の虚しさ、やりきれなさが募るばかりです。
市民課の仕事が性に合わない部下のマーガレットを伴って、
映画を観たりランチを有名レストランで奢ったり・・・
その内にマーガレットから叱られて、
もう一度「生き生きと輝いてみよう」
そして何度も陳情に来た案件、
「子供たちの小さな空き地を遊び場にする」に、
本気で取り組むのです。
日本版とかなりよく似ています。
特に後半の30分は会話もほぼ同じ。
ウィリアムズの葬儀から、彼の残り時間を振り返る構成。
市民課の部下たちが、
「あの遊び場はウィリアムズ課長の功績か?」
と、話し合っている。
そしてウィリアムズがいかに粘り強く交渉に当たり、
実現する過程が再現映像で描かれる。
そしてラスト。
ウィリアムズは自分のただ一つ満足して
振り返れる仕事・・・
雪の降りしきる寒い夜、公園のブランコに座り、
妻の故郷スコットランド民謡「ナナカマドの木」
それを歌いながらウィリアムズは永眠する。
「早くお帰りください」とお声を掛ければ・・・
そう嘆くポリスマンが部下の新人ピーターに言う。
「本当に幸せそうでした」と。
☆☆☆
志村喬の歌う「ゴンドラの唄」
こちらも素晴らしいラストでした。
改めて生きるって何か考えた。
生きるって、生きていることってなに?どんな状態?この映画を見て改めて考えさせられた。人間っておいさき短いと知った時、こんなにパワフルになり、物事を成しとけることができるの?結局は子供のための公園に尽力を尽くしたけど、ウィリアムズ(ビル・ナイ)は初めは子供のためにと考えたわけじゃない。自分で生きがいを見つけたかったわけだ。信念を持ってやり遂げたことが何もなかったから。こんなことを考えながらもこの映画は泣けた。
公務員のウィリアムズは元部下であるマーガレット(エイミー・ルー・ウッド)に自分の苦しい気持ちを伝えることができたというということが生きる気力を導き出したということだと思った。この喫茶店でのシーンはマーガレットと同様に泣けてしまった。マーガレットの優しい眼差しが、私の心も癒してくれた。ありがとう、マーガレット、ウィリアムが言いたくなるまで待って、そして、聞いてあげてくれて。息子、マイケルの代わりに聞いてあげてくれて。
レストランであった通りすがりの男にも自分の心の中を見せたがウイリアムズに生きる決心させるものはなかった。一人で息子を育て、無気力のお役所仕事を長く続けすぎて、心が凍りついてしまい、息子にも心の中を見せることができなかった。というより、言い出すチャンスをつかめなかったのかもしれない。息子だって聞く耳をもってなかったわけじゃない。「若い女と一緒に?」という先入観に囚われすぎていたのだ。『息子は自分のことでいっぱいだから』と言って息子を思いやり躊躇してしまうウイリアムズ。お父さんだね。
黒澤明の『生きる』から生きるっていうことをこの映画ほどは感じ取れなかった。なぜかというと、例えば、葬儀の通夜のシーンでの日本社会の縮図(お役所仕事、公園建設は誰の功績かを謙遜し合っていうが、自分の功績にしたがる上司などなど)が見られ、おかしくなってしまって、個人の心の中より、第二次世界大戦後の社会構図の方に興味があった。それが、また、現状維持という名で今も?続いていっていることを皮肉っているのに興味があった。
そして、また戦後の歴史の人間模様を天下の黒澤は的確に描いている。それが『お笑いのような、バカさ加減』になり手にとるようにわかる。それに対比した志村喬のクソ真面目な演技が心を打った。
しかし、この映画では当時、男はよく新聞を読んでいて、上司の前では閉じて会釈する。それに回りくどいような肩っくるしい英語はなるほどと思うが、その反面この映画のロンドンの戦後の復興時代は私は何もしらない。文化を知らなすぎたので、文化背景を知って映画を鑑賞するより、もっと普遍的な人間性や人間関係に注意を向けることができた。
例えば、ウィリアムズ人間の生き方、特にウイリアムズの葛藤が手に取るようにわかり、彼は聞いてもらうことによって癒やされ、次のステップに行ける力強さに感動した。それに、彼の部下の通勤列車の中の会話も酒が入ってないせいか(黒澤のは通夜で酒の場)真剣に聞こうとしている自分に気がついた。イシグロの脚本は当時のイギリス文化を上手に取り入れ、黒澤明の『生きる』の良さを十二分に生かした秀作だ。ビル・ナイも志村喬と同様、演技派だ。うまい。
自分を大切にして生きることの難しさ
黒沢明監督「生きる」のイギリス版リメイク。
黒沢監督のオリジナルは見れておらず比較できないが、多くの人が原作への敬意が感じられる良作と評価している通り、とても優れた作品だった。日本生まれイギリス育ちのカズオ・イシグロの脚本によるところも大きいだろう。
1953年のロンドンが舞台である本作のオープニングは、当時の実録映像から始まり、映画の舞台へとシームレスにつながっていく作りで、古き良き時代のロンドンに一気に引き込まれていった。とは言え、ただの回顧主義的な話にとどまらず、現代の私たち、もっと若い人たちにも響く余韻がある作品だったと思う。
余命宣告を受けた公務員一筋の主人公のウイリアムズは、バイタリティに溢れる若手社員のマーガレットの生き方に感銘を受ける。でも彼女は決して誰かを元気にするつもりなんかなくて、ただありのままに自分を大切にして生きているだけなのだ。それって簡単なようでいてとても難しいことのように感じた。私は、私が後悔しない人生を送れているだろうか、今からでもそういう生き方はできるだろうか。
主演のビル・ナイの憂いある表情やハットを被った佇まいに、何故か他界した祖父の面影が重なり、ホロリと涙してしまった。
黒沢版オリジナル作品も見たい。
英国紳士としての「矜持」という生き様
あの黒澤明の大傑作がノーベル賞作家カズオ・イシグロ脚本で甦る……という超豪華リメイク。
ただ、いくらなんでもリメイク元が名作すぎる上に「原典の志村喬に対してビル・ナイって配役はいくらなんでも格好良すぎないか?」と観る前は不安でしたが、こちらは「英国紳士としての生き様」という別の一本芯を入れて見事に成り立たせています。
前半は驚くほど黒澤版に忠実に進みます。たらい回しのお役所仕事描写に、作家に遊び方を聞いて羽目を外そうとするウィリアムズ(原典の渡邊)、息子に胃がんについて話を切り出そうとするもお互いに中々話せないもどかしさ……黒澤版と同じおかしみに溢れています。
病院で医者に胃がんの申告を遠回しにされる部分くらいですかね、オミットされたの。
まあ、医者が胃がんをハッキリ伝えないとか現在だと医療倫理的にどうなんだろう(一応、本作の時代設定も1950年代のままですが…)とか、そもそもお国柄的に迂遠な申告はしないのかもなとか色々ありそうですけどね、この辺。
ただ、リメイクなんで当然ですが、しっかり英国の美に合わせた画作りをしているのは美しいです。
集団が画一的な存在に成っている…って表現である朝の通勤ラッシュ描写が、スラッとした黒スーツに山高帽というお洒落さで異様に格好良いです。こればかりは「英国紳士だから」こそ出来た絵面なのでズルさすら感じますね……この場面はどう足掻いても日本人じゃサマにならないからネ……
スクリーンサイズも当時のスタンダート・サイズ(1:1.37)に近しくしていますし、冒頭のスタッフロールは完全なスタンダート・サイズと当時を思わせる画質で、往年の「名画」を観ているって感じで嬉しい。『七人の侍』のリメイクだったらフルスクリーンで観たいですが、本作に関してはなんぼ小さくしたって良いですからね!
演出も全体的に抑えてあり、前述の胃がん問答といった黒澤版の滑稽な描写は極力オミットして雰囲作りに注力している印象があります。
原典から決定的にズラしたのは職場の女の子との関係性と主人公の変化の仕方でしょう。
原典ではおもちゃ会社に再就職した彼女の何気ない「何か作れば?」の一言に渡邊は天恵を得て、ハッピーバースデーの歌と共に「生まれ変った」受動的な変化でした。
しかし、こちらではウィリアムズは彼女に息子にすら打ち明けなかった余命の話を打ち明け、自ら納得して「生まれ変わる」という能動的な変化となっています。
そのため、原典と違ってウィリアムズと強い繋がりを得た彼女も葬式に参列することになります。
僕が黒澤版で一番スゲェーな……って思ったの、二部構成のうち二部からは主人公が既に故人で、すっぱり抜け落ちた彼の公園建設の過程を遺された人々の通夜の会話で1時間展開させたことなんですよ。
前述通り、変化のきっかけとなった女の子も不在だから、主人公の生き様は類推でしか察せられない「聖域」と化しています。
ところが、本作は死後のシーンは30分足らず。
上司がウィリアムズの手柄を横取りする場面や、公園作りを陳情しに来たマダムたちの焼香(英国だから参列か)も一応ありますがサラッと流していて、その構成に拘っているわけではありません。
しかも、ウィリアムズが死に際に何を感じていたのかを、自分でまとめてそれを女の子と手紙を託した新人に伝えている…というように、描き方自体を根本から変えているんですね。そのため、ウィリアムズの遺志を(想像して)継ぐも、結局死に臨んだ人間の行動は模倣できずに流されたシニカルな黒澤版から結末も変わっています。
即ち女の子と新人の役割は「継承先」へ、公園の意味は自分のような「生ける屍(ゾンビ)」を生み出さないための次世代への目線に再解釈。そのため、後半からは黒澤版を大きく汲みつつも全く別の話となっています。
この辺の改変、下手にやると陳腐というか「想いは受け継がれる」という安直な話に堕してしまう恐れがあるんですけど、本作においてはウィリアムズが「英国紳士になりたかった」という一本芯を通したことでかなり筋が通っているように感じましたね。
流されやすい日本人である渡邊は死に臨んで天啓を得て自分だけの「聖域」を築きましたが、英国紳士であるウィリアムズは死に臨んでも慌てずに何が出来るかを精一杯考えて納得する「矜持」を持つに至りました。
だからこそ、ウィリアムズは自分がこれからやることを言語化して他者にハッキリ伝えましたし、作品自体も見事に「継承の物語」への換骨奪胎を遂げることに繋がったのです。
ただその場合、黒澤版のシニカルなオチ部分は別に入れる必要はなかったかな……
本作ではその部分、希望のある継承の物語に変換した大オチに対する中オチにあたるんですけど、別に入れなくても良い場面になってるんですよね。
特に原典でのあの場面、通夜の席で酔った部下達がその場のノリで宣言したから翌朝には元の木阿弥だった…って風にも取れるようになっているのが秀逸で、対して通夜での酒宴の文化のない英国版だとシラフで宣言したのに、翌朝には元に戻ってるのはちょっと薄情とも取れちゃうからね……
それでも、原典の要点を正確に理解して、それを英国流にズラした上で相応しい様式に変えた脚本の出来は実に見事でした。
これは日本出身イギリス在住の作家であるカズオ・イシグロだからこそ出来たとも言えるでしょうね。その非常に丁寧で良質な仕事ぶりに拍手喝采です。
国を越え、時代を越えて、響くテーマ。
通常スクリーンで鑑賞(字幕)。
オリジナル版は鑑賞済み。
ビル・ナイの演技が胸を打つ。死までに残された時間をどう過ごすか苦悩する姿の痛ましさの表現が素晴らしく、生きることの意味を見出した後の変化が感動的でした。
それまでは消え入りそうだった声に少しハリが出、その眼差しからも「成すべきことを成そう」と云う決意が溢れていて、志村喬の演技に通じる深みと繊細さがありました。
オリジナル版に多大な敬意が払われていることがひしひしと感じられました。日本で生まれた作品が別の国で、このような最良の形でリメイクされることは、日本人として非常に誇らしい気持ちになりました。国を越え、時代を越えて響く、生きるとは何かと云う問い掛けが沁みました。
※修正(2024/02/18)
共感できないこと
全体的にはすごくよかったし、ラストも良かったと思います。オリジナルは昔見たけど、あまりはっきり覚えてなくて、どのへんが違うのかはわからなかったですが、どうしても共感できないことがあって、中盤は少し冷めた目で見ていました。それは、主人公が余命宣告をされたあとに、仕事を無断欠勤したことです。それだけショックだったことを表現したかったのかもしれないですが、公務員が1日無断欠勤するだけでも大変なことなのに、カレンダーがめくれるシーンから推測すると、1ヶ月ほど無断欠勤してたことになりますよね? もしそうなら、普通は大騒ぎになっているし、懲戒解雇になっているはずです。それなのに周りはたいして騒ぎもせず、いきなり戻ってきて一方的に「ついてこい」と言われて、あんなに簡単に従うのは不自然だと思いました。それともこの映画の時代設定が現代よりも鷹揚で、それぐらいは許されていたということでしょうか? その部分がちゃんと有休を使うなど、もっとリアリティがあった方がより共感できたと思います。
これは原作も観なくては
現代に焼き直すと思うじゃん。そうじゃなくて1950年代のイギリスを舞台にしてんの。その決断がすごいね。
話は古くさい感じがすんの。でも、結局、いまと大きく違いはないんだよね。
市役所勤務で、ことなかれ主義で過ごしてきた課長が、余命わずかであることを知って、突然、やるべきことをやるんだよ。それに周りの人が感銘を受けて。
課長の葬式の帰りには「我々は課長の意志を引き継ごう」って安っぽく盛り上がるんだよね。めちゃくちゃ見に覚えがある。感銘受けた後で安っぽく盛り上がってしまうの。
でも当然のように元の木阿弥で、ことなかれ主義で仕事が続くの。
この話、良いなと思うのがね、課長は自分が余命わずかと知るまで、完全に仕事に情熱を失ってるの。そんな人間でも、変わることができれば輝けるんだって、希望があるね。
年をとると、仕事の上では燻ることがあんだよね、でも、そんなあなたでも私でも、まだ輝けるっていうのがいいね。
しかし、映画を観て安っぽく盛り上がっても、課長の仕事は、課長の上司の上司や隣の課に手柄は持ってかれてんの。そうなると分かっていて、なお、やるべきことをやれるかというと、やっぱ無理だね。
それでも
目標を持つことの大切さ
マーガレットハリスが職場を明るくしたいと思い、自分から積極的に話しかけたりしていたが、
変わることはなく自分には役所はあってないと感じ、転職しようとしたが課長であるウィリアムズには明るくしようとした行動が響いていた。物事をやる時にどうせ無駄だと決めつけず、諦めずに何事もやることで人の心を動かすことができる素晴らしさを感じることができました。素晴らしい映画です。
全51件中、1~20件目を表示