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東京にある小さな映画館シネマ・チュプキ・タバタでは上映するすべての映画に音声ガイドと字幕をつけている。
その他に、車いすの人、小さなお子様を連れた人などへの配慮もあり、日本で唯一のユニバーサルシアター。
そんな映画館にある相談が持ち込まれた。
それは、「舞台手話通訳者」を紹介した30分ほどのドキュメンタリー映画への音声ガイドをつけること。
耳の聴こえない人にも演劇を楽しんでもらうために欧州の多くの舞台でつけられる舞台手話通訳者も日本では普及していない。
その舞台手話通訳者に挑んだ3人を捉えたドキュメンタリーなのだが、さて、音声言語を視覚言語に変換したものが手話、その視覚言語をふたたび音声ガイドという音声言語に還元するのだが、そんなことが可能かどうか・・・
といった内容のドキュメンタリー映画。
とにかくスリリング。
舞台の台詞(音声言語)を手話(視覚言語)に変換、
それだけでもかなりの苦労をしているのが、もともとのドキュメンタリー映画から窺い知れる。
手話を音声ガイドに変換すると、それは元々の台詞に還元することになるのではなかろうか。
台詞の上に台詞、屋上屋を架すことにならないか。
音声ガイド製作前に、ひとりの視覚障碍者にもとのドキュメンタリーを観てもらう(聞いてもらう)のだけれど、そのときの感想が興味深い。
「なんとなくわかりますよ。というか、結構わかりましたよ。でも、舞台手話通訳のひとがなにをしているのか、そこが伝わってこないよね」
そうそう、そこがポイントなのね。
もとのドキュメンタリーは「舞台手話通訳者」の紹介であって、行われている舞台・演劇の紹介ではないのです。
舞台の台詞(音声言語)→手話(視覚言語)の変換は、シニフィエ(意味)はそのままにシニフィアン(表象)を変えたものだが、
(手話通訳者によれば、若干意訳や翻訳、単語は前後しているらしいが)
この映画につけるべき音声ガイドでは、
異なるシニフィエ(意味)に対して音声というシニフィアン(表象)を付けなければならないのではありますまいか。
と、大学時代にソシュールの記号論を齧った身としては、そんな七面倒くさいことを考えながら観続けると、結果、「うわっ、ビックリ」な音声ガイドが出来上がる。
この音声ガイドは、本島に素晴らしい。
あまりに素晴らしく、もとのドキュメンタリーに映像情報がある分、画面を見ながら、音声ガイドを聴くと、情報量も多く、脳が疲弊しまくってしまいました。
(音声ガイドのある映画を画面付きで観るのは、屋上屋を架すことなのかも)
途中、いくつかのシーンでは、目を瞑って聴いていました。
で、もっと驚くのは、本作『こころの通訳者たち』にも音声ガイドが付いているというこで、会場で音声ガイド用のラジオの貸し出しがありましたが、さすがに遠慮しておいて正解でしたね。疲れること、この上ないでしょうから。