百花のレビュー・感想・評価
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百合子の黄
映画のテクノロジーはおいといて、原田美枝子ってやっぱり美人だな。
予告で期待したようなナニかが無かったぶん、少し肩透かし感は否めません
が、原田美枝子を見る映画として結果、ヨシでした。
内容は母と息子のヒズミをエモーショナルなかたちで
敢えてなのか?ドラマ(物語)に反映していない(出来なかった?)ので、「いいお話」どまりで終わりました。
その要因は「病が進行して社会生活できなくなっていく母と、それを静かに受け止め看病する息子」という広がりをもたない鬱展開にあったように感じました。
息子は一様には記憶の「断片」に苛まれはしますが、きほん状況に対して受け身でいて波風たてない模範的な息子です。
ある問題を有した主人公が棚ボタ式に解決へと導かれてヨシとされる、
こういう日常系、窓辺系?は邦画の流行りなのか、伝統になりつつあるのかどうか?
冒頭でも百合子が呟く薔薇の蕾ならぬ、「半分の花火…」も
結局、息子は本当の意味で追いかける(辿っていく)ことをしてません。
「起こった状況に対して賢明な対処する」でした。
施設に入れてからの家の始末で”百合子の部分”を見つけることはあっても、それは偶然でしかありませんでした。
結構重要な部分が全て「断片」で説明されるだけなので、冷めた見方をすると「でしょうね」としかなりませんでした。
この場合でいう、見たかったヒズミとは、、
百合子の「母親として、いち女性としてのはざま」や、その「とどめて置きたいけど忘れてしまうこと」だし、泉の「捨てられた?という忘れたいけど忘れられない沸々と潜む情念」だったし、、
それを病と格闘する「日常」のなかでの、二人のせめぎ合いを真正面から見たかったです。
また、分かりやすい色使いの演出はよかったのですが、
もし百合子が百合子であることを黄色とするのなら、、
ラストの縁側で、転嫁か輪回なのかで初孫に黄色をまとわせるも良いのですが、
不治の病に陥り、もう戻ってこない百合子を白と表現するのはどうかと思いました。
そこに映画の語り部である作者の、病気と対峙する及び腰な姿勢(描き方)を感じました。
もし最後百合子に白をまとわせるのなら、
息子である泉は、あの時この場所に確かにあった”半分の花火”に(偶然ではあるが)”気づけた”わけなので、、
少なくとも彼の目の中にだけは、花火の光で全身黄色で照らされる母像を映してほしかったです。
そうでないと泉は「気付き」だけで、母百合子を「受け入れ」られたように見えないと思いました。
全く感情移入できない
泣かせてくるんだろうなと気合を入れて見に行き肩透かしを喰らいました。
これだけ役者の無駄遣いをした映画もなかなかない。
人物造詣もストーリーも弱すぎる。
肝心なところが全く描けてない。
シングルマザーがたった一人の小学生の息子を捨てて不倫に走る
どんな背景が!?
は?それだけ?愛に走って息子を捨てることへの逡巡も描かないの!?
阪神大震災に遭遇する
不倫相手どうなったん!?
描かんのか〜い!!
一年もほったらかした息子のもとにどの面下げて帰ったん!?息子の反応は!?
描かんのか〜い!!!
菅田将暉も、長澤まさみもいい人過ぎて気持ち悪いとすら思った。川村元気の願望から生まれた妄想を見せられている気分でした。
さらにリアリティなさすぎるところ
地震後に外に駆け出すけど人っ子一人いないってどういうことですか?
気持ち悪かったし、隣で見た母は阪神大震災を経験してるので冷や汗かきました
阪神電車の線路脇ということでしたが、あの倒壊ぶりから見たら東灘区あたりの設定でしょうか?
であればあのあと大火災がおこりたくさんの方がなくなっているんですが…
主人公が家に戻るきっかけだけのために実際の悲惨な災害をこんなに中途半端な描写で使うのはどうなんでしょうか。
あと、半分の花火が自宅から見えた花火って…
それ、忘れます?
花火大会って毎年やりますよね
どんでん返しのつもりなんですか?
お金払って映画を見に来る人をバカにしてますか?
役者も誰一人うまく見せられてなかった。
天音くんのモブ扱いもひどかった。
菅田将暉くん目当てで行きましたが、またもや彼の無駄遣い作品にあたってしまいました。今から鎌倉殿見て口直しします。
ひとことReview!
親の認知症について色々考えさせられる作品。「なんで忘れてんだよ、こっちは忘れらんねえんだよ」は今年度の名言級。菅田将暉と原田美枝子の演技、撮影と編集は見事。
いくつかこの映画のポイントになるセリフがあったのでメモ。 ・半分の...
いくつかこの映画のポイントになるセリフがあったのでメモ。
・半分の花火が見たい
泉の母が事あるごとによく口にするセリフ。泉夫婦で調べた半分の花火は、本当の半分の花火ではなかった。
昔住んでいた自宅の整理中に、本物の半分の花火を見た時、泉は、今までずっと忘れていた母の愛情も思いだし、やっと母を許すことができた。
しかし、母は、花火にも目の焦点が合わずのまま。タイミングがあと少し早ければ最期の悲壮感も少しは和らげられたのに。
・いつまでお母さんに謝らせるの
これは施設から帰るバス車中での香織のセリフで、これは映画の展開に効いてくる大切なワードだった。和やかな会話の中にも、どすんと重みがあって。大好きな俳優の長澤さんに言ってもらえて良かった。
1度目の半分の花火では自分のどす黒い思いを母にぶつけて母も取り乱す。
次に偶然に親子で見た自宅からの本物の花火は、ずっと許すことのできなかった気持ちと葛藤し続けた泉が最期に母に謝るというきっかけになった。この2つの花火流れと親子の関係性はとてもよかった。
ただ、父になることの覚悟も取ってつけたように混ぜるところとか、震災や父母のエピソードが不快だった。本当にこのストーリーを、引き立たせる上でなあの尺が必要だったかはひっかかる。
けれど、本当に大切なことが起こるタイミングってベストなところに合わせてくれない。ピタッと合わさる奇跡って起きない。映画の盛り上がりはないけれど、これが現実と思わせられた。
・忘れる機能をつれればよかった、それが人間らしさ
色んな方が書いているように、辛いことはやっぱり心のどこかにどす黒く残っているのに、楽しいことや穏やかな日常はすぐ忘れてしまう。
だからと言って全て忘れない方がいいかというとそれも人間ではない。これが命題かなと思った。
淡々。
思ったより淡々とした映画でした。
親の認知症がリアルな世代だからかな、逆に私は感情移入できなかった。
この映画は、何が言いたかったんだろう。
泉と百合子は、いわゆる"普通"に幸せな親子ではなかったかもしれないけど、どんな人間でもどんな関係でも、"老い"はそれぞれに等しく訪れるし、"病"に侵される確率もまたみんな平等。
だから、恨み節もわかるけど、できるだけ"幸せな記憶"を大事にして生きていこう、ってこと?的外れかな?
百合子が泉への愛情を思い出すきっかけは、あの大震災じゃなきゃいけなかったかな…。
他の作られた事故や災害よりは、より多くの人がリアリティーを持って感じられるだろうとは思うけど、使い方がちょっと軽い気がしてなんか、気持ちがザラッとしました。
AIの歌手?とか出すんだから、もう完全に作り物の物語の方が、入り込めたかも。
泉が、幸せな記憶もあったことを思い出していくのが、救いでした。
【良かった点】 邦画では攻めた構図、構成、そしてワンカットで描かれ...
【良かった点】
邦画では攻めた構図、構成、そしてワンカットで描かれる泉と百合子の関係性。川村元気監督曰く、日常にカットはかからずふとしたことで忘れていた記憶が呼び起こされる、そんなことを意識したとのこと。ディテールや伏線が細かく、繊細に描かれていて集中して時間を忘れてスクリーンを見つめていた。この映画を観て、過去に母と過ごした記憶が呼び起こされ温かい涙が溢れた。
【良くなかった点】
作りが凝っている分、ストーリーに大きな起伏はない。想像通りに物語は進み、想像したラストを迎える。ただこの映画はそれでいいと思う。それが日常であり、人の記憶そのものだと感じることができるからだ。
記憶は枯れようとも、再び咲き開いた半分の花火の思い出は、心に残り続ける
認知症の母と息子。
プロット的にはありふれている。
が、本作が初メガホンとなった近年の日本映画のヒット仕掛人、川村元気プロデューサーによる巧みな見せ方、流麗な語り口、美しい映像、キャストの熱演(特に原田美枝子)で、ヒューマン・ドラマの秀作となっている。
誰だって一本くらい、川村元気がプロデューサーや脚本家として関わった作品を知り、見てもいるだろう。そのラインナップを今更おさらいする必要すらないほど。
小説家としても著書を出し、映画化されているが、その時は他者が監督。しかし今回に限っては、自ら監督(しかもデビュー)。
これまで多くの卓越した作品を手掛けながら、やはり最も自分の心にあるのは、普遍的なもの。パーソナルなもの。自身の祖母がベース。
それほど思い入れあり、覚悟を決めた作品なのだろう。
認知症を題材にした作品と言うと、邦画難病映画ありがちの湿っぽさ、辛気臭さ、ベタな家族愛が定番。新味あったのはユーモラスとハートフルを織り交ぜた『長いお別れ』くらい。
本作は何処か不穏な雰囲気を漂わせ、ミステリーのような構成。それでいて、ラストは深い余韻に包む。
『ファーザー』とまではいかないが、シンプルながら凝った作りに唸らされる。
母・百合子がスーパーで買い物をするシーン。卵などをカゴに入れ、走り回る子供に声を掛ける。すると、また似たようなシーン。それが二度、三度と続く。
団地の階段を登り、同じ階数と遊具が置かれた踊り場。
デジャヴのようなシーン、シチュエーション。
これが、認知症を患う人の“視点”なのだろう。
そんな見せ方によって、見ている我々もあたかも“頭の中の迷宮”に迷い込んだような錯覚にさせられる。
母・百合子と息子・泉。
母一人子一人、支え合って生きている…と言い難い。
決して仲が悪いというんじゃなくて、確執と言うかわだかまりと言うか、何かこう、“隔てられた壁”のようなものを感じる。
この母子の間に何があったのか…?
挿入される過去シーンで自ずと察しは付くが、開幕シーンからすでにそれを語っている。
泉が仕事から帰ると、母が居ない。探し回るが、その困惑ぶりが並みじゃない。
自分にとって最も恐ろしい事。悪夢の再来のような…。
泉がまだ幼い頃、母は家を出、知り合った男と暮らしていた過去がある。
泉にとっては今も思い出すと吐き気を催すほどのトラウマ。
母が居ないは、イコール再び母に捨てられた。
さらに、母の認知症が発覚。忘れていくというのも、二重にまた母が居なくなってしまう恐ろしさに比喩する。
泉の悲しさ辛さも分かるが、母・百合子の方が複雑な内面を魅せる。
それを体現した原田美枝子。
クレジット上は菅田将暉が先だが、間違いなく本作の主演は、原田美枝子。
最近助演が多かったが、久々の堂々たる主演で(遡って調べたら、映画主演は2002年の『OUT』以来!)、その演技力を存分に発揮。
認知症を患った不安定さ、母としての優しさ、温かさ、一人の女性としての美しさ、愛らしさ、一人の人間としての悲しみ、苦しみ…。
改めて、名だたる名匠に愛された素晴らしい名女優である事を認識した。
本作は彼女にとっても特別な気持ちで望んだ作品であったろう。2020年に認知症を患った自身の母を捉えたドキュメンタリーを監督。
身内の認知症を目の当たりにし、経験したからこそ、本作での圧倒的リアリズムに打ちのめされるのだ。
本作での演出や演技を巡って、激論を交わしたという原田と川村。
それほど描きたいもの、体現したいもの、訴えたいものが各々あったという事だろう。
それが、映画を作るという事だ。それが、映画の中で一つの人生を生きるという事だ。
菅田将暉は抑えた演技で息子の悲しみ、辛さを滲ませる。唯一感情を爆発させた夜の海辺のシーン。息子の全ての思いが蓄積され、菅田の熱演と共に印象的なシーンとなっている。
泉の妻役に長澤まさみ、百合子の過去に関わる男に永瀬正敏、実力派が脇を固めるが、ほとんどが原田と菅田で占められる。
ワンシーンワンカットを多用し、登場人物の心情の揺らぎや彷徨の様を表し、キャストの演技に引き込まれる。
巧みな演出や編集。現在と過去を交錯しつつも、無駄な描写は省略。
見る者を誘う映像美。その最たるは、夜空に咲く半分の花火。
その中に、母と息子の物語をストレートに情感たっぷりに語る。
認知症の進行は止める事が出来ない。
花が枯れていくように、花火が散るように、記憶がどんどん失われていく。
どちらが辛いのだろう。どちらが悲しいのだろう。
決して幸せな思い出や綺麗事ばかりではない。暗い思い出も多々。
それも含め、思い出を忘れていくのと、忘れられていくのと。
子供を捨て、男に走った。母の過去の行為は許されるものではない。この点、レビューで激しく賛否分かれているのも当然。
自身の女としての幸せを望みつつも、決して忘れられぬ息子の存在。再会した不倫中の旧友と会った時も言葉を濁す。
そして、あの大震災。全てが崩れた町中を彷徨し、その先に見つけたものは…。
絶望の中にも美しく輝く母なる太陽。かつて、息子と見た太陽を思い出す。
そして、思い知る。何より大切な存在を。自分の愚かな過ちを。
それは母にとって、ずっと悔やんでも悔やみ切れない罪だったのであろう。
抱えたまま生き、何処かぎこちない親子関係が続いていたある日突然、我が身を襲った病。
自分が自分でなくなる前に…。
とりわけバス停での抱擁と告解。
枯れかかっていた親子の花が、再び咲き開いた。
が、母の病は避けられぬ。
親子の絆もまた失われてしまうのか…?
否。
花は散り、花火は消えても、心に残り続ける。
いつか見た、そして今また見た、半分の花火の美しさのように。
消えゆく中から
原作は未読です。
全く隙の無い作品でした。登場人物の心情を丁寧に掬い上げるようなワンシーン・ワンカットに引き込まれました。
巧みな編集によって、百合子の症状の悪化を視覚的に表現したり、時系列を前後させた構成も見事だと思いました。
プロデューサーとして数多くの映画を手掛けて来た川村元気監督なだけあって、映画的文法を真面目に踏襲しつつ、こだわり抜いた演出や映像美を追求したのであろう圧巻の撮影によって、かなり攻めた作風になっているのが印象に残りました。
私が高校3年生の時に亡くなった祖父は、アルツハイマー型認知症を患っていました。家族が異変に気づき始めたのは私が中学2年生になった頃。突然トイレの場所が分からなくなったり、毎日欠かさず観ていたお昼のドラマの再放送のストーリーが理解出来ていないと云うことが増えました。
病院で診察を受け、すぐに認知症だと判明しました。
「まさかおじいちゃんが…」と衝撃を受けました。
劇中にも登場した薬を処方されましたし、百合子みたいに外に出て行って迷子になり、家族総出で探したことも実際にあったので、リアリティーを伴って観ることが出来ました。
祖父は、次第に私たち家族のことを忘れていきました。私も「あんた誰や?」とよく言われました。言われる度に、幼い頃両親が共働きだったため祖父母に面倒を見て貰っていたので、その時の記憶や想い出が過ぎっては、「あのことも忘れてしまっているのだろうか?」と切なくなりました。
色鮮やかな花々が散るように、抜け落ちていく記憶。記憶や想い出がその人を形づくるとはよく聞きますが、それらが失われた後に残るものはいったいなんなのだろう、と…
本作を観て、それは、洗練されて剥き出しになった、生身のその人自身の感情なのかもしれないと思いました。
確かに思い返せば、覚えてはいないのだろうけれど、祖父が私たちに向けて示す行動や反応には、家族に対するような、愛する人に向けるような、感情はあったかもな、と…
「半分の花火」の謎が解け、母親の愛を知った時、泉の口から出た言葉に涙があふれました。母から記憶が失われていくごとに、自身の中で母と過ごした日々の想い出が蘇り、抱えていたわだかまりも鮮明になっていきましたが、返って母親と向き合うことに繋がり、それまで言えなかった言葉となって想いがこぼれた瞬間、とてつもない感動に包まれました。
自分に投影しやすい作品
回想シーンが半分くらい占めるのでは。
不思議な映画でした。
しかしそこがこの映画の鍵。
母が認知症になった苦悩も描かれる。
しかし、それは現実でも目にする光景で多くの人にも容易に理解できる。
この映画では認知症になった母の頭の中が多く描かれる。
スーパーで同じことを何度も繰り返す母の頭。
ああ、そうか。認知症の人にはこのような感覚になるのか。
そして、それ以上に多く描かれるのは、過去。
認知症になった母はその多くの時間を過去で過ごしている。
その過去はおそらく母が一番戻りたい過去。
奇しくも息子にとって忘れてほしくない辛い過去と同じ時期。
息子は母に置き去りされ、母は愛する人と共に生きたその時期。
母が認知症になったことでその辛い時期を忘れてしまったように感じ憤る息子だが母は実は多くの時間をその時期で過ごした。
なぜなら母にとってその時期は幸せな時だったから。
我々が現実で認知症に接する際、家族も辛いが本人だって幸せではない、と決めつけてしまっているかもしれない。
だから、私は認知症にかかりたくない。と。
でも、考えてみれば、認知症の人の表情ってすごく柔らかい。
この話はおとぎ話ではなく、現実でも認知症の方はその人が一番戻りたい人生のある時期を生きているのかもしれない。
そんなことを考えさせてくれる素敵な映画でした。
no title
個人的にあまり好みではない作品だったのですが、感想が書きたくなったので、書きます。
物語中盤あたり、阪神淡路大震災の描写が出てきたときに、この震災の伏線がどう回収されるのだろうかとドキドキしていましたが、母親の愛の逃避行は自らの意志で終わるのではなく自然災害により終わりを告げるという、まさかの震災きっかけ…?って、私が泉の立場なら顔も見たくない、口もききたくない、絶対許せないだろうな、の展開はとても良いなと思いました。母親の恋人の男性もきっと震災で亡くなったのだろう、と想像させる万引き〜警察と映像確認の展開も良かったと思います。
母親の奥の奥の奥の方にある半分の花火の記憶と、泉の欠落した半分の花火の記憶の描写も、非常に胸を打つ展開ではありました。半分は2つ合わせると1つになる的な。
だけど。何というか。
『半分の花火』にも捻りは特になく本当に『半分見える花火』だったことや、(半分の花火って、AI映像の後ろにある遊園地の観覧車のことかと思っていた)過去と現在を断片的に見せる映像の数々など、何となく制作者の撮りたい映像、演出が並んでいるだけのようにも思えてきて、後半は少し冷めた視線で観賞。
真実の『半分の花火』は最後までとっておいて、わざわざ花火大会を見に行く流れはいらなかったような気もします。気がするだけです。
役者陣は豪華すぎて、凄かったです。
別件で、菅田将暉さん、これでやっとアカデミー最優秀賞かな⁉︎と期待して観ていました。獲ってほしいなぁ。
百花の意味って
認知症という流れを進めながら『純粋な家族の愛』が描かれていたように思います。
ラストで出てくる『半分花火』が、大勢の人で溢れかえる現在の河原での花火ではなく、小さなアパートのベランダから観た、この世で二人だけが共有した記憶であったというシーンは、目頭が熱くなりました。
失礼ながら原作小説を読んでおりませんのでなんとも言えませんが、『百花』とは、劇中何度も形を変えて登場する『一輪挿し』の事ではないかなと思いました。
花一輪一輪が記憶の象徴であり、様々な記憶(花)を束ねて花束にして、子から母へ愛を込めて贈るというメタファーだと勝手に理解しました。純愛物語ですね。
認知症ものと捉えると、それのみで終わってしまいますが、母と子が生きている間にお互いの記憶を手繰りながら理解しあえる事の大切さは美しいと思いました。
とても良い映画なので、是非とも多くの方々に鑑賞していただきたいです。
そのほかの感想…
○原田美枝子さんが美し過ぎる。演技も素晴らしくて、その点だけでも鑑賞の価値ありです!
○震災のシーンはトラウマの人々には刺激が強すぎる。重要なシーンだから仕方がないでしょうけれど…
○映像が全般的にアニメーションっぽい。押井監督や細田監督作品の感じがしました。特に繰り返しや現在と過去が交錯するシーンなど。
○CGキャラクターは必要だったのかな?役者が作品のテーマをさらっと言う点で、ちょっと冷めました。
でも本当にオススメです。普段邦画をご覧にならない方には特に。
以上です。
老いの物語りを美しく撮ると言う神技
いやぁ「神技」ってのは言い過ぎかも知れませんが。そう言いたくなるくらいに良かったです。TVドラマじゃ出来ない、まごう事なき「劇場用映画」。そこが良い。
長回しのオンパレードです。間があります。情報量は最低限。いずみと直接の関わりの無い部分はザックリ削ぎ落とします。無駄に喋りません。劇的な展開は有りません。起承転結の爽快感で映画を観る方には不向きです。
「捨てられた」と言う強烈な体験が、母親との思い出に蓋をしていた男。母親と眺めた「半分の花火」の事も、「ウチが一輪挿しになった理由」も忘れていました。対して。混乱していく記憶の中でも大切な思い出は消えていなかった母。記憶と忘れると言う事、を軸にした母子の物語りは、小さい小さい小噺程度の出し物。劇的な展開も、華々しい感動もないけど、ゆっくりゆっくり染みて来ます。
川村元気が自ら監督したのは、この脚本で受けてくれそうな人が居なかったからなんじゃないかと勘繰ってしまうくらいに地味でしたが。
良かった。
かなり。
と言うか、好き。
まぁ、いずれにしてもですよ。
メイクって魔法だよー!
ってのは思いましたw
【”罪と罰、そして赦し・・。”母子の複雑な関係性及び息子の母に対する想いの変遷を菅田将暉さんが、抑制した演技で魅せる作品。今作は哀しき物語ではあるが、柵を克服し、人を赦す大切さを描いた作品でもある。】
ー 若年性アルツハイマー型認知症に罹患した母は、僕に”半分の花火が見たい”と言った・・。-
◆感想
・ストーリーは、泉(菅田将暉)と母、百合子(原田美枝子)の現在と泉が小学生時代だった時を交互に、見せながら進む。
ー 今作は、泉と百合子の母子の過去と現在の関係性を8割がたの時間を割いて描いている。
そして、泉の妻、香織(長澤まさみ)と、百合子が一度だけ、生活を共にした浅葉(永瀬正敏)の4名で主要登場人物は構成される。-
・物語のトーンは、抑制されており、又、母、百合子の泉が小学生時代の一年間の”逃避”をどう見るかで、感想は変わって来ると思われる。
百合子に対するどこか、よそよそしい接し方をする泉の姿。
ー 個人的には、百合子の行動は許されるべきものではないと思う。
彼女の行動により、泉は心に深い傷を負ったのであるから・・。
更に言えば、浅葉と出奔した理由が、ピアノ教師と生徒の関係から、”同じ曲が好き”と言う理由だけで、愛息子を独り置いて行くだろうか・・、とも感じた。ー
・泉が母の部屋で見つけてしまった手帳。内容は映されないが、泉は内容を読み、吐瀉するシーン。それ程、泉にとっては衝撃的な事が書かれていたのだ。
ー ここは、百合子が浅葉と暮らしてた時に再会した旧友(神野美鈴)と喫茶店で、話している時の旧友の言葉”離婚なんか出来ない・・。子供がいるから・・。だから心の想いを手帳に書いているの。”という台詞とそれを聞いた百合子の表情が、効いている。ー
・そして、泉が百合子に対して、”あの時、何で俺を置いて行ったの・・”と血を吐くように言う姿。更に”忘れてるんじゃねーよ”と、荒々しく母に涙しながら言うシーン。
ー 菅田将暉という、俳優の凄さを改めて感じたシーンである。-
・ラストシーンも、印象的だ。ほぼ放心状態の母と息子が一緒に花火を見るシーン。
花火の下半分は、前の建物で隠れて見えない。
その前にも、妻が調べてくれた”半分の花火”のシーンがあるが、観る側が真の”半分の花火”が分かるシーンである。そして、泉はそれまで抱いていた柵から解き放たれ、確かに百合子に愛されていた事(一輪挿しのシーンなど・・)を思い出すのである。
そして、既に泉の事が分からない筈の百合子は、施設の近くのバス停で、泉を深く抱きしめるのである・・。
■私は、このシーンは百合子の泉に対する”詫び”と”愛しているんだよ・・”という、無意識のメッセージとして鑑賞した。沁みたシーンである・・。
<人間は”魔が差す”ことが偶にあると思う。それは、”大きな魔”であったり、”小さな魔”であったり・・。
今作は、母の犯した”大きな魔”により、深い傷を心に負いながら育った青年が、”半分の花火”を母と観る事で、確かに母に愛されていた事を思い出し、母を”赦す”切ない物語である。>
ちょっとむずかしい
いろいろ考えさせられる
自分に置き換えたとき 果たして菅田将暉のようにできるのか
辛い記憶が勝るのは当然 その中に思い出があったとしても もう一度みてみようおもう また違う感情になるとおもう
認知症って…居心地わるい
認知症を体験しているかの様な
何とも居心地がわるかった
周りを暈してピントがズレた感覚
何度も同じことを繰り返す映像
感情が入っていく時に
バッサっと場面が変わって
感情の行き場が失くなる
もっと落ちついた気持ちで観たかった
湖面に写る
…半分の花火はとっても綺麗
湖面に写るので大輪の花火に見えた
余談…息子夫婦が会いに来て帰る場面
バス停で母が息子を抱きしめる
シーンは感動
認知症の母は記憶の薄いなかで
息子の小さかった頃の
…泉をさがして
また息子、泉は認知症になった
…母をさがして
さがしたふたりの思い出は
ビルで半分しか見えない
…半分の花火だった
半分の花火
満開の桜舞い散る春に、家族だけで見送った母を思い出しました。
年月の流れとともにすっかり曖昧になってしまった母との思い出…それが鑑賞3日目あたり、胸の奥に仕舞い込んでいた箱から次から次へと飛び出してきて戸惑っています。
きっと本作が記憶の箱を開ける鍵になったのかもしれません。
本作は私にとってまさに「見るべき映画」でした。
菅田将暉さんと原田美枝子さんという最高の組み合わせ。
親子役が本当に素晴らしかった。それにとても難役でしたね。
小説家としての川村元気さんが好きで作品は必ず読んでいますが、いよいよ映画監督デビューということで長澤まさみさんはじめ今村撮影監督など、最強のキャストとスタッフが名を連ねていました。
生きていれば間違いや後悔もある。楽しかった記憶より辛かった記憶の方が痛烈で心に刻まれがちですが…
一番最期に何をもって逝きたいか?
何を大切な人に遺したいか?
…そう問われた気がしました。
親子が愛を取り戻す美しい物語。
大スクリーンでぜひぜひ。
おまけ
Netflix配信中の原田美枝子さん製作の短編も鑑賞しました。
全57件中、41~57件目を表示