百花のレビュー・感想・評価
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自分の母親と重ねて。「記憶」とは?
母親が認知症を患っているため辛い場面が多かったが、薬も含め対処方法のない病気であるため、誰もがなりうるし、誰もが介護しないといけなくなる可能性がある、本当に考えさせられる問題だと思う。
そんな中、この映画では、突然「息子」のことが分からなくなる怖さなどを表現しつつも、以下が印象的だった。
・「忘れる」ということは、人間らしい行為であること (AIをメタファーとして)
・「記憶」とは? (半分の花火を認知症の母親のほうだけが覚えていた。)
最後に半分の花火を一緒に見れたことは本当に良かった。
認知症の人は、たとえば目の前にいる人が誰なのかわからなくても、その人が自分にとって
大事な人であることは分かるそうな。忘れてない。記憶はやっぱりそこにある。
最後のピアノを弾いたあとの場面、息子を見たときの表情。自身の母親と重なりました...。
良い話でも無く、悪い話でも無く
この映画を見て思ったのは現実はきっとこんなものなんだろうなと言う事。
私の中のこの映画の印象は母百合子が「あの子は私を許してくれないでしょうね、でも後悔はしてないの」この台詞、これがこの映画の全てだと感じました。
決して良い話でも無く、感動的な話でも無く、とても人間臭い話だなと言う事。
ただ、映画として見るには面白味に欠けた話だとも感じてしまう印象です。
原作がもう少し泉の父の話や、百合子がなぜ子供の元に戻ったかなどが詳しく書いてある事を祈りつつ読んでみようと思います。
原作読んでから…
鑑賞したらよかったかなぁ。
もっとお涙頂戴作品かと思ってたけど決してそうではなくて、それはすごい良かったんやけど
修復し難い関係があったからこそ、もっと親子の「それまで」を描いて欲しかったかなぁ。
菅田くんも原田さんもまさみちゃんもすごく良かった!ついでに(?)永瀬くんも!
どこに焦点を当てたかったのか不明瞭。
他で見たい作品とそのあと少し時間あったので見てもいいかな、という消極的選択で鑑賞。
小学生低学年の頃、母子家庭にもかかわらず、男と駆け落ちして1年間子ども一人置いて出ていったことがトラウマとなり、母息子の関係はぎくしゃくしているものの、大人になり結婚・妊娠の段階になり、献身的に世話をしている。
その母親が認知症になり、いろいろなことを忘れていくという話。
母親が駆け落ちした若いころ(阪神淡路大震災の頃)と現代、現代も会社・夫婦関係・認知症のことが挿入されて、どのシーンも中途半端な感じで次、次と進んでいく印象が否めない。
原田美枝子の若いころと皺しわなころのシーンの使い分け、特に若いころのシーンが思いのほか多く、感情移入できずうまく化粧!?してるなーなんて思いながら見てしまった。
シングルマザーなのに駆け落ちして、大地震をきっかけにまた息子のところに戻り、という設定がそもそも感情移入できない。ただの身勝手な母親に振り回され、心優しい息子がそれを乗り越えて認知症の母を面倒みるという同情とも言えるストーリーは興ざめでしかなかった。
でも。
菅田将暉と原田美枝子の演技は素晴らしく、脚本が悪いだけにもったいない。
『世界から猫が消えたなら』の原作や『君の名は。』などのプロデューサ...
『世界から猫が消えたなら』の原作や『君の名は。』などのプロデューサー・川村元気の初監督作品。
原作は自身の手によるが、脚本は平瀬謙太朗と共同(平瀬がトップなので、彼に書かせた脚本に手を入れたのかしらん)。
また、製作・プロデューサー陣は別、という体制。
横浜の自宅でピアノ教室をしながら一人で暮らす初老の百合子(原田美枝子)。
ここのところ記憶が混濁していることがあるのだが、本人に自覚はない。
離れて暮らす一人息子の泉(菅田将暉)がときどき百合子のもとへ帰ってくるが、大晦日の夜、戻ってきたところ百合子の姿が見えない。
外は雨。
近くの公園のブランコに乗った百合子が言うには、「買い物の出かけたのだけで、ちょっとわからなくなってしまった・・・」
といったところからはじまる物語で、若年性認知症を患った母親と息子の、親子の絆を描いた感動作を期待するところだろう。
が、オープニングのワンショットで「それは違うな」と気づく。
ひとりピアノを弾く百合子、物音が気になり玄関の方へ行ってみるが誰もいない、振り返るとピアノを弾く自分の姿が見える、というのをワンショット(のようにみえる手法)で撮っている。
記憶の混濁を表しているいるのだが、その感触は「感動」よりも「不安」「不思議」を感じさせる。
この感触はSF映画に近い感触で、『惑星ソラリス』やフィリップ・K・ディックの諸作品を想起しました。
つづく泉の百合子捜索のシーンもワンショットにみえるように撮っており、息子・泉の現実世界も百合子の混濁記憶の現実世界もシームレス、一連の地続きというアプローチ。
なかなかの仕掛け、演出の意図がうかがえます。
記憶混濁の進んだ百合子は、浅羽という男性の幻影をスーパーマッケットで見、後を追って店外へ出てしまったことから万引き事件へと発展し、検査の結果、若年性認知症であることが判明する。
その間、百合子と泉が想起する記憶の断片が物語に短く挿入され、泉は小学生ぐらいのときに百合子に取り残されてしまったことがわかります。
百合子を施設に入居させたあと、自宅の整理をしていた泉は、6パック以上も買われた卵のパックや、3つも4つもあるケチャップを発見して居たたまれない気持ちになるのだが、百合子のベッドの下から25年ほど昔の百合子の日記を発見し、百合子が泉を棄てて出奔したときの気持ちを知ってしまう。
妻子ある男性・浅羽(永瀬正敏)と不倫関係になった百合子は、自身の女性としての感情を抑えきれず、転勤になった浅羽の後を追って神戸へと向かい、ささやかな蜜月関係を築く。
が、阪神淡路大震災により浅羽は死に、ひとりとなった百合子は横浜へ戻ってきたのであった。
と、このエピソードが長く、かつ話法的に乱れてしまっているので、映画の後半が活きてこなくなったように感じました。
エピソードが長くなったことで、観客の百合子への感情は悪化し、「母親と息子の絆を描いた感動作」を期待した観客からはそっぽを向かれる。
話法の乱れは次のとおりで、百合子と浅羽の物語は、泉が読む日記の内容の映像化として登場し、「記憶」の映像化ではない。
が、大震災でひとり彷徨う百合子の映像からは、施設で過ごす百合子の「記憶」につながっていく。
これにより、「記憶にまつわるSF映画的なもの」を期待している観客も、記憶なのか記録(日記、または事実)なのかと混乱してしまう。
ということで、百合子と浅羽のエピソードの長い尺は、いい方向には働いていない。
このエピソードの乱れが、後半、もっとよくなる要素を殺ぎ落とした感があります。
後半は3つのエピソードが展開されます。
ひとつは、泉が携わっているAIヴォーカロイド・KOE(コエ)のエピソード。
もうひとつは、泉の妻(長澤まさみ)の出産のエピソード。
最後に、もっとも尺が割かれる、百合子が頻りに見たがる「半分の花火」のエピソード。
ヴォーカロイドのエピソードは、記憶/記録することと忘れることの対比が描かれ、記憶/記録するだけでは「人間らしさ」に欠けるというディック的エピソードで、個人的にはこの部分をもう少しふくらませて描いてほしかった。
この部分を膨らませることで、「半分の花火」のエピソードも、もっと活きたように感じました。
ふたつめの出産のエピソードは、短くさらりと描かれ、「母と息子の感動作」を期待した観客には、終幕の「半分の花火」のエピソードへ向かって、感動を積み重ねていってほしいところだったが、物語の流れとしてつながっているように感じられなかったように思います。
さて最後の「半分の花火」のエピソードなのですが、ミスリードを挟んでの謎解き(納得感のある)要素なのですが、伏線がうまくなく、「なるほど」感を醸成できていないのが惜しいです。
たしかに前半、泉と妻が百合子の暮らす旧宅に向かうシーンで、あの建物を写しているのですが、旧宅との関係がわからない。
なので、なるほど感が少なくなってしまう。
さらに、百合子と泉が憶えていたことが、それぞれで異なっていることがわかりますが、ヴォーカロイドエピソードが短いため、記憶と忘却の対比が乏しく感じられます。
また、百合子が記憶していたことは、泉との楽しい時間・事柄であったけれども、泉が記憶していたことは母に棄てられた悲しい記憶が主で、楽しかった時間・事柄については誤って記憶していたことがわかります。
と、この終盤は盛りだくさん。
盛りだくさんの内容が少々さばき切れなかった感がありますね。
なお、最後、縁側で百合子と泉が縁側に並んで「半分の花火」を観るショット、個人的にはなぜか『東京物語』をふと思い出しました。
ということで、「残念」なところばかりを書き連ねましたが、一連の川村元気企画・プロデュース作品の押しつけがましさがなく、作家性が出た感じがして好感が持てた作品でした。
切ない…けど、考えたいこと。
画面の世界で記憶を増やし能力を増すAIに関わる仕事をしている泉。
一方、実家にいけば
目の前にいる母はだんだんと記憶をなくし、会話や、家事に支障が目立ちはじめ1人暮らしが心配な状況になっている。
この二つの真逆とも言える状況がまず重くのしかかってきた。
それだけでなく、
冒頭あたりから母子でいても、夫婦でいても、泉は家族関係にどこか諦めたようなドライな空気を持ってるなと思った。
それは幼少期の心の傷跡。
母が自分をおいていなくなったことの癒えない傷の深さがつくる影だったのだろうとあとでわかる。
だから、
母から母が失われていく姿を感じるのは、
自分の感情を始末できないままの自分でいる焦りとして
跳ね返り爆発したのだ。
海辺で母に叫んでしまう泉。
しかし、
目の前の息子に叫ばれた母は母でありながら昔の母ではないのだ。
ふたりに漂う質の違うやるせなさ。
暗い波の色が現実を物語る。
その後、施設に入ることになった母の荷物の片付けで
泉はたくさんの覚書きのメモ、大切にとってあった男からの贈り物、母のその頃の本心がかかれていただろう手帳をみつけながら、かつてを思い出す。
母と行った魚釣り、一輪挿しの花瓶、一輪の花、ビスケット…
そして最後に
昔の家の縁側から建物のむこうにみえた半分の花火をみる。
これこそ、
母の消えゆく記憶の中で大切にしてた泉とみた花火だ。
ようやくそれを思い出したとき
傍の母の焦点定まらず発する言葉もない横顔。
そこにいるのに、同じ時空にいない淋しさ。
けれど、母の認知症をきっかけにして
泉がようやくその愛の断片を寄せ集めれたのも事実。
つなぎあわせたそれを胸にしまって父となった自分を今から生きていく。
きっと、泉はここから
母や家族に対して本当の意味で優しくなれるんではないだろうか。
…というほのかに期待できる余韻があった。
認知症があらわれはじめた家族が頭によぎり続け、私には現実的でせつない鑑賞時間でした。
小さな子を残して出て行く母の行動に
賛同は全くありませんが
親であれ、子であれ まわりの人は
AIではない生身の人間。
尊重して向き合うこと、についてしばらく考えています。
(修正、追加あり)
母と息子の物語
冒頭から息子と母に妙な空気が漂ってる。
息子が母を少し拒絶してるように感じる。
これは息子だし、離れて暮らしてるから違和感がなかったんだけど、認知症の母の症状が進むにつれて、小学生だった頃の息子との記憶が回想として現れてくる。
大雨の日、走りながら母を探す息子と授業参観で「走れメロス」を読み上げる息子がリンクしたり、なにげなくスーパーに登場した幻覚の少女たちが後の母の若い頃に出てきたり、とても作り方が好み。
前情報なしで観たんですが、母は息子が小学生の頃、1年くらい息子を捨てて、男の人と暮らしている。冒頭の違和感はここに繋がっていく。
その時の傷は深く、それを忘れていく母
その思いが切なく悲しくて強く当たってしまうが、ラストシーンの「半分の花火」を観る2人は自分も記憶の中で忘れていたことを思い出す。
想像をしていた映画と違っていたが
引き込まれていく映画だったので、最後まで飽きることなく鑑賞できた。
菅田将暉さんの俯いたときのまつ毛や、母のメモを見ながら涙するシーンは印象深い。
またおおらかで優しい嫁を贅沢に長澤まさみさんが演じてらっしゃった。
そして、疑問ばかりが残る映画だった。
予告と長澤まさみさんに惹かれて映画鑑賞。
とりあえず全体的な照明も内容も暗かった。内容はだいたい分かったが、共感は出来なかった。
男を選んで1年失踪、泉の大切さに気づいて震災後戻ってきたはいいが泉を昔の男を間違えて縋ってきたり、幻覚で追っかけたら窃盗になったり(アルツハイマー型認知症によるもの)、そのあげく泉の奥さんに「泉は恨んでいるでしょうね。後悔はしていない。」というセリフ。息子のことを本当に大切に思っているのだろうか?それは愛なのか?
ただ単に泉が記憶を取り戻し自分を捨てた母親に対する未練で前に進めない物語にしか感じ取れなかった。
男との場面をもっと短くして、もっと泉とお母さんの昔のいい物語などを上手く描いて欲しかった、、
わたしはすべてを覚えているのか。
認知症の母と息子の現在の関係を、過去のわだかまりや未来に生まれる息子の子ども、過去や未来に繋げつつ静かに丁寧に描く。
全体的に暗いし、淡々としていてそれほど盛り上がりもない。母が男と逃げていた期間がとても長く描かれているのだが、あんな小さな子を置き去りにして行ったところにどうしても共感ができないし、戻った後の親子関係をもっと描いてほしかった気もする。
しかし印象的な台詞がところどころあった。職場の後輩の(認知症のイズミの母の話の後で)「俺たちだって大したこと覚えてないじゃないっすか」とか、イズミの妻の「親だからっていつも正しいわけじゃない。わたしだっていつか投げ出したくなることがあるかもしれない」などの台詞にはハッとさせられた。そして認知症に関わらず人と人とを結ぶ記憶に思いを馳せた。
そして縁側で「半分の花火」の謎が解けた時、その謎自体はそれほど大したことではないが「認知症の母が覚えていても、健常の自分が覚えていないこともある、親を憎んではきたが、かけてもらっていた愛情のことも自分は覚えていなかった」ということ、その誰しも思い当たることがあるはずな事実を思い知らされて涙が溢れた。
原田美枝子さんの認知症の人独特の表情のない感じや、菅田くんの感情を抑えた常に何か思いを抱えているような表情はとても上手かった。
花火がとても綺麗
役者さんの名演技と花火シーンの美しさで救われました。
自分の思っていた内容とは少し違ってました。
もっと深いヒューマンドラマを想像していました。
消化不良気味な感情を抑えて劇場を後にしました。
ちゃんとリサーチしてから観に来なかった自分が悪かった。
でも、予告編は良かったんだよなぁ。
ひとつ腑に落ちたのは
「忘れること」が人間らしいということ。
これは納得できました。
そして、この映画をわざわざ劇場に観に行ってしまったこと。
自分は忘れてしまうでしょう。
良き作品かもしれませんが
自分には合わなかった。
まるで記憶の森に迷い込んでしまったかのような錯覚に囚われる純映画的な語り口の傑作
この映画はファーストカットから素晴らしかった。
テーブルの上に置かれた枯れた花がさしてある一輪挿しの花瓶。
この時点で何とも言えない不吉な予感を観客に感じせてくる。
一輪挿しからカメラが動くと、部屋でピアノを弾いている母親役の原田美枝子を映し出す。
しばらくピアノを弾いている姿を映したあとにカメラが動くと、なんと部屋でピアノを弾いていたはずの原田美枝子が玄関から家に戻ってくる姿が映し出される。
そしてそのまま原田美枝子が台所に移動してふとピアノのある部屋を見つめると、別の原田美枝子がピアノ弾いていて‥‥みたいな感じで初っ端から現実感覚がクラクラするようなシーンを畳み掛けてくる。
しかもこのシーンが素晴らしいのが、最初は安定していたピアノの旋律が、記憶の連続性が曖昧になっていくのと連動して、だんだんと乱れが生じてくるところだ。
この時点でだいぶ足元がぐらつくようなクラクラする感覚に襲われましたが、他にも絶対に映画でしか表現できないような純映画的な語り口のシーンがたくさんありました。
例えば、原田美枝子がスーパーで買い物をするシーン。
このシーンも最初のシーンと同様に記憶の連続性が曖昧になって、どこまでが現実でどこからが記憶なのか非常に不安定なシークエンスが展開されていきます。
このシーンでは、子どもが脇を駆け抜けていくという印象的な出来事を入れることで、明らかに記憶のループが発生していることを分かりやすく表現していて素晴らしかったです。
他にも、アパートの階段を登っていって部屋に入ると学校の授業参観の記憶に繋がっていくシーンとか、菅田将暉が冷蔵庫を開けると過去の自分がお腹を空かせて冷蔵庫を開ける場面に繋がるシーンとか、とにかく現実と過去の記憶をシームレスに繋げる仕掛けが上手すぎて驚きました。
語られている話自体は正直そこまで大したことのない話だと思いましたが、演出・撮影・編集・脚本・演技・音楽のクオリティーが高過ぎて一級品の芸術作品に昇華していたように感じます。
あれだけ王道エンタメ作品を多く世に送り出してきたプロデューサーが、まさか自分の監督作品でこれほどストイックな芸術作品を作ってくるとは思いませんでした。
あと、劇中で使用されるバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻BWV846ハ長調が同じフレーズのリフレインなのも物語のテーマを象徴していてととも良かったです。
マーザー
あまり期待はせずに鑑賞。この感じの邦画はあまりハマらないものが多いので。
まぁ案の定、というか予想以上に映画として面白くない作品でした。
個人的に今作との比較対象は昨年公開された「ファーザー」が近いなと思いました。両作品とも親が認知症になり、ファーザーでは認知症になった父親の視点から、「百花」では認知症になった母親を見守る息子の視点から展開されていきます。面白さや怖さで言えば圧倒的「ファーザー」でしたが。
良かった点
・映像が美しい
とにかく人物を映す際の映像が綺麗です。絞った人物のみにフォーカスを当てて映像にしているので、映像に集中してみるととても感動できます。ただ、この映像の美しさには違う問題が付き纏っていました。あと服装や装飾品の色へのこだわりがいいなと思いました。明るい色と暗い色でしっかり対比を演出しており、人に寄り添っていくごとに色が明るくなっていくというのも良い味を出していました。
悪かった点
・とにかく面白くない
内容が薄いです。認知症の母親に振り回される息子の話ではあるんですが、とにかくバックボーンが語られないのが問題です。母親はなぜ子供を置いて男と駆け落ちしたのか、実の父親はどうしているのか、駆け落ちしている間に泉はどう過ごしていたのか、AIシンガーの意味合いとは、震災がなかったら帰ってこなかったのか…。とにかく解決されずにほっぽってる状態のまま終わったので、上映時間104分の割に長く感じてしまいました。
認知症もといアルツハイマーと謳いつつも、行動の繰り返しを見せられており、認知症啓発のための映像を良い映像で見せられているように思いました。認知症の人は決して悪いとは思っておらず、周りもそれは分かっているのですが、やはり第三者の視点から観ると嫌悪感を抱いてしまうシーンが多かったです。謝るよりも先に自身の思いを並べて浸る、この様子が個人的にキツかったです。実際に体験していないというのもありますが、実際に周りの人がこのような感じになったら気を病むだろうなとも思いました。
・俳優の無駄遣い
菅田くんと原田さんは主演という事もあり、悲哀に暮れる演技が光っていました。ただ、周りの登場人物にフォーカスが当たっていないのが気になりました。長澤まさみさん演じる泉の妻はどうにもキャラが薄く、長澤さんの存在感が大きいだけにミスマッチな役柄だったなと思いましたし、河合優実さんや岡山天音さんをモブ扱いしていたのが個人的には許せなかったです。モブといってもしっかり役は与えるべきですし、天音くんに至っては殆ど顔が映ってなかったのも違和感だらけでした。
年間を通してのワースト候補まではいきませんが、ここ最近の邦画でも面白くなかった部類です。しっかりエンタメとしての面白さも重視してほしかったなと思いました。
鑑賞日 9/13
鑑賞時間 10:40〜12:35
座席 N-27
原作の大ファン
お母さんのアルツハイマーといづみの幼少期の記憶の勝負
お母さんの失敗といづみの責める気持ちの葛藤
お母さんのいづみへの想いといづみのお母さんへの想いの対比
お母さんの演技最高でした
あの半分の花火は1番きれいだよね
冗長なドキュメンタリー
期待して観に行ったけど、正直全然ダメだった。
いちいちテンポが悪い。
これは俳優ではなくて演出の問題だと思う。
セリフの無い時間が埋まってない。
そもそも脚本も何をしたいのか分からない。
なぜ母親の男との逃避行をあんなにしつこく生々しく描くんだろう。
息子をほったらかしで出て行った理由、息子の元に帰ることにした理由。そこらへんをちゃんと説明してくれないと、母親の心情について行けない。
すごく自分勝手な母親に見えた。
実話の部分なのかもしれないけど、阪神淡路大震災がいきなり挿入されるのも違和感があった。
つかみどころがない
映画を観た人の心に残すものとして何を伝えたいのかがよく分からなかった。過去に一度捨てられた子どもの心の奥底に母を憎んでいる感情が残っているところまでは分かる。でもなぜ母が息子を捨ててまで男と逃げたのか?それほど自由奔放な人間だったのかが中途半端でよく分からなかった。もう少し母側の心の奥底に潜む心情を表すシーンがあっても良かったんじゃないだろうか。
ビジュアルに頼りすぎでは?骨細なニュアンス作品
色々と不思議なところ違和感とがありました
期待を全く超えてこなかった感は否めない。嫌な予感はしたのですが
軸となる人物がいるようで居なくて作品に没入し難い。脚本頑張れ
現実と幻覚と記憶を行き来して、中盤の日記の中で答え合わせしてくる。記憶の中で母と息子が軸となればもう少し読み取れたが、第三者の比重が大きいと混乱してしまいます。KOEと関連付けようとする意図もわかるが、導入が唐突すぎて、また混乱。脚本見直す人いなかったのでしょうか
結論。
どこに重点を置いてみるかでかなり意見が分かれる作品だと思いました。認知症の母の視点、息子の記憶と現実、昔の母の記憶、母の不倫から別れまで、息子への愛情、記憶の話、など。
現在のシーンはほとんどが良く、冒頭からワンカット(撮影と編集は上手い)繋ぎで不思議な感覚に陥り、期待が高まる。一輪挿しとピアノがキーになりますの提示。
回想シーン、過去の部分はかなり気味が悪い
見ていて本当にきついです。とにかくCGのクオリティーどうなってるのですか?日本映画の予算の問題ですか?光の使い方、顔の修正、肌の質感、空の色、アングル
KOEのビジュアルくらい違和感、わざと?
全体的に良し悪しの差が出過ぎているし、バランスが悪いのかもしれません。
俳優さんの演出、演技、監督が引き出せてない気がしました。
菅田くん大変だったろうなー
鑑賞後、率直な感想は、体感的に2時間30分。
なぜだ?とてもとても長く感じました。能動的に見ていたつもりでしたがある部分からかなり気が散ります。神戸でのCG満載のシーンからです、はい。
記憶に残ったところ
半分の花火が見たいと言った母と別れ帰りのバスの車中で妊娠がわかった時の心境を吐露したところ。誰しもが勝手でまず自分のことを考える、人にはそんな部分があって当然だと
幼少期の様子がフラッシュバックでしか描かれないところ。
ピアノの音によって様々な意識がつながるところ
半分の花火。秘めた部分、想像を掻き立てるくらいが、全部見えない方が美しいという記憶に残る 人間も同じ
釣りと誕生日の黄色い花、ピアノを隣で弾く記憶
これらが、母が出ていった前なのか後なのかがわからなすぎる
時間軸が雑
男を追って出ていった母親。その感情によって寂しい思いを強いられてきた事実。異様なまでに母からのスキンシップを嫌う、女性への不信感を含む深い溝
人間は忘れる生き物であり、それくらいがちょうど良いのかもしれない。けど、忘れていたはずの記憶がふとしたきっかけで突然蘇ったり、忘れたいことは頭から離れなかったり、美化して覚えていることも、、
ワンカットで撮影された映像の編集技術がすごかった。こちらが迷子になっていく感覚をも味わえた。黄色い花 一輪挿し
施設でのピアノ演奏、アップの表情
母が出ていった、知らない間の記憶を回想するシーンが、見つけたノートを読んでの息子の頭の中だからなのか、CG感、トーンがどうしても違和感で全く頭に入ってこなかった。語りで見せてもよかったのでは?今や認知症になった母にはあの頃の心境、状況など直接聞くことなどできないのだからしょうがないのか?地震のシーンは必要だったのだろうか?何か後半に繋がってくるとよかったのかなと思いました。CG部分の大半は母の記憶の中であり息子の想像でもある。ぬめり感、幸せでもあり悲しい記憶でもある時間をある意味違和感を与えて作られていたのだろうか。
ほかは、現実シーンのカメラワーク、撮影、質感とても好みでした。音もいいですね。
川村さんが関わる他の作品にも言えることですが人物描写が薄い。感情移入する人は1人としていなかった。かなり冷静に作品から引いて鑑賞してしまったという現実。
今のところさっと書き出しまとめると以上です。
適材適所って、あると思うのです。
東宝さんどんまい。
邦画界を牽引する東宝Pのアート作品
東宝で大ヒットを連発している
川村元気プロデューサーが監督した作品は
意外にも?キャスティング以外は
商業臭が全くしませんでした。
力のある主演二人の芝居に加え
カットを割らない手法や
照明を感じさせない画作りに引き込まれるも
肝心の脚本にそこまで共感できず。
敢えて本作を邦画界を牽引する
東宝のプロデューサーが監督する真意は?
自分には解りませんが、
自分も含め解りやすい娯楽に慣れ
想像力や思考力が激しく衰え続ける中
この不親切さは、ある意味
観客を信じているとも感じました。
語り過ぎない本作には勝手に想像する余白が
多く残されているとも言えます。
(脳にタンパク質が溜まる等の
医学的な事実は一旦置いときますが)
例えば、原田美枝子演じる百合子の
若年性アルツハイマーの原因は
自分が犯してしまった息子への罪の意識から
自ら記憶に蓋をする為では…等。
そんな勝手な想像もさせてくれる懐の深さを
本作には感じました。
全ての人間が正しく生きられる訳ではないし
人にはどうしても忘れたい過去もあります。
都合の良過ぎる劇的なラストは
用意されていませんが
自分の記憶のように泉の記憶が
劇場を後にした今も脳裏に焼き付いています。
半分の花火
母親の生き方(息子を一度捨てた)に嫌悪感を持ってしまいあまり感動できませんでした。
苦しみながらも献身的に母親の面倒をみる泉が切なかったです。
タイトル「百花」より「半分の花火」のほうがよくないですか?
百花
•ストーリーはあまり盛り上がりがなく、淡々と進んでいく。また、観終わった後には解放感というよりも渋さと虚しさが残る。これも一つの「リアリティー」なのかもしれない。
•私も母子家庭で育った者であり、作中と同じような環境で育って来たので感情移入する部分も多かった。しかし、将来この親子のようになってしまうのではないかという不安や恐怖も入り交じり、少し拒絶してしまう部分もあった。この映画の評価も年齢や世代によりそうではある。
•作中では「半分の花火」という言葉が鍵を握る。
この言葉の本当の意味はラストシーンで理解することができる。この理解を通じて、認知症が進行し、母自身に残る記憶が薄れていく中でも、決して色褪せることのない息子との「思い出」と彼への「愛」を感じることができる。
菅田将暉と原田美枝子の名演技
青年・葛西泉(菅田将暉)と、ピアノ教室を営む母・百合子(原田美枝子)の間には、泉が小さい時に百合子が妻子ある大学教授と不倫し家出した事件により、埋まらぬ溝が出来ていた。そんなある日、百合子が認知症を発症し、症状はだんだんと悪化し、ピアノの弾き方や泉の妻・香織(長澤まさみ)の名前さえも分からなくなってしまった。泉は母を支えていたある日、百合子の部屋で1冊のノートを発見した。そこには、あの事件の真相が書かれていた。という話。
菅田将暉と原田美枝子の名演技を堪能する作品だと思う。
原田美枝子の若い時のメイクと歳を取って認知症になり老けたメイクの差に驚くべきものが有った。還暦過ぎた女優が30代の可愛い女性にみえたから凄くて驚いた。
長澤まさみ、永瀬正敏は今回は助演として必要な役所として、でしゃばり過ぎずで悪くなかった。
親がそれなりの歳で認知症になるかもという年代の子には身につまされるものがある。
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