「【否定派こそ読んで】少年も大人も楽しめる大傑作!!!!」ONE PIECE FILM RED YKさんの映画レビュー(感想・評価)
【否定派こそ読んで】少年も大人も楽しめる大傑作!!!!
今作はめちゃくちゃ評価が割れているわけですが、それは当然で、このウタというキャラクター(いきなり出てきたシャンクスの娘兼ルフィの幼馴染兼世界の歌姫)を好きになれるかどうかに全てが掛かっており、かつこのウタが明らかにクセの強い、万人受けは決してしないキャラクターに仕上がっているためです。しかもこのウタという少女は、「ワンピース」という作品のオリジンに関わる存在でありながら、同時にそれを否定する立ち位置にいるのですね。
ただ、これは悪いことばかりではなく、「ワンピース」という長寿漫画の劇場作品としては、かなり正解ではないかと思います。前作の「スタンピード」が集大成だとするなら、今作はオリジンです。極端な話、ワンピースの原作をちゃんと追ってない人でも、最初の数話だけ読んでいれば(つまりルフィという少年がシャンクスという男に憧れて海賊王になるために海に出るということさえ知っていれば)理解できるようになっている。長寿作品というのはどうしても途中で離脱してしまう人が少なくないわけですが、そういう人たちでも「お、シャンクスなら知ってるぞ」となって、「じゃあ見てみるか」となる。これはオリジンものの強みでしょう。今作が賛否両論でありながら、興行収入がずば抜けているのも、そうしたことが理由の一つにあるんじゃないかと思います。
とはいえ、FILM REDは単なるオリジンではなく、それを反転させながら、揺さぶるような作品でもある。だから、冒頭からいきなり「大海賊時代」の否定が始まるのですね。はっきり言って、かなり変な映画です。かつ、あんまりワンピースっぽくない。理由は色々ありますが、一番はルフィの描かれ方だと思います。
「少年」としてのルフィ
ワンピースという作品の核は何か?と問いへの答えは色々あるでしょうが、個人的には「ルフィが敵をぶっ飛ばすこと」だと思っています。ひどい敵が出てきて、ひどいことをして、ひどいこと言う。そうやってフラストレーションを溜めて溜めて、溜まりきったところでルフィが一発ぶちかます瞬間のカタルシス。(その意味で、ドラム王国編でワポルにパンチが当たる直前に回想シーンが挿入されるのは非常に優れた演出だと思います)。海賊の戦いというのは信念のぶつかり合いなので、ルフィが敵をぶっ飛ばすというのは、要するに相手の信念を打ち破り、自分の信念を貫くことを意味しています。(なので、ルッチ戦然り、シキ戦然り、ルフィの戦いは全体の戦局とはあまり関係ないことも多いです)。
そこで、今回のウタ名台詞No.1「当てる気もないくせに」です。
今作は最後まで、ルフィの「殴れなさ」に焦点を当てています。なので、最後のトットムジカ戦(物語を収拾するためのデウス・エクス・マキナ)以外、ルフィの見せ場はあまりない。尺の大半は、バリアの中でゲロ吐きそうな顔してます。戦闘シーンで言えばサンジとかゾロの方が多いでしょう。
基本的に、ルフィは相手が誰であっても「殴れる」男です。ウソップだろうがガープだろうが、改心?したベラミーだろうが、信念がぶつかるのであればルフィは殴れる。空島前のベラミーだったり、あるいはWCI編でのサンジだったり、信念のために「あえて殴らない」ことはあっても、「殴れない」ことはないのです。
ところが、今作のルフィは明らかにウタを「殴れない」男として描かれています。全力で足を振り上げたルフィが、それでもウタと戦うことができずに地面を虚しく蹴りつけるシーンは最高です。最初の方こそ「争う理由がねえ」と言っていたルフィですが、ここにおいてはもはやウタを「殴らない」のではなく「殴れない」のだとはっきり描かれています。(シャンクスの帽子を破られてなお、怒りではなく哀しみの表情を浮かべるのもその証ですね)。もちろん、ルフィの見せ場がないと映画として成立しないので、そのためにトットムジカ戦が用意されているわけですが、物語としての力点は明らかに「ウタを殴れない」ことに置かれており(なので、トットムジカを倒しても結局事態は解決しない)、このことがFILM REDという作品を特殊なものにしています。(あのオマツリ男爵でさえ、最後に決着をつけたのはルフィの一撃だったので……)。
ルフィ自身は別れ際でウタに「どうして殴らなかったの、あたしのこと」と問われ、「俺のパンチはピストルより強い」からだと答えています。まあ、それはそうなんですが、あの時点で既にここが現実でないことはわかっているわけですから、いくら自分が強くてもウタが傷つかないことくらい理解しているはずで、あのルフィの答えはウタの言う通り「負け惜しみ」なのだと思います。
ルフィが殴れなかった理由は色々考えられるのですが、個人的に大きいと思っているのは、今作の大半において、彼が麦わら帽子をかぶっていないということです。物語の序盤でウタに奪われて以降、シャンクスの帽子はラストシーンまでルフィの元に戻ってきません。今作のルフィはその意味で、「麦わらのルフィ」ではなく「フーシャ村の少年ルフィ」なのです。(原作でも、頂上戦争後に「麦わらのルフィは休業だ」と言って帽子を置く描写がありますね)。麦わら海賊団の船長としてのルフィではなく、その中にある一番柔らかな部分、かつて少年だった存在としてのルフィを描いたこと。それが、FILM REDという作品の大きな達成だと思います。
「麦わらのルフィ」は海賊団の船長という立場にある強い男です。でも、「フーシャ村の少年ルフィ」は違う。過去編を読むとわかるのですが、ルフィは元々寂しがり屋な末っ子キャラなのですね。エースもサボもウタもみんなルフィより年上です。自分より年上の大人たちに可愛がられたり、反抗したりしているシーンは多いですが、自分より年下の子供を引っ張っている描写はほとんどありません。(その点、年下のガキンチョ相手にイキっていたウソップとは対照的です)。
海賊「麦わらのルフィ」であれば、相手が誰であっても殴れます。そこに信念のぶつかり合いがあるならば。でも、「フーシャ村のルフィ」は違う。それは彼の中にある弱さですが、頂上戦争の時に実感したような弱さ(どれだけ力を振り絞っても大切なものに手が届かない無力感)とは、また別のもの。たとえ信念がぶつかり合っても、戦わなければいけなくても、それでも殴ることができない。そういう「少年」としての弱さなのです。
幼馴染とは、大人になったはずの青年を少年へと引き戻す存在です。映画の冒頭でルフィはウタのことをすっかり忘れていますが、徐々に思い出し、積み重なったその思い出が、彼の中に眠っていた「少年」を蘇らせていきます。FILM REDは「フーシャ村の少年ルフィ」がもう一度麦わら帽子を託されるまでの物語でもあり、その意味でルフィという青年のオリジン映画なのです。
ウタの響く場所
再びウタの話。彼女の歌の話です。
ウタは2つの世界の狭間に生きる存在として描かれています。一つはルフィたちが生きる現実の世界。もう一つは自身の内側に広がる空想の世界です。空想に興味がないルフィと対照的に、ウタは夢の世界を重んじて生きています。
それを補強するのがウタウタの実の存在で、彼女はこの実を食べた能力者であると説明されています。これは要するに、歌によって生まれた自分の空想世界に他人を連れ込むことができる能力です。ウタワールドにおけるウタは神に等しい存在であり、どんなことでも実現できます。(私は最強!)
問題はこの力が彼女にとって呪いでもある、ということです。
ウタの歌を聴いた人間は全員眠りに落ち、ウタワールドへ連れていかれる。これはつまり、誰も現実にはウタの歌を聴くことが出来ないことを意味しています。現実で歌っているウタは常にたった1人の孤独な存在なのです。(ウタウタの実の能力には疑問も多く、彼女がこの能力をオフにした状態で歌えるのかどうかは明らかにされていません。ただ、ルフィの回想でもみんなが寝てしまっていること、普段の配信ライブでもウタが激しく体力を消耗していることから、おそらくほとんどのケースでウタウタの能力は発動しているのだと思われます)。歌姫ウタは歌を通じてしかみんなと繋がれないのですが、けれど歌っている限り、現実のウタは常に孤独のままなのです。
彼女が現実と同じくらい夢の世界=ウタワールドを重んじる理由の一つはこれでしょう。ウタという少女が自分の歌をみんなに聴いてもらえるのは、現実の世界ではなくウタワールドの中だけ。ウタの歌は、夢の世界にしか響きません。そしてウタが眠りに落ちるとき(つまり夢の世界にいくとき)、能力は解除され、ウタワールドは消えてしまいます。ウタは決して、みんなと同じ場所にはいられないのです。ウタウタの実の設定には、こうした残酷なすれ違いが仕込まれています。
非常に危うい力を持ったウタという少女が、それでも辛うじてバランスを保てていたのは、家族同然の赤髪海賊団、そしてルフィの存在があったからです。作中の回想シーンで、ルフィはウタを現実に引き戻す存在として描かれています。最初の回想では、一人空想に耽るウタに声をかけ、身体性を伴った「勝負」を持ちかけます。続くシーンでは眠ってしまったウタの鼻先に触れ、彼女を起こそうとするルフィの姿が描かれています。
9歳の時点では、ウタの人生は歌だけではありませんでした。だからこそ、彼女は空想の世界と同じくらい、現実のことも大切にできていた。問題は、エレジアで暮らすようになって以来、ウタの人生から歌以外の全てが消えてしまったことです。(それが彼女にとってどれだけ絶望的なことなのか、死んだ目でゴードンと暮らすウタの姿を見ればわかります)。ウタの歌声は、決して現実の世界には響きません。彼女は歌姫である限り、夢の世界で生きるしかないのです。ここにおいて、現実と夢の世界の序列は、彼女の中で完全に逆転します。ウタにとって、何よりリアルなのは夢の世界であり、現実の世界は淡い夢のようなものに過ぎなくなったのです。
ここでようやく、物語におけるトット・ムジカの役割がわかるようになります。
この魔王には重要な意味があります。
それは、ウタの歌を現実世界に響かせるという役割です。トット・ムジカを使うことで、夢の世界は現実とつながり、ウタは自分の歌声を現実の世界に響かせることができるようになります。これはまた、彼女がトット・ムジカを使うことを決意する理由にもよく表れています。ウタが楽譜を使うきっかけになったのは、現実世界で観客の一人が撃たれたことでした。パニックになった彼女は必死に血を止めようとしますが、どうしようもありません。(ご丁寧に、その少し前にはウタワールドで彼女が怪我人の傷を癒すシーンが対比的に挿入されています)。現実における自分の無力さを噛み締めたことで、ウタはトット・ムジカを使うことを決意するわけです。夢と現実をつなげ、自分の歌声を現実の世界に響かせるために。たとえそれが、破滅と厄災に満ちた力であったとしても。
けれど、ウタの声がはっきりと現実の世界に響いているシーンが、トット・ムジカ以外に一つだけあります。彼女が命と引き換えに歌う、「世界のつづき」がそれです。この最後の曲だけは、ウタウタの呪いに抗い、そこから自由になるものとして歌われています。
これまでずっと、人々を夢の世界に誘うために歌っていたウタは、その反対に皆を現実世界へと誘う歌を歌います。夢の世界の歌姫ではなく、現実を生きる赤髪海賊団の音楽家として。彼女の歌声はついに、現実の風に乗って、世界中の海へと広がっていきます。そして、その代償として、彼女はたった一人で夢の世界へと旅立っていくのです。
深い考察、大変興味深く拝読させて頂きました。
「幼馴染とは、大人になったはずの青年を少年へと引き戻す存在」
仰る通りですね。そういう事例を、現実に幾つも見てきました(笑)
「ウタ」の見解も、非常にわかりやすく書かれていて「ウタに投影されている現在の社会問題」を読み解く一助になりますね。
良いレビューをありがとうございます。