劇場公開日 2022年3月25日

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「「祖国」や「故郷」という幻想」ベルファスト 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5「祖国」や「故郷」という幻想

2022年4月1日
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鑑賞方法:映画館

 愛国心は即ち誤解である。たまたまそこで生まれたに過ぎない国を「祖国」や「母国」などと呼んで、あたかも「自分の国」であるかのように誤解する。
「故郷」や「親友」の誤解と同じだ。幼い頃を過ごした場所のことを「故郷」と呼ぶ。懐かしむだけなら罪はないが、都会に出て行った人間を「故郷を捨てた」と非難するのは理不尽だ。「故郷」はその場所と本人の関係だけである。同じ場所でも、他人とその場所の関係にまで口出しする権利はない。
 親しい友だちを「親友」と呼んで友だちの中でも特別な存在とするのは構わないが、その関係性を盾に取って相手に義務を課したりするのはおかしい。「私たち、親友だよね?」と確認した上で悪事に加担させるなど言語道断だ。社会人になると、人間関係が流動的であることを認識するから「親友」などという言葉は使わなくなる。「親友」は幻想であり、関係性を誤解しているだけなのだ。
 同様に国家も幻想である。領土や領海はあるが、流動的だ。国家は領土でも領海でもない。人々の共同幻想に支えられた仕組みそのものを国家と呼ぶ。実態はなく、手続きによってかろうじて存在しているに過ぎない。

 人間は国家や故郷や親友に縛られることなく、自由な存在であるはずだが、敢えて自らを縛り、限定する。不自由な精神だ。自分を限定すると、その外にいる人間が自分のエリアに入ってくることを拒否する心理が働く。よそ者に対する敵愾心や嫌悪感であり、異邦人の排斥である。排斥する心理はやがて悪意となる。
 およそ戦争や紛争は、不自由な精神が生み出す馬鹿げた行為だ。その源は愛国心という誤解にある。「がんばれニッポン」の精神性は、そのまま戦争に直結しているのだ。
 どうして自分の国を応援することが戦争に繋がるのかという疑問は、それ自体が破綻している。「自分の国」などというものはないのである。たまたまそこで生まれてそこの言語と文化と風俗に親しんだだけだ。それを「自分の国」などと、烏滸がましいにもほどがある。

 本作品の登場人物は、不自由な精神で暴走するバカに悩まされるが、何のことはない、母親も同類である。「故郷」の幻想に縛られている。そんな幻想を捨て去ることが生き延びることだと、本作品は暗示している。宗教バカが多ければ、その土地を離れればいい。愛国心バカが多かったら、やっぱりその土地を離れればいい。
 受け入れる側が「祖国」や「故郷」の幻想を持っていれば、難民は排斥される。しかし自分が住んでいる場所が自分のものではないことを自覚している人が多ければ、難民は受け入れられる。仮に難民がとても優れていて、自分の仕事が取って代わられるとしても、受け入れなければならないのだ。

 世界から「祖国」や「故郷」の幻想が消滅するまで、戦争はなくならない。ベルファストの悲劇は何度も何度も繰り返される。「愛国心」は被害妄想と表裏一体なのだ。被害妄想の怒りに駆られた人間は、それが妄想であると自覚することはない。
 おじいさんとおばあさんだけは、それがわかっていたようだ。歳を取って死を意識するようになるまで、人間は「祖国」や「故郷」の幻想に縛られ続けるのかもしれない。

耶馬英彦