「日本の観客にとってまさにコンテンポラリーな作品」金の糸 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
日本の観客にとってまさにコンテンポラリーな作品
主人公エレネにとって、ミランダは娘の夫の母親である。だから娘が結婚するまでは赤の他人だった。娘の娘、つまり孫はアメリカの大学に通っている。孫の娘、つまりエレネにとってのひ孫はエレネと一緒に暮らしている。
本作品は個人主義の主人公エレネに、全体主義者のミランダを対比させることで、ソ連時代のグルジアのありようを浮かび上がらせている。
エレネの両親も、かつて恋人であったアルチルの両親も、ソ連の粛清によって殺されてしまった。しかしエレネもアルチルも自由な精神を失わず、エレネは作家に、アルチルは建築家になった。エレネが好きな小説はマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」であり、パステルナークの詩が好きである。パステルナークは映画「ドクトル・ジバゴ」の原作者として有名だ。ちなみにソ連では発禁処分になっている。その点も反骨精神旺盛なエレネがパステルナークを好きな理由のひとつなのだろう。
映画「ドクトル・ジバゴ」は大評判で、特にそのテーマ曲「ララのテーマ」がつとに有名だ。誰でも聞いたことがある馴染みのメロディである。
ミランダはソ連の官僚であった。官僚機構というヒエラルキーの上位にいたことだけが彼女のレーゾンデートルであり、世の中で最も尊いのが政治だと、いまだに思っている。エレネのひ孫娘に向かって、エレネはこれでも知られた作家なのよと、見下した言い方をする。権力が彼女の拠り所であり、権力に逆らう者はおしなべて馬鹿者ばかりだという考え方だ。
年老いたミランダは自分が権力者だった過去のことだけを自慢気に話すだけだが、その裏では、財産を処分して貧しい子どもたちの施設に寄付をしている。ソ連は崩壊した。ソ連のせいで閉じ込められていた貧しい子どもたちの才能は、開花させなければならない。そんなふうな反省があったのかもしれない。
ドラマらしい場面は一箇所だけ。若い時分に書いたエレネの小説が発禁となり、その後エレネは20年もの間作品を発表できなかったのだが、その発禁処分を下したのが自分だったという事実をミランダが告白したシーンだ。発禁処分はエレネの娘が結婚する前の話であり、エレネとミランダは赤の他人だった。
随分と昔から、エレネとミランダは個人主義と全体主義、検閲される側とする側という対立関係にあった訳だ。それが何故か、いまでは縁戚関係にある。
金継ぎの話はひ孫とエレネ、アルチルとエレネの会話にそれぞれひと言出るだけだが、エレネとミランダの決定的な決裂が再び関係性を持ったという人間ドラマとして、象徴的な使われ方をしている。
ウクライナに侵攻したプーチンは、かつてのソ連を取り戻したいようである。そういえば日本にも「日本をトリモロス」とテレビCMで言っていた阿呆もいた。しかしプーチンの真の動機は、ソ連が西側諸国によって蹂躙されたという被害妄想にあると思う。再びソビエト社会主義共和国連邦(USSR)を復活させることが、被害妄想のプーチンが溜飲を下げることができる唯一の道なのだろう。もしプーチンを取り巻く官僚たちがプーチンの異常さに気づかなければ、このまま第三次世界大戦となる。
本作品は2019年の製作だ。ミランダのような権力亡者の異常な精神性が芸術も人命も蹂躙してしまったことを描いている。製作者はまったく予期していなかっただろうが、プーチンのウクライナ侵攻と同時期に上映されたことで、日本の観客にとってまさにコンテンポラリーな作品となった。