「いつかの明日はまだ来ない」仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル なしさんの映画レビュー(感想・評価)
いつかの明日はまだ来ない
この映画はオーズではなく、オーズの皮を被った何かだ。
オーズのテーマ、設定、キャラクターが崩壊しているのは他のレビューでも指摘されている通りで、オーズらしさは演者の演技だけだ。
それでもキャラクターの行動は脚本で定められたものなので、なぜ手を繋ぐことを知った映司が独りで戦うのか、なぜ比奈は映司の違和感に気付かないのか、なぜ医師である伊達が何もしないのか、不自然なところを挙げたらキリがない。
そのため、既存のキャラクターを脚本にそってただ配置しただけという印象が強い。
中途半端に崩壊した世界で、よくわからないまま不思議なことが起こり死んでいくため、一つの映画としても面白くない。
また、上辺の「映司が死ねば驚くだろう」、「映司とアンクの立場を入れ替えれば感動するだろう」、「ウヴァをこう扱えばウケるだろう」、そんな意図は透けて見えるのに、『オーズ』本編で繰り返し語られた、欲望との向き合い方や手を繋ぐことの大きさに関しては蔑ろにされているように感じた。
例えば、欲望とは行き過ぎれば身を滅ぼすが、それを持つこと自体は悪いことではなく、むしろ明日へ活力、未来へ進む力になるものだと教えてくれた。
47話で兄とアンク、アンクと映司の間で悩む比奈に対し、知世子が、そして『仮面ライダーオーズ』が出した答えは「もっと欲張ったっていいじゃない」だ。
震災の年に、何かを欲するのは決して悪いことではないと伝えることのなんと素晴らしいことか。
思えば夏映画でも、映司が敵から提示された選択肢を痛快に吹き飛ばし、全部を選び全部を救ってみせた。これこそが『オーズ』、これこそが火野映司だ。
少なくとも何かを手に入れるために何かを失わなければならないなんて話はしていなかったし、映司の死でアンクが復活というのは理論的にも感情的にも受け入れ難い。
しかも、本作のキャッチコピーは「いつかの明日に手が届く」、「欲望を満たせ」である。
『MEGA MAX』で示された「いつかの明日」とは、これから進む未来に必ずアンクがいるという希望だ。
ぼろぼろで、生きることすらままならないような絶望ではない。
いつかの明日といわれて、どれだけの人が映司の死を見たいと思っただろう。
確かに火野映司は誰かに手を伸ばさずにはいられないし、いずれその性質ゆえに命を落とすこともあるかもしれない。しかし、それをわざわざ10周年を記念した映画でやる必要があったのだろうか?最終回で手を繋ぐことに気づいた映司は、自己犠牲的な一面を脱したのではなかったか?どうしてそれをなかったことにして、映司の命を終わらせてしまうのだろう。それも念入りに。
『オーズ』は最終回でなお、物語は、人生は続くというメッセージを残したし、だからこそ終末を志向する真木が倒すべき相手となったのではないか。
オーズの完結編という、この企画自体が、オーズを否定しているような気がしてならない。(オーズの新作が見れること自体はとても嬉しいが)
これまでオーズを観ているとき、これは映司らしいだの、完結はオーズっぽくないだの、小難しく考えたりはしなかった。
何かを欲すること、誰かと手を繋ぐこと。ともすれば説教じみてしまいそうなことをキャラクターを通して感じ取る。ただただオーズに夢中になり、オーズを楽しみに今日を頑張ることができる。そんな作品だった。
それなのに、この映画を見たとき、とてもそんな気持ちにはなれなかった。なぜ映司が死ななければならなかったんだろう?なぜ独りで闘うのだろう?なぜ誰も映司に手を伸ばしてくれないのだろう?そんなことばかり考えていた。
映画を観てから一ヶ月が経ち、自分なりにオーズについて考え、他の方のレビューを読んで、結局これはオーズではなかったと思うことにした。
だって、こんなのいつかの明日じゃない。途方もない願いを叶えようとするからこそ、”いつか”の”明日”だ。映司とアンクと比奈がいないいつかの明日なんて認めたくない。手を繋ぐって死に際に手を取ることではない。ずっと一緒じゃなくても、ときに対立しても、共に生きてほしい。
どうか、映司が、アンクが、比奈が、みんなが、戦いの果てに手に入れたものを安易に奪ってくれるな。完結させるにしてももっとやり方があったはずだ。
だから、オーズの完結編などなかった。今も映司は旅を続けている。いつかの明日はこれからだ。