「賛否両論あるとは思うが」仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル ノルマン・Dさんの映画レビュー(感想・評価)
賛否両論あるとは思うが
オーズはそもそも靖子にゃんの作品で、それを他の監督が手掛ける時点で、そもそも疑心暗鬼ではあった。
実際に見てからの感想は、良い悪いではなく「悲しい」一択だった。
そもそも「なぜグリードが生き返ったのか」などは、描かなくとも想像すればいい。小説の多くはすべてを説明しないし、「王の力によるもの」とすれば終わる話で、それこそ突き詰めて考えるようなことではない。王の復活についても同様に「また鴻上さんが興味本位でやらかしたか?」くらいの話である。想像力を働かせたい。
さらに「アンクはこんなこと言わない」など書いている人もいたが、アンクも映司やヒナちゃんとのやり取りを通して、800年前には得られなかったものを得ている。そこに成長があっても不思議ではない。我々が成長について行けていないか、あるいはこの悲しみを受け止めきれなかっただけだと思う。
さて、本編は、当時の情勢を踏まえて「手を繋げば乗り越えられる」「この手で明日へと繋ぐ」というものであった。
しかし、メインテーマはあくまでも「欲望」。だからこそ「ヤミー」「グリード」という名前があり、各々が欲望のために動いているのである。
結果として、映司は「目の前の女の子を助けるため手を伸ばして、救える命を救う欲望を叶えた」「生き返らせてくれと願った(からか、あるいは王が復活したからか)アンクが復活した、という欲望を叶えた」のである。
そして、今回もまた映司とアンクは「エタニティタジャドル」という形で、手を繋いで乗り越えたのである。解釈は違わない。むしろ合っている。
だからこそ悲しい。この傷は癒えない。
だが仮にこれが何も無いハッピーエンドで終わったとして、靖子にゃんの作品として相応しいものになっただろうか?
違う。靖子にゃんは、一番痛いところを突いてくるラストを用意する。であれば、やはり今作で映司がいなくなるのは、監督としても妥当なところではないだろうか(実際制作にあたり、靖子にゃんも関わっているようだ)。
唯一の救いとしては、他の映画との時系列である。未来からアンクが映司を救いに来る作品がある。もし仮にここで得た遺伝子などの情報を未来の鴻上に渡し、映司が生き返ったら、などと、本編では描かれないifも、私達の心の中に欲望として描かれ得る。
私はもう一度観に行く。この悲しみを受け止めるのが、ファンとしての務めだ。いや、受け止めたい。これが私の欲望だ。例え心が死んだとしても。