PASSING 白い黒人

劇場公開日:

解説

1920年代のニューヨークを舞台に、共に白人のフリができるものの、ひとりは白人として、ひとりは黒人として生きることを選んだ2人の黒人女性の葛藤を、美しいモノクロ映像で描いたヒューマンドラマ。「それでも恋するバルセロナ」などの女優レベッカ・ホールが監督・脚本を手がけ、ネラ・ラーセンの小説「白い黒人」を映画化した。ニューヨークのハーレム地区で医師の夫や子どもたちと暮らす裕福な黒人女性アイリーンは、故郷の友人クレアと偶然再会する。肌の白いクレアは自分が黒人であることを隠して白人男性と結婚していた。そんなクレアの登場により、平穏だったアイリーンの日常にさざ波が立ちはじめる。「メン・イン・ブラック インターナショナル」のテッサ・トンプソンがアイリーン、「ラビング 愛という名前のふたり」のルース・ネッガがクレアを演じ、「ムーンライト」のアンドレ・ホランド、「ゴジラvsコング」のアレクサンダー・スカルスガルドが共演。Netflixで2021年11月10日から配信。

2021年製作/99分/アメリカ
原題:Passing
配給:Netflix
劇場公開日:2021年11月10日

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映画レビュー

4.0差別がもたらす複雑な感情の奥深さ

2024年3月14日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:VOD

ジャズマンズブルーズでも取り上げられていた、白い肌をもつ黒人がテーマの映画。黒人差別を取り上げる映画は近年多いのだけれど、白人になりすますという話はそれほど多くない。それは、単純な敵味方という二項対立だけではすまない話になるだろうし、そうであるなら、描くのはそれなりに勇気がいるということなのかもしれない。
例えばマイケルジャクソンの整形に見る、白人に対するコンプレックス。黒人たちは果たして当時どう感じただろう。良く思わなかっただろうことは、理解に難くない。この映画でも、白人になりきる友人を嫌悪する一方で、白人の生き方を無意識に模倣している主人公の鬱屈とした感情は、我々が日常的に感じることはないのかもしれないが、「差別は悪い」とするのは当然として、では、何をどうすべきなのかということについては、深い人間的な洞察力がもう少し必要なのではないかと感じさせてくれた映画だった。

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ken1

4.0日本人だから

2022年8月30日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

日本人だから評価できないなんてつまらないことは言わないが白黒ということもあり、なんだかんだわかりにくい箇所があるので最初にあらすじのようなものを読んでから見るべきだと思う。
まとめるなら黒人社会で育った本当は黒人であるが、肌の色的に白人にも見えるという二人がpassingで全く白人社会で生きたり、必要な時に白人社会に溶け込んだりしていたが、二人が再開することで物語は始まる。
要は二人は白でも黒でもないグレーのような存在だったのである。
ここでおもしろいのは一人は白人と結婚し何も疑いなく白人社会で生きているが、もう一方は黒人と結婚し白人社会で過ごすときはいづらさを感じていることである。
物語をさらに見ていくと、白人社会で生きている一人は黒人社会に戻りたいという願望があり、自分がグレーであることが白人である夫にばれることを全く恐れていない。もう一人は白人と黒人の間に生きることにいづらさというか難しさを感じており、そこがラストシーンにつながっていく。
この二人がグレーではなく、全くの白人か黒人であったら物語はこうはならないという所が個人的には面白く感じた。

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get yourself

2.5パッシングしなければ生きていけなかった

2022年3月27日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

知的

難しい

日本人にはなかなか理解し難い作品ではなかろうか。
タイトルの“パッシング”とは“通り抜ける”という意味があり、ある人物の人種が別の人種として認識される…つまり、差別/偏見から“通り抜ける”という意味合いがあるとか。
比較的肌の色が薄い二人の黒人女性。
一人は黒人として生き、もう一人は白人のフリをして白人として生きる。
実際に家系の遺伝(先祖に白人の血が混じっている)などで、“白い黒人”として生きた例もある。
映画でもそんなに数は多くはないものの、“パッシング”を題材にした作品はある。『白いカラス』がそうであった事をぼんやりと思い出した。(ただこの時、ニコール・キッドマンが“黒人女性”を演じ批判を浴びたが…)
人種問題を扱った作品と言うと黒人への差別/偏見を描き、世へ問うものが多いが、本作のような題材は目新しい。

そもそも、黒人らしさとは…? 白人らしさとは…?
今でこそ生き方や価値観など平等に叫ばれているが(とは言っても、未だに問題や差別は根強く残る)、舞台設定となっている1920年代ははっきりしていたのではなかろうか。
まだまだ差別や偏見が激しかったその当時。
アイリーン。黒人だが肌が薄く、医師の黒人男性と結婚し子供もおり、裕福で地位もある暮らし。店などにも出入り出来、白人の友人もいる。
差別や偏見とは縁無いように思えるが、暮らしぶりや本人の性格は控え目。恵まれているとは言え、黒人は黒人。目立ったらどんな手のひら返しを受けるか…本人もそれが分かっているかのよう。
クレア。肌が白く、黒人である事を隠して白人として暮らしている。白人の夫にもそれを打ち明けていない。
性格は自由奔放。上流階級の白人のような振る舞い。
夫は堂々と「黒人を憎んでいる」。もし、妻が本当は黒人である事を知ったら…? 見た目か、中身か…?

二人は故郷のかつての友人。
久し振りに会ったら、かつての友人が見違えていた…ではない。“人種”が変わっていた。
この時、同じ“黒人”としてどう思っただろう。
衝撃…?
軽蔑…?
それとも、一種の憧れ…?
アイリーンは裕福ではあっても、何処か窮屈そうな感じを受ける。
そんな彼女から見たクレアの自由な生き方。
クレアはクレアで一見自由に生きているように見えるが、そうでもしないと生きていけない社会の不条理、実はそれを分かっている虚しさを感じた。
黒人が自分に偽りなく生きるには程遠かった時代。
人種云々ではなく、二人の女性の対称的な生き方として見れば分からんでもないが…、
でもやはりこの作品には人種問題に込めた訴えが根底にあり、それを理解や感情移入せずに見るには難解。

しかしながら、作品のクオリティーの高さには異論ない。
溜め息が漏れるほどの白黒の映像美。一つ一つのシーンが絵になるほど。
スタンダードな画面サイズも往年の名画を彷彿させる。
そして、3人の女性の才の輝き。
メジャー・エンタメの印象が強いテッサ・トンプソンが、引き込まれるほどの繊細な演技を披露。これほどの名演出来る演技派だったとは…!
旨味あったのはルース・ネッガの方かもしれない。白人のフリして生きる黒人という難役を見事に体現。オスカーにノミネートされるべきだった。
女優レベッカ・ホールの監督デビュー作。安全パイなハートフル作品にせず、難しい題材に挑戦。それだけでも驚きなのに、デビュー作でいきなり名匠のようなアート性のある才を魅せようとは…! 静かで淡々とした語り口は好みが分かれそうだが、ヒューマン・ドラマであると同時にサスペンス的な緊張感も含み、その演出力は本物だ。

作品は自分には敷居が高く、陳腐で拙いレビューになってしまったが、一味違う視点からの人種問題と3人の女性の才を見れただけでも。

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近大

3.0白人になりすます黒人をえがくための白黒

2021年12月17日
PCから投稿

レベッカホールが監督をやったのは意外で刺激的だった。
海外では俳優が監督業をやるのはよくあることだがネットフリックスで唐突に知ったこともあって「へえ、監督やるのか」という感じでちょっと驚いた。

それでインタビューをさがした。
女優として好ましくフェミニンだが、監督をやるにいたる情報がわからなすぎて、困惑した。
困惑したのは4:3のアスペクト比をもった白黒映画だったから、でもある。しかも(ちょっとらんぼうな形容だが)ヒッチコックみたいな撮影をしていた。

海外の俳優の監督業が刺激的なのは、日本のシステムからは想像もできないことだから──でもある。
日本では俳優が監督をやってみたり転身することがほとんどいないし、あったとしても、のんや池田エライザや安達寛高のように「やってみただけ」のものでしかない。どうしても映画がつくりたかったわけではなく、機会とポジションのめぐり合わせで監督体験をしてみた──だけのことではなかろうか。(憶測です。)

レベッカホールが監督をやった経緯をさぐるべく、映画Passingについて、いくつか(ネットにある)インタビューを拾い読みした。

当初レベッカホールが古い小説Passingを監督すると告知したとき、ジャーナリストたちは、時事に迎合して、旬の題材を選んだのだろうと彼女に指摘したそうだ。
Passingには人種問題に加えLGBTのモチーフも出てくる。それゆえ時流に乗って(悪く言えば)打算的な題材選びをしたのだろう──と指摘したのだという。
だが、それを指摘されるたびホールは否定したと述べている。

『今この映画を作ろうと決めたわけではありません。ずっと前から作ろうとしていたんです。』
『子供の頃に憧れていたのは俳優ではなく映画製作でした。わたしはいつもそれを望んできたが、そのことはずっと黙ってきました。』

『わたしたちはあまりお金を持っておらず、少なくとも7年間わたしは人々にこの脚本を見せてきました。最初は必ずしも資金提供者やプロデューサーではなく私が信頼する業界の人々に見せました。その結果、聞いたのは「これを作るのは本当に大変なことだよ。頑張れよ」でした。ただそれは良い方の意見で、たいていは「絶対に成功しないことを確信している」と反応されました。(良い反応をしてくる出資者や映画会社の人でさえ)「とてもいい作品だが、カラーにして、白人男性の脇役に大スターを起用しない限り、映画化は無理だ」と言うのでした。』

『白黒でなければならないこと、4:3(サイレント時代の四角い比率)でなければならないこと、人種問題をテーマにした映画であること、ある種の高度で形式的な映画制作スタイルと型にはまらないサウンドスケープを持っていることなどです。このようなことをするには、非常に大きな傲慢さが必要だと思います。どんな種類の映画を作るにしても、とてつもなく傲慢なことだと思います。そこで私は、最も傲慢な映画をストレートに作ってしまおうと考えました。』

またホールは子供の頃フランスの映画監督やヒッチコックに憧れていたと語っていた。これらのインタビューをふまえるとPassingはなるほどな映画だが、出自からも(映像)作家の素養はうかがえる。

ホールの母はオペラ歌手であり、父のピーターホールは数十年にわたってイギリスの舞台演出界を席巻してきた人だという。ピーターはイギリス人だが、母のマリアはオランダ/スコットランド/スー/アフリカ系アメリカ人のブレンドだった。母に黒人の血が混じっていることから、ルーツをさぐるうちに1929年のネララーセンの小説Passing(邦題:白い黒人)にたどり着いた──と述べていた。

ポールダノのWild Lifeや、ジョエルエドガートンのBoy Eraised、俳優が監督をやった映画のレビューでなんどか言ってきたことだが、海外で映画を目指す人は、いずれは映画をつくりたいという野望(=絶対の動機)をもって映画業界へ入ってくる。
入ってきた場所こそ端役やスタントだったにしても、徐々に名を上げ、やがてはほんとに映画をつくる。つくりたい映画があるひと、あっためている企画がある人が映画業界へあつまってくる。

そうやってグレタガーウィグはレディバードをつくった。キムボラははちどりをつくった。ポールダノはWild Lifeをつくった。ジョエルエドガートンはBoy Eraisedをつくった。ジョーダンピールはゲットアウトをつくった。ジョージクルーニーはグッドナイト&グッドラックをつくった。ベンアフレックはゴーンベイビーゴンをつくった。ショーンペンはインディアンランナーをつくった。ケヴィンコスナーはダンスウィズウルヴズをつくった。イーストウッドは恐怖のメロディをつくりレッドフォードは普通の人々をつくりニューマンはガラスの動物園をつくった。・・・世に出なかった人/映画も多数あるだろう。
かれらがスターになったのはつくりたい映画をつくるためだった。映画の方法を学び、映画のための資金と人脈と知名を積み上げるためだった。スターになったのはむしろそれらの副産物だった。

「映画をつくりたい」が映画にたずさわるの人の合理である。動機である。映画をつくりたい──すべてそこからはじまる。
(外国映画のレビューなのに、まいど日本と比較する牽合をさせてもらっているのだが)一方、わが国で、映画を目指している人の動機には「映画をつくりたい」があるのだろうか?

──順当に言えば、映画をつくりたいから映画業界に入る、わけだが、わたしは新進の日本映画を見ていて「ほんとにこれがあなたの言いたいことなんですか?」と問い質したくなることが都度ある。

映画をつくりたいから映画界へ入った──てより、たんに映画監督になってええカッコしたかっただけなのでは?べつにつくりたい映画なんかないんじゃないの?──日本映画はそれを感じることが多い。なんていうか「絶対の動機」がない。(個人的な感慨です。)

Passsingは女優レベッカホールの監督デビュー作である。かといって、おなじデビュー作だから、のんのおちをつけなんせや池田エライザの夏、至るころと共鳴する位相があるのか──というと、そんなものはない。

きょうび世界じゅうのエンタメを見ることができる。ひょっとしたら業界では、一般庶民は、わかってないとか、まだばれてないとか思っているかもしれないが、一般庶民は、ネットフリックスの国産がつまんなくて、外国産がおもしろい──ことをわかってしまっている。それは、じゅうぶんな結論だと思う。

結局、日本のエンタメがつまんなければ、外国産を享受したらいいという話になる。わたしはぜんぜん社会派じゃないから、日本製がつまんない──が及ぼす影響について縷陳できないが、多くの日本人が日本製のエンタメ(ドラマや映画やアーティスト)をつまんないと認識することは、国家としては健全なことじゃない、とは思う。とはいえつまらなければしかたがない。消費者とはそういうものだ。
掘り下げないが、ユーチューブやネットフリックス(そもそもインターネット)の波及がもたらしたのは「あんがい面白くない日本・日本人」てこと──ではなかろうか。そう感じてしまうことが(個人的には)ある。

Passing:白い黒人は、ふしぎなほど古風に撮ってある。ヒッチコックの白い恐怖を思い浮かべた。子供のころ仏監督やヒッチコックに憧れたとホールは語っているが。その通りの映画になっている。4対3の矩形に情報をまとめ、演技も大胆に抑制している。ブニュエルやブレッソンの影響も感じた。空間を狭く見せ舞台風でもあった。映画を積極的に見て学んできた人が撮っていることがありありとわかった。

前述の転載したインタビューで『このようなことをするには、非常に大きな傲慢さが必要だと思います。どんな種類の映画を作るにしても、とてつもなく傲慢なことだと思います。』とあり、直訳がわかりづらくなっているが、意訳すると「自分のつくりたい映画をつくることは、わがまま」という意味だろう。いちいち牽合させてもらうが、これは日本の新進監督や20世紀の女の子系監督に聞かせたい発言だった。日本の映画監督はじぶんの拙い映画製作をどう表現するだろう。と思った。

海外では、日本未公開の映画Pinkyと比較されていた。エリアカザン監督で1949年に製作されている。おそらく白人に見えてしまう、もしくは黒くない黒人を扱った映画なのだろう。

本作で、白人になりすまし、黒人を憎んでいる白人の夫と過ごしているクレア(Ruth Negga)は、いわばライオンと生活している(ライオンの着ぐるみを被った)ウサギのようなものだ。いつバレて、いつ捕食されるかわからないのに、その不安定・不確実な立場に身を置いているわけである。
そればかりでなく、黒人を憎む夫に同調している。いうなれば、ライオンが同胞たるウサギを捕らえて食っても、そしらぬ顔で生きている──のである。
かのじょは自らすすんでそのスリリングな立場に入り込んだ(白人になりすまして白人と結婚した)のだが、その立場にまったく満たされておらず、自己嫌悪と厭世をかかえている。

とうぜんであろう。かのじょが隠しているのは黒人という属性だけでなく、自分自身すべて──だからだ。黒人を憎む人間と共存することは、じぶんが黒人であることを否定しているばかりか、この世にいないものとみなしているに等しい。それだけじぶんを虚しくして、どんな充足が得られるというのだろう。人種問題から引き起こされた哀しい出来事を映画は語っていた。劇的で気の毒な話だった。

ただ1929年の小説をもとにしているので、日本人としては世界がつかみにくかった。Tessa Thompson演じるアイリーンは黒人でありながら都市で使用人をかかえた上流とも言える生活をしており(わたしの無教養のせいでもあるが)時代性と彼女らの社会的立場はわかりにくかった。
しかし、がんらい日本人がBLMなどの黒人問題を語るのは、エスキモーがアボリジニの迫害について語るようなもの、慰安婦像がヨーロッパの街に立つようなもの、ではある。(と個人的には思っている。)

わたしが黒人問題を知りたい理由は、白人と黒人の位相を知らないとアメリカ映画を理解することができないから。だと思う。
日本で黒人差別を語るのはメンヘラの女子テニスプレーヤーだけであり、ごく一般的に言って日本人は黒人差別を語る環境も資格も必要もない。
したがってモノクロで人種問題をあつかったこの映画をつまらないと一蹴する日本の労働者の気持ち/意見は、はっきり言って、ぜんぜんわかる。

余談ながら現実のアフロヘリテージからすれば、いくら白黒画とはいえRuth NeggaやTessa Thompsonが黒人に見えず白人と見なされることがある──という設定には同意できない。黒人もラテンも、色ではなく耳鼻目の形状や骨格でわかる。Tessa Thompsonなんてモノクロだろうが逆立ちしようが歴然な黒人顔だと思う。(好ましい意味において)

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津次郎
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