劇場公開日 2021年11月10日

「白人になりすます黒人をえがくための白黒」PASSING 白い黒人 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0白人になりすます黒人をえがくための白黒

2021年12月17日
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レベッカホールが監督をやったのは意外で刺激的だった。
海外では俳優が監督業をやるのはよくあることだがネットフリックスで唐突に知ったこともあって「へえ、監督やるのか」という感じでちょっと驚いた。

それでインタビューをさがした。
女優として好ましくフェミニンだが、監督をやるにいたる情報がわからなすぎて、困惑した。
困惑したのは4:3のアスペクト比をもった白黒映画だったから、でもある。しかも(ちょっとらんぼうな形容だが)ヒッチコックみたいな撮影をしていた。

海外の俳優の監督業が刺激的なのは、日本のシステムからは想像もできないことだから──でもある。
日本では俳優が監督をやってみたり転身することがほとんどいないし、あったとしても、のんや池田エライザや安達寛高のように「やってみただけ」のものでしかない。どうしても映画がつくりたかったわけではなく、機会とポジションのめぐり合わせで監督体験をしてみた──だけのことではなかろうか。(憶測です。)

レベッカホールが監督をやった経緯をさぐるべく、映画Passingについて、いくつか(ネットにある)インタビューを拾い読みした。

当初レベッカホールが古い小説Passingを監督すると告知したとき、ジャーナリストたちは、時事に迎合して、旬の題材を選んだのだろうと彼女に指摘したそうだ。
Passingには人種問題に加えLGBTのモチーフも出てくる。それゆえ時流に乗って(悪く言えば)打算的な題材選びをしたのだろう──と指摘したのだという。
だが、それを指摘されるたびホールは否定したと述べている。

『今この映画を作ろうと決めたわけではありません。ずっと前から作ろうとしていたんです。』
『子供の頃に憧れていたのは俳優ではなく映画製作でした。わたしはいつもそれを望んできたが、そのことはずっと黙ってきました。』

『わたしたちはあまりお金を持っておらず、少なくとも7年間わたしは人々にこの脚本を見せてきました。最初は必ずしも資金提供者やプロデューサーではなく私が信頼する業界の人々に見せました。その結果、聞いたのは「これを作るのは本当に大変なことだよ。頑張れよ」でした。ただそれは良い方の意見で、たいていは「絶対に成功しないことを確信している」と反応されました。(良い反応をしてくる出資者や映画会社の人でさえ)「とてもいい作品だが、カラーにして、白人男性の脇役に大スターを起用しない限り、映画化は無理だ」と言うのでした。』

『白黒でなければならないこと、4:3(サイレント時代の四角い比率)でなければならないこと、人種問題をテーマにした映画であること、ある種の高度で形式的な映画制作スタイルと型にはまらないサウンドスケープを持っていることなどです。このようなことをするには、非常に大きな傲慢さが必要だと思います。どんな種類の映画を作るにしても、とてつもなく傲慢なことだと思います。そこで私は、最も傲慢な映画をストレートに作ってしまおうと考えました。』

またホールは子供の頃フランスの映画監督やヒッチコックに憧れていたと語っていた。これらのインタビューをふまえるとPassingはなるほどな映画だが、出自からも(映像)作家の素養はうかがえる。

ホールの母はオペラ歌手であり、父のピーターホールは数十年にわたってイギリスの舞台演出界を席巻してきた人だという。ピーターはイギリス人だが、母のマリアはオランダ/スコットランド/スー/アフリカ系アメリカ人のブレンドだった。母に黒人の血が混じっていることから、ルーツをさぐるうちに1929年のネララーセンの小説Passing(邦題:白い黒人)にたどり着いた──と述べていた。

ポールダノのWild Lifeや、ジョエルエドガートンのBoy Eraised、俳優が監督をやった映画のレビューでなんどか言ってきたことだが、海外で映画を目指す人は、いずれは映画をつくりたいという野望(=絶対の動機)をもって映画業界へ入ってくる。
入ってきた場所こそ端役やスタントだったにしても、徐々に名を上げ、やがてはほんとに映画をつくる。つくりたい映画があるひと、あっためている企画がある人が映画業界へあつまってくる。

そうやってグレタガーウィグはレディバードをつくった。キムボラははちどりをつくった。ポールダノはWild Lifeをつくった。ジョエルエドガートンはBoy Eraisedをつくった。ジョーダンピールはゲットアウトをつくった。ジョージクルーニーはグッドナイト&グッドラックをつくった。ベンアフレックはゴーンベイビーゴンをつくった。ショーンペンはインディアンランナーをつくった。ケヴィンコスナーはダンスウィズウルヴズをつくった。イーストウッドは恐怖のメロディをつくりレッドフォードは普通の人々をつくりニューマンはガラスの動物園をつくった。・・・世に出なかった人/映画も多数あるだろう。
かれらがスターになったのはつくりたい映画をつくるためだった。映画の方法を学び、映画のための資金と人脈と知名を積み上げるためだった。スターになったのはむしろそれらの副産物だった。

「映画をつくりたい」が映画にたずさわるの人の合理である。動機である。映画をつくりたい──すべてそこからはじまる。
(外国映画のレビューなのに、まいど日本と比較する牽合をさせてもらっているのだが)一方、わが国で、映画を目指している人の動機には「映画をつくりたい」があるのだろうか?

──順当に言えば、映画をつくりたいから映画業界に入る、わけだが、わたしは新進の日本映画を見ていて「ほんとにこれがあなたの言いたいことなんですか?」と問い質したくなることが都度ある。

映画をつくりたいから映画界へ入った──てより、たんに映画監督になってええカッコしたかっただけなのでは?べつにつくりたい映画なんかないんじゃないの?──日本映画はそれを感じることが多い。なんていうか「絶対の動機」がない。(個人的な感慨です。)

Passsingは女優レベッカホールの監督デビュー作である。かといって、おなじデビュー作だから、のんのおちをつけなんせや池田エライザの夏、至るころと共鳴する位相があるのか──というと、そんなものはない。

きょうび世界じゅうのエンタメを見ることができる。ひょっとしたら業界では、一般庶民は、わかってないとか、まだばれてないとか思っているかもしれないが、一般庶民は、ネットフリックスの国産がつまんなくて、外国産がおもしろい──ことをわかってしまっている。それは、じゅうぶんな結論だと思う。

結局、日本のエンタメがつまんなければ、外国産を享受したらいいという話になる。わたしはぜんぜん社会派じゃないから、日本製がつまんない──が及ぼす影響について縷陳できないが、多くの日本人が日本製のエンタメ(ドラマや映画やアーティスト)をつまんないと認識することは、国家としては健全なことじゃない、とは思う。とはいえつまらなければしかたがない。消費者とはそういうものだ。
掘り下げないが、ユーチューブやネットフリックス(そもそもインターネット)の波及がもたらしたのは「あんがい面白くない日本・日本人」てこと──ではなかろうか。そう感じてしまうことが(個人的には)ある。

Passing:白い黒人は、ふしぎなほど古風に撮ってある。ヒッチコックの白い恐怖を思い浮かべた。子供のころ仏監督やヒッチコックに憧れたとホールは語っているが。その通りの映画になっている。4対3の矩形に情報をまとめ、演技も大胆に抑制している。ブニュエルやブレッソンの影響も感じた。空間を狭く見せ舞台風でもあった。映画を積極的に見て学んできた人が撮っていることがありありとわかった。

前述の転載したインタビューで『このようなことをするには、非常に大きな傲慢さが必要だと思います。どんな種類の映画を作るにしても、とてつもなく傲慢なことだと思います。』とあり、直訳がわかりづらくなっているが、意訳すると「自分のつくりたい映画をつくることは、わがまま」という意味だろう。いちいち牽合させてもらうが、これは日本の新進監督や20世紀の女の子系監督に聞かせたい発言だった。日本の映画監督はじぶんの拙い映画製作をどう表現するだろう。と思った。

海外では、日本未公開の映画Pinkyと比較されていた。エリアカザン監督で1949年に製作されている。おそらく白人に見えてしまう、もしくは黒くない黒人を扱った映画なのだろう。

本作で、白人になりすまし、黒人を憎んでいる白人の夫と過ごしているクレア(Ruth Negga)は、いわばライオンと生活している(ライオンの着ぐるみを被った)ウサギのようなものだ。いつバレて、いつ捕食されるかわからないのに、その不安定・不確実な立場に身を置いているわけである。
そればかりでなく、黒人を憎む夫に同調している。いうなれば、ライオンが同胞たるウサギを捕らえて食っても、そしらぬ顔で生きている──のである。
かのじょは自らすすんでそのスリリングな立場に入り込んだ(白人になりすまして白人と結婚した)のだが、その立場にまったく満たされておらず、自己嫌悪と厭世をかかえている。

とうぜんであろう。かのじょが隠しているのは黒人という属性だけでなく、自分自身すべて──だからだ。黒人を憎む人間と共存することは、じぶんが黒人であることを否定しているばかりか、この世にいないものとみなしているに等しい。それだけじぶんを虚しくして、どんな充足が得られるというのだろう。人種問題から引き起こされた哀しい出来事を映画は語っていた。劇的で気の毒な話だった。

ただ1929年の小説をもとにしているので、日本人としては世界がつかみにくかった。Tessa Thompson演じるアイリーンは黒人でありながら都市で使用人をかかえた上流とも言える生活をしており(わたしの無教養のせいでもあるが)時代性と彼女らの社会的立場はわかりにくかった。
しかし、がんらい日本人がBLMなどの黒人問題を語るのは、エスキモーがアボリジニの迫害について語るようなもの、慰安婦像がヨーロッパの街に立つようなもの、ではある。(と個人的には思っている。)

わたしが黒人問題を知りたい理由は、白人と黒人の位相を知らないとアメリカ映画を理解することができないから。だと思う。
日本で黒人差別を語るのはメンヘラの女子テニスプレーヤーだけであり、ごく一般的に言って日本人は黒人差別を語る環境も資格も必要もない。
したがってモノクロで人種問題をあつかったこの映画をつまらないと一蹴する日本の労働者の気持ち/意見は、はっきり言って、ぜんぜんわかる。

余談ながら現実のアフロヘリテージからすれば、いくら白黒画とはいえRuth NeggaやTessa Thompsonが黒人に見えず白人と見なされることがある──という設定には同意できない。黒人もラテンも、色ではなく耳鼻目の形状や骨格でわかる。Tessa Thompsonなんてモノクロだろうが逆立ちしようが歴然な黒人顔だと思う。(好ましい意味において)

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津次郎