やがて海へと届くのレビュー・感想・評価
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思い出すこと忘れること、これからもよろしくね
アニメパートがとても沁みる。オープニングに登場した台詞「電車は来ないよ」・・・どんな意味があるのかさっぱりわからなかったけど、最後に解明される形です。そして気になる小物“猫のポーチ”。これも終盤に明かされます。
最近見た浜辺美波はTVドラマ「ドクターホワイト」でしたが、このドラマでは演技が微妙すぎて、テーマ曲「心という名の不可解」のAdoにハマってしまいました。おかげで最初はうるさいだけだと思っていた「うっせぇわ」も好きになりました。
この作品の音楽がとても良かったことも忘れてはならない。まるで海の底にいるかのような環境音楽と優しいスキャットが全体を彩っているのです。メタリカが好きな店長(光石研)がフレンチの店ではジャズをかける。そしてPUFFYの「これが私の生きる道」とバラエティに富んでますが、それぞれの性格すら表現しているかのようでした。一方で浜辺美波演ずるすみれは「チューニングすること(周波数を合わせる)」ことで色んな人に溶け込むことができるという設定。
東日本大震災の津波を扱っているにもかかわらず、どこかオブラートに包んだ優しさも感じられた。行方不明のままだと死は受け入れられず、亡き人として扱う母親や元恋人に違和感を感じざるを得ない真奈。線路が水没する幻想的な風景も送る側からすれば堪らないのに、忘れることと記憶に留めるという境目に立つ真奈。答えは明示されないものの、大切な人を失った経験がある者にとってはそれぞれの答えがあるものだ。
時間軸が曖昧すぎるところが難点といえば難点。2005年の新入生オルグでのいい感じの出会いから2011年の悲劇。それから5年後の真奈の様子。うまくいってもダメになっても、それがあなたの生きる道。などと奥田民生の歌詞を思い出し、再生の道を歩まなければ・・・
ネットで調べてみたら、アニメ版『君の膵臓を食べたい』で僕の読んでた本が『やがて海へと届く』とあったんですが、本当ですか?
W主演女優の存在感
10年経って、やっと震災の海を映画にできた、というところか。
ともすれば強烈なトラウマを喚起してしまう津波の描写に、『進撃の巨人』アニメの初期シリーズを作っていたWit studioのアニメーションを使って、柔らかく幻想的なものに仕上げていたことがよかった。
岸井さんのリアリティ溢れる存在感。
親友以上、恋人未満の、恋心を抱いた同性パートナー(すみれ)をなくした喪失感の演技は凄まじかった。
特に明確に亡くなったとわかるわけではなく、どうやらその時に気仙沼を一人旅中で、行方不明になったため「生死不明」状態での、心をどう扱っていいかわからないもどかしさ。というあたりが素晴らしかった。
浜辺さんは、『咲 Saki』はよかったのに、その後『約束のネバーランド』『屍人荘の殺人』と原作つき実写映画の「ヅラ感強いアレ系」への出演が多かった印象ながら……
こちらもよかった。
本当はずっと岸井さん演じる真奈を好きな気持ちを押し殺している、というあたりの繊細な演技には引き付けられました。
やがて海へと届く
キミスイにも通じる、残されたものの思い
本作の原作の帯に「君の膵臓を食べたい」の原作者の住野よるさんがコメントを書かれています
「キミスイ」では家族でも恋人でもない桜良の死を受け止めきれない「僕」が彼女の自宅で涙を流す場面がありました 本作も友人であるすみれの死を、恋人や母親以上に受け止めきれない主人公の涙がありました 短命で亡くなった桜良もすみれも演じたのが浜辺美波さんであり、彼女の生前の笑顔が、「僕」と「真奈」に深い思いを「共病文庫」「ビデオカメラ」を通して残していく
まったく異なる2つの小説ではあるけれど、大切な人の死がもたらすものの大きさを思います
後半バス停ですみれを見送るあの場面が、最期の別れとなるのでしょうが、その最期を予感させるやりとりがあったことを思うと、もう一度観たくなります 中川監督が描いてきた作品の朝倉あきさん、松本穂香さん、衛藤美彩さんとは違う、残されたからこその強さのようなものを岸井ゆきのさんは演じられていたように思いました 浜辺美波さんは今や東宝の大スターではありますが、こういった使われ方をすることは、今後の女優業を重ねていく中でいい経験をされたと思います
(4月7日 TOHOシネマズなんば にて鑑賞)
「岸井ゆきのの表情、光石研の渋さ」
作り手の思いは観客に届いたか
許されるのか
人それぞれ表と裏がある
浜辺美波さんが出ているので気軽に見に行きました。R12と書いていて、最初の水彩画でサスペンスなのかと感じましたが、この映画は人それぞれ経験してきたことや考え方価値観により解釈が異なる。勝手に解釈して、いろんなことを感じてくださいというメッセージ性があると感じました。東日本大地震の作品だそうです。
高校生の私が感じたのは、
人には親しく接していて、無言でも過ごせる中でも相手は知らない過去や裏側があるのだなと感じた。
すみれがポーチを落としたから真奈と出会えた。少しの偶然で人は出会う。
それぞれの悩みがあって、それぞれの捉え方がある。
ただ笑っていたり、何も考えていないように見える人ほど考えているのかもしれない。外見だけで判断してはいけないとつくづく思わされました。
見に行くか迷っている人は見に行くべきだと思います。原作を読んでからの方が分かりやすいかと思います。
海深く深い想い
優しいアニメーションからはじまる
大好きな友を亡くし
…失踪感が
彼女のなかで大きな哀しみが
奥深く深いところで彼女のことを想う
岸井ゆきののなんとも言えない演技が見事です
落ち着いた雰囲気と人の優しさも感じて
いつまでも忘れたくない人
過ぎていく日々に
薄れていく記憶
いつまでも失くした人を想いたい
【”万物流転・・”忌まわしき天災の傷を時間を掛けて受け入れ、再生して行く人々の姿。アーティスティックな作品であると共に、岸井ゆきのさん、浜辺美波さんの凄さを堪能する作品でもある。】
ー 大学の新歓で知り合った内気な真奈(岸井ゆきの)と、表面的には外交的な、だが内面に深い孤独を抱えるすみれ(浜辺美波)は、ふとしたことが切っ掛けで知り合い、距離を縮め、二人で住むようになる。
だが、すみれはフラリと東北に一人旅に出かけ、帰って来ない・・。-
■東日本大震災の犠牲者には、未だ遺体が見つからない人が多い。
残された家族は、”いつか帰ってくる・・。”という儚い望みと、死を受け入れ新たな生活に踏み込まねば・・、という板挟みに悩む人が多いと、仙台に住む友人が、且つて私に話してくれた事がある。
◆感想
・岸井ゆきのさんの柔らかな演技と、表面的には外交的だが内面に深い孤独を抱えるすみれを演じる浜辺美波さんの物凄い美しさの中に秘めた、憂いを帯びた表情、時に”眼””は凄みさえ感じさせる。
- 今作は、この二人の女優さんの好対照な演技を見るだけでも価値があると、私は思う。-
・すみれの元恋人遠野(杉野遥亮)、母親(鶴田真由)は5年経っても帰ってこない彼女を故人として扱おうとするが、真奈はそれに納得がいかない。
- すみれの”遺品”の扱い。残されたすみれがいつも愛用していたビデオカメラは遠野も母親も引き取らず、真奈が手元に置く。
すみれが、カメラのファインダー越しにしか物事を観ない、大切なことを言わない事を遠野が諫めるシーン。すみれの心の闇が仄かに描かれる。
すみれこそ、実は内向的な性格なのではないか・・。脆さを抱えているのではないか・・。-
・真奈がアルバイトしているレストランの店長(三石研)がある日、突然首を括り自殺する。真相は誰も分からない。
だが、その事件をきっかけに、真奈とレストランのシェフ国木田(中崎敏)は、すみれが行方不明になった東北の海岸沿いの土地に出掛ける。
- そこで、出会った人たち(中島朋子、新谷ゆずみ、そして実際に震災に遭われた人々)がビデオカメラに向かって”その時”を語るシーンは、東北に所縁のある私にとっては、キツカッタが印象的なシーンであった。
皆が、愛する人の死を受け入れ、必死に生きている姿は、心に沁みた・・。-
・すみれが愛おし気な表情で撮っていた真奈の寝姿。すみれは本当は・・。
- すみれは、且つて真奈に”貴方は本当は強いんだよ・・”と言っていた。
真奈はすみれにとって、憧れの存在だったのではないか・・。-
・そして、ゆっくりと時は流れ、真奈にも変化が訪れる。
いつもはすみれが撮っていたカメラに向かって明るい表情で喋り掛ける姿。
”こちらは、天気です。そちらはどうですか・・。”
<冒頭の幻想的なアニメーションシーンとラスト近くの万物流転を暗喩したアニメーションシーンの繋がりも良い。
今作はアーティスティックな作品でありながら、独り善がり的な個所は少なく、見応えは十二分にあると思った作品である。>
■今作は、睡眠は十二分に取ってから、観賞することをお勧めします・・。
瞳に引き込まれる
すみれ(浜辺美波)が真奈(岸井ゆきの)を見つめる瞳、
真奈が遠くのすみれを見つめる瞳。
登場人物の瞳の力を感じる、美しい映像だった。
監督の中川龍太郎は、特に「走れ絶望に追いつかれない速さで」以降、
「生と死」「喪失と再生」をテーマにしてきていたのだと思う。
本作も、いなくなった親友(すみれ)への思いをどう受け入れたらいいのか、
もがきながら前へ進んでいく真奈の心情を丁寧に描いている。
題材となるテーマ(喪失と再生)が同じ、かつ普遍的なものとはいえ、
アニメーションやドキュメンタリー手法なども用いており、
静かな作品ながら目が離せない展開だった。
最後、真奈の瞳は何を語っていたのか、
どう感じとるべきかを問いかけてくるようでもあり、心に残る。
行間を読んで感じる作品
難解すぎ不思議な作品だが妙に涙がこぼれてきてしまう
冒頭のアニメーションから謎。やがて友人のスミレが死んだということがわかってくる。
ただ、それが行方不明というニュアンスは伝わってこない。死として受け入れるのかどうか、この部分がなく、マナの心境がわかりにくい。
親友のマナは、職場に突然訪ねてきたスミレの彼だった遠野に促され、彼女の遺品の処分と彼女の実家に行こうと提案される。
マナは遠野と一緒に住んでいたスミレのベッドに横たわると、彼女との、つまりこの物語が始まる。
この物語は、マナによってスミレという人物像を探し出す物語なのかなと思いながら見ていた。マナがどうしても探し出したいのが「スミレの心」で、それがどうしても探せない苛立ちが遠野に向けられるのだと考えてしまう。
同時にマナが自分探しをしているようでもある。サブタイトルが「喪失と再生」ということなので、マナはスミレの喪失に折り合いをつけられないのだろう。
マナが反応するのは遠野の言動だ。そこに彼女の問題の核心があると思った。
遠野の考え方は至極一般的だ。同時にどこかスミレを他人に見ている。そしてスミレの本心がどこにあったのかを考えようとしないことに苛立ちを覚えているようだ。
スミレはビデオカメラを持ち歩き、マナや遠野を撮っている。
スミレは言う「カメラを持つと落ち着く」「私たちは世界の片面しか見えてない」
マナ側から見たスミレとの思い出には、そこに起きたスミレの出来事は「見えていない」
それは作品の最後に、スミレが主体となっている出来事によって示される。
大雨の中、大きな荷物を抱えてマナのアパートに転がり込んだこと。
1年後にそこから出て、遠野のアパートに引っ越したこと。
スミレが撮った映像とともに、マナの記憶が足されて物語のパートが映し出される。
スミレがなぜ死んだのかは後半まで明かされることはなく、その間にレストランの店長が自殺した。新しい店長の方針は、前の店長の痕跡を消し去るようだ。
悲観するマナに休暇を取るように勧める料理長。彼と一緒に出掛けた先が、マナが行けないままでいたあの大震災の津波で崩壊した場所だった。
集会場では津波による被害や肉親を失った人々が、それぞれの体験談を語る。
マナはそこで初めて「友人がここに出かけていなくなった」ことを話した。
早朝の海辺 荒波 少女のわらべ歌は鎮魂歌だ。
マナは少女に「久しぶりに夢を見た」という。それがあの1年間スミレと一緒に住んでいたアパートで眠るマナと、そっと横に座ったスミレの夢だ。
「またね」 スミレが別れを告げに来たのだろう。
目覚めたマナは青い服に着替えて、彼女のビデオカメラを取り出し、再生した。
次にスミレが主体の物語が始まるが、二人が出会うきっかけとなった「猫のポーチ」がこの作品最大の謎だ。
スミレは落としたポーチをマナが拾ったのを見るが、「それ私の」と最後まで言わない。
当然マナはそのポーチがスミレのものだとは知らないままだ。ところが遠野のアパートで遺品整理する段ボールの中から、このポーチが出てきた。ポーチを手にしたマナに当時の記憶がよみがえってくる。夢の中で。
「猫」はスミレが実家で買っていた三四郎と呼応する。三四郎は自分の存在を鳴き声で知らせるが、信頼できない人の前には出てこない。
スミレと最後になってしまったバス停。スミレはポーチのことを言いだそうとするが口をふさぐ。言おうとしたのは、「なぜマナを選んだのか」ではないだろうか? 捨てられていた三四郎がスミレを選んだように。
ポーチはスミレにとってもマナと出会うきっかけだった。意識的にマナを選択したのだ。ポーチはスミレにとって心と心をつなぐの糸のようなものなのかもしれない。スミレはマナに何かを感じたに違いない。
スミレには母との確執があった。実家を飛び出したのも母とのけんかだ。
彼女の心境の変化は、ロングヘアーがミディアムヘアーになって、ショートヘアになっていくことで表現されているが、段々と余計な部分がそぎ落とされて、「ありのままの自分」になっていっているのかもしれない。
マナもパーマを当てた髪から、ストレートヘアー、それが少し伸びてゆく。それはごく一般的な時間経過…のようだ。
スミレのチューニングの話 「ありのままの自分を引き出してくれる人に出会えるかも」
マナはもうすでに出会っていた。それがスミレだ。それはおそらくスミレも同じで、マナこそがスミレのありのままを引き出してくれた人だからポーチをしばらくマナに預けていたのだろう。
スミレは遠野に質問する。「アツシにインタビューしても楽しくない」「カメラがないとしゃべれないんでしょ」「一緒に暮らそうか?」「でも小谷と一緒がいいって」「ずっと一緒にいられるわけがない」
同じ場面の映像を2度繰り返しているが、マナの側とスミレの側との心境の違いがよくわかる。
マナにとってはそれらはただの偶然の出来事で、スミレの考えで、それはそれで仕方ないことだと考える。
スミレは意識的で、ポーチの持ち主を名乗らず、実家を飛び出しマナのアパートへ転がり込んで、彼氏を見つけ、一緒に暮らし始める。この時スミレは自分に嘘をついたのかもしれない。本当は、ありのままの自分でいられるマナと一緒に居たいのだ。
しかし彼女の「本当の気持ち」はマナにも遠野にも、母にさえも分からないのだ。
ここで遠野の考えとマナの考えの対立がリアルに感じる。「スミレの本当の気持ちを知る必要はあるのだろうか?」
「心から信じている」飼っている猫や犬との無償の愛… そして、マナに対する心からの信頼と愛情。それがマナの夢の中で登場したスミレが、マナにキスをしようとする場面に現れている。考えすぎて自分を見失っていたのはスミレだったのだ。
実家、三四郎、母、マナ、遠野… それらを一旦置いたまま一人旅に出たスミレ。
彼女の目的は何だったのだろうか? それは、自分についた嘘と自分探しだったと思う。
白装束を着た老婆は言う「電車は来ない」 スミレは「思い」を抱え込んだまま逝ってしまう。
彼女と1年間暮らした学生時代からのアパートは、今でもマナは住み続けている。彼女からの伝言もずっと消せずにいる。
そしてやはり冒頭のアニメの続きがあった。ショートヘアの人物はスミレだった。彼女に駅で話しかけてきた老婆は、白い着物を着ていた。アニメの白骨と菊の花。スミレは菊にも白骨にもならず、肉が朽ち果て海になって、そして海の中から海辺に立つマナを見ていたのだ。マナを見届けたスミレの雫は、天へと昇り、やがて雨とともにマナの庭先の植物に注がれる。
青い服を着たマナ。夢でスミレと邂逅した後、ビデオを撮り始めた。
「覚えていますか、初めて出会った時のことを? そちらからこちらは見えますか?」
そしてタイトルへとつながる。
レビューを書きながら涙がこぼれてくるが、それが何を意味するのか自分でもわからない。
難しすぎて、妙に切なくて、涙だけがこぼれてくる。
もう一度歩き出すために
すみれは真奈を愛していたのだと思う。そして、真奈も。大切な人がいるか問うすみれに、「フフ、秘密」と誤魔化し仄めかしたのを、勘違いして遠野の所へ出て行ってしまったのだろうか。引っ越しの時は気まずかったけど、そのまま別れてしまったのではなくて、少し大人になってから再会してはいる。けど、わだかまりはあったのかな。
それが引っ掛かっているから、真奈は先に進めなかったのだろうか。何度も探しに行って、見つからなくても諦めきれなくて、そのうち何を探しているのか、本当は何を見つけたいのかわからなくなって、探しに行くのをやめて、でも踏ん切りはつかなくて。遺品の整理も納得できなくて、悶々と過ごしていた。
身近な人の突然なできごとをきっかけに、もう一度、真奈の心が動き出す。大きな喪失で喪失感を埋めるかのように。他の遺された人々、地元に伝わる童歌で、生命の循環を知る。輪廻転生。止めていた録画をもう一度回すことで、すみれの知らなかった一面を知る。そうして自分も、もう一度歩き出すことができる。
人間の感情は単純ではなくて、辻褄も合わないし一貫してない。その揺れが物語をわかりにくくしていて、深く考えるきっかけをくれる。良く出来た映画。素晴らしい。
人の死
人の死って、本人は死んで終わりですよね。
だけど、残された人はそこで終われないわけです。
それでですね、残された人にとっての死って、溶けるように終わっていくんじゃないかと思ったの。
すみれの母や遠野は、自分の中ですみれの死を溶かしていったんだと思う。
一方の真奈は、終わらせたくなかったんじゃないかな。
それでも、運命的な出会いをした日の天気が思い出せなくなるように、少しずつ溶けていってしまうんだと思うし、そうであるべきなんだとも思う。
あの震災から十年以上が経って、いなくなってしまった人の記憶が、残された人の中で、能動的にも受動的にも溶けていってるんじゃないかな。
それでも、終わらせてはいけない部分も有って、そういう時に映像の力は、手助けになるんだと思うの。
この映画の記憶も、やがて私の中から消えてしまうかもしれないけど、例えそうだとしても観て良かったと自信を持って言える映画かな。
映画を観た。という気持ちになった
今、観てほしい映画
原作を読んでないので、わからないが、震災津波の問題と、親友の問題が...
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