「Gucciを題材に採った、リドリー・スコット流の『ゴッドファーザー』。アダム・ドライバーがはまり役!」ハウス・オブ・グッチ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
Gucciを題材に採った、リドリー・スコット流の『ゴッドファーザー』。アダム・ドライバーがはまり役!
当方、GucciもPRADAもエルメスもさっぱりわからないけど、
まあ、どういう映画か、監督が何をやりたかったか、というのは、
一言で説明できちゃうのではないか。
「自分なりの『ゴッドファーザー』を撮りたかった」
これに尽きるでしょう(笑)。
要するに、一見すると別の映画に見えるような題材で、パクリだと思われないような仕様で、自分も『ゴッドファーザー』みたいな映画を撮りたかった。
そういうことだと思う。
両作の類似は、「アメリカに住む」「実在したイタリアン・ファミリー」をモチーフに、抗争・内紛を「実録タッチの」「長尺で」再現する映画、という大枠にとどまるものではない。
稼業を継がないで別の仕事をやっている子ども(第一作前半)。
跡取りの問題でやむなく稼業に参加する子ども(第一作後半)。
息子の代わりに優秀な甥っ子を重用するおじさん(第三作)。
仕事にのめり込むうちに嫁と疎遠になる夫(第二作)。
だんだん性格は酷薄になるが一人娘には子煩悩な夫(第二作)。
古くから仕えて一族の信頼を得ている弁護士(第二作)。
仲間内での経営権をめぐる株式の争奪戦(第三作)。
ヒットマンに依頼しての自らの近親者の暗殺(全作…(笑))。
おおむね『ハウス・オブ・グッチ』を構成する要素で、『ゴッドファーザー』に出てこない要素はなく、強いて言えば「上昇志向の強い女性」パトリツィアがキャラクターとして目新しいくらいだ。
逆に言えば、そこで「新味」を出せるという判断があっての「Gucci」という題材選択なのだろう。
二度登場するアルドの誕生日パーティは、明らかに『ゴッドファーザー』の冒頭25分間におよぶ伝説の結婚パーティ・シーンへの目配せだし、マウリツィオが逃亡中に別の女とねんごろになる流れも、マイケルのシチリア行きと現地での結婚を彷彿させる。何より、アル・パチーノにアルド役をオファーしている時点で、リドリー・スコットが『ゴッドファーザー』を土台としているのは明々白々である。
それに、パンフで監督も出演者も寄稿者も、『ゴッドファーザー』の『ゴ』の字も出してこないのがじつに怪しい(笑)。なんぼなんでも、これだけ似てて誰も触れないってのはさすがにおかしいだろ。それだけ「口にしちゃいけない」くらいバリバリに意識した作品だ、ということなんでしょうね。
実際のところ、『ザ・ソプラノズ』みたいにギャングものに振らない形で、イタリアン・ファミリーを題材に採ったサーガをやりたいとなると、「ブランド創業家一族」ってのはとても面白いチョイスだと思う。まして現実で人殺しが起きているとなればなおさらだ。
で、観てどうだったかというと、とても面白かった。
てか、封切り映画に4点以上つけたのって、ほんとに久しぶりかもしれない。
こういう「家」の栄枯盛衰のサーガは、それだけで十分面白いのだが、とにかくキャラクターが揃っていた。レディー・ガガの山村紅葉みたいなおばちゃん演技も、ほぼ『ゴッドファーザー』と地続きのアル・パチーノ(マイケルとはキャラが違うけど)も、特殊メイクでデブったあげく禿らかして変人演技にいそしむジャレッド・レトも十分楽しかったが、なんといってもアダム・ドライバーのマウリツィオ役がカイロ・レン役の100倍良かった!(まああれは映画もゴミだったけど)
こういう役やらせたら、この人こんなにはまるのか。ちょっとはにかんだような笑みが、なんとも言えず良い。てか、もともとこの人の顔って、生粋のアメリカ人なのになんかボッティチェリとかが描きそうなイタリア人顔なんだよね。
人間ドラマとしても、キャラクター自体は濃いめながら、ストーリーラインやダイアログはむしろ抑え気味で、奇矯さや外連味が案外薄味なのが印象的だった。どちらかというと、ごく普通の人間が、最初は勢い込んで新天地で仕事に邁進するのだが、分不相応に大きな財産と重い責任を与えられるなかで、そのうちどこかしら歪んで、壊れて、やがて機能不全に陥っていく、という一連の流れがきわめて自然に、スムーズに描かれていたと思う。
ああ、俺の前の前の女上司も、昇格したときは物分かりときっぷの良い、やりやすい人だったのに、どんどんプロジェクトを背負う責任の重圧のなかでおかしくなっていって、最後はずっと声ふるわせてみんなに怒鳴りちらしてたなあ……とか(遠い目)。
リドリー・スコットは巨匠といいながらも、かなり当たりはずれのある監督だ。
この人のことを「映像派」と呼称するのはまさに言い得て妙というか、言葉の通常の意味以上に彼の本質を言い合てていて、要するに彼の才能はひたすら「何をどう撮るか」に全振りで偏っていて、シナリオの出来にはあまり鼻の利かない監督なのである。
だから、『エイリアン』のダン・オバノンみたいに、脚本家に恵まれると圧倒的傑作を生みだすが、そうでないと「なんだこれ」みたいな映画も撮ってしまう。
その点、今回のシナリオは上出来で、安心して流れに身を任せることができた。
映像に関しては、いつものごとく文句のつけどころはあまりない。どんな題材を渡されても、それに見合った撮り方と画格と色調を的確に見出して形にしてみせる能力は、さすが若いころに数千本のCM撮影で鍛えられただけのことはある、臨機応変の万能ぶりだ。
あと、全編を通じて「概ね誰かが必ず煙草を喫っていて、煙が画面のどこかでくゆっている」のも、時代感と雰囲気づくりにつながっている点は見逃せない。煙草がないときは、外で湯気や蒸気があがっていたりと、とにかく「スモーク」がGucciのひとつの表象として、映画内を通じて機能しているのだ。
まあ、『ゴッドファーザー』と比べれば、ひりひりしたところはないし、人もバタバタ死んだりはしないので、しょうじき全体にノリが「軽い」感じも否めないが、あの有名なブランドの内部がこんなしっちゃかめっちゃかになっていたのだと知るのは純粋に面白かった(ちなみに全く知らなかった)。
話の流れが自然すぎて、体感的にはあまり時間を経ずにイベントが展開しているように思えるのに、気づくとみんなどんどん齢を取って20年以上が経過しているのはちょっと気になったが、これは欠点というよりむしろ美点なのか。
あとクラオタとしては、オペラ・アリアが適材適所というよりは、ちょっとバカにしてるみたいな陳腐さを付与する手段として使われているのがひっかかった。手品で「オリーブの首飾り」かけて客が笑うみたいなノリで、なんかちょっと感じ悪いというか。
映画を観たあとでネットを漁っていると、創業者の子どもがアルド、ロドルフォ以外にも何人もいたり、パトリツィアとマウリツィオのあいだにも、女の子が「二人」いたりと、結構現実の細部を映画化に合わせていじってあることがいろいろわかって面白かったが、パトリツィアってとっくに釈放されていて、今もミラノの街中を肩にオウムを乗っけて歩き回っているらしい。自身を主人公とした映画化に関しては「決してうれしくはない」とか述懐してるんですって。マジすか……w
考えてみると、現在も営業しているビッグ・ネーム・ブランドのスキャンダルを、当の殺人犯が存命のタイミングで実名で映画化するとか、日本じゃほぼありえないよなあ(笑)。
あれだけポリコレとか人権とかには気を使って映画つくってるのに、こういう実在の人物と会社を晒しあげするような攻めた企画は許されちゃう欧米の風土って、けっこう不思議かも。
そういや、パンフレットで猿渡由紀さんが、イタリア訛りの英語で撮られたこの映画について、「この話はイタリア人監督がイタリア人キャストで作るべきだったという意見が聞かれるのも、当然のこと。実際、わざわざイタリア訛りにした英語を聴くのは、英語圏や、イタリア人からすれば耳障りなもの。いつかイタリア人監督がイタリア人キャストでこの話を語ることがあれば、ぜひ、それも見てみたいものだ。それは逆リメイクというより、正統派のバージョンと呼べるのかもしれない」とか書いておられた。
いやいや。ちょっと待ってほしい(まあ、言いたいことはわかるけど)。
本人たちは裏テーマとして『ゴッドファーザー』みたいな映画を撮りたくて撮ってるのに(そのための題材としてGucciは選ばれただけで、別にGucciが描きたいわけではない)、なんでわざわざイタリア語で作んなきゃならないというのか。むしろ、これがやりたかったんだと思うけどなあ、これが。
……いや、でも、たぶんこういう人たちにとっては、作り手の意志とかはどうでもいいんだろう。正しくあるべき部分が、正しくないから物足りないと言ってるわけだから。
しょうじき、こういう「あるべき」論で語られる映画評ほど、当てにもためにもならないものはないと、常々思っております。