「面白かったけど、義兄妹の逃避行はさすがにどうなのか?? 日高暦と佐藤栞の愛の物語。」君を愛したひとりの僕へ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
面白かったけど、義兄妹の逃避行はさすがにどうなのか?? 日高暦と佐藤栞の愛の物語。
『僕が愛したすべての君へ』を池袋で観た翌日、こちらは上野で鑑賞。
不思議なもんで、キャラデザは『僕愛』と一緒なんだけど、こっちはあんまりあごトンガリウイルスに汚染されてる感じがしないんだよなあ。
エッジの立った鋭角で描くことを巧みに避けてて、瞳も楕円形。作監が違うと、同じキャラデザでもこうも生かし方が変わってくるという好例だ。
(以下、『君愛』、『僕愛』双方のネタをバラしまくっていますので、ご注意ください。)
総じて、アニメ映画としての出来だけで言えば、『僕愛』より『君愛』のほうがずいぶんと「こなれた」仕上がりを示していると思う。
さすがは、有名原作の癖のないアニメ化においては、渡辺歩と双璧を成すカサヰケンイチ(『メジャー』『ハチクロ』『のだめ』『バクマン。』……すごいキャリア!)。最近しばらく仕事ぶりを目にしていなかったが、健在なようで何よりだ。
まずは『僕愛』より画面に躍動感があるし、キャラの動きも自然に感じる。
暦と栞が成長しながら親密さを増していく様子を、音楽に載せながら早回しでまとめていくあたりは、新海誠が『君の名は』の序盤でやったのと同様、「アニメっぽさを付加する」絶妙の効果を上げている。それ以降のパートも、テンポやリズムが『僕愛』より「アニメ寄り」なので、全体的に安心して観られるとでもいうか。
そもそも、もともとのお話自体が、『僕愛』より、ジュヴナイルの王道をいっている。
宮崎駿から雨宮慶太まで、オタクならだれでも大好き、「黒髪、白ワンピの美少女」栞。
トリュフォーの『あこがれ』を想起させる、「自転車少女」への熱いフェティシズム。
甘酸っぱい逃避行、SFガジェットの導入、……そしてヒロインの突然の死。
彼女に起きる悲劇を回避するために、主人公の人生を懸けた戦いが始まる……。
物語に起伏があって、明快かつ困難な目的があって、能動的な主人公がいる。
当然、アニメとしては作りやすいし、エンターテインメントとしても仕上げやすい。
ただ、序盤で激しくひっかかったのも、『君愛』のほうだったりするわけで。
原作を読んでいないので、もともとそんな話なのか、アニメ版で改変があったのかは知らないが。
とにかく、二人がIPカプセルに入るまでの一連の流れが、あまりに頭がワルすぎて、ドン引きしちゃったんだよね。
義兄妹だと結婚できないから逃げようとか、
このふたりは、いったい何を言っているのか??
真正のアホなのか?
昭和だろうが平成だろうが、両親の再婚で義理の兄妹になった連れ子どうしが、「兄妹になっちゃったから、もう結婚できない」とか思い詰めて逃避行にでたりとか、さすがにしないと思うんだ。
この展開ってたしかに『ママレード・ボーイ』とよく似てる。でも、あれだって、連れ子どうしだと思ってた間は二人はふつうに好きどうしで交際してたけど、「本当は異母兄妹なんだ」と思い込んだから、遊が京都に逃げたり、遊と光希とで九州に逃避行に出たりしてたわけだ。
すなわち、通例「血がつながった兄妹」とわかって初めて持ち上がるはずのインセスト・タブーの動揺が、「親どうしが結婚する」って聞いただけで発動して二人が突っ走っちゃうってのは、やはりどう考えてもおかしい。
あそこは、「じゃあ私たち結婚できないね」じゃなくて、ふつうなら「じゃあ私たち結婚できない『のかな?』」だ。で、調べるなり、訊くなりする。それで、終わりだ。
よほど「できない」と信じ込んでしまう外的要因(親にそういわれるとか、そういう小説を読んだばかりとか)か内的要因(頭が超悪いとか)があるなら別だけど。少なくとも二人は科学研究所の所長の娘と副所長の息子で、とくに暦はトップ合格するくらいの秀才だ。中学生だからって、あんな馬鹿な思い込みをするような子たちだとは、とても思えない。せめて、「小学生のとき」の話っていうのなら、まだなんとかこの流れでも呑み込めるんだけど。
それに、たとえ彼らが「結婚できないと思いこんだ」としても、そこから一足飛びに「じゃあ一緒に逃げよう」とか、「親どうしが結婚しない平行世界に行こう」とかなるのも、ドラマツルギーとしては相当におかしいと思う。
二人とも親とは大変良好な関係にあるわけで、普通は「パラレル・シフトしよう」ってなる前に、さすがにいっぺんは親に訊くよね? 二人がやろうとしてることは「今の親」を捨てるのと一緒だし、「パラレル・シフトする」ってのは相当の覚悟が要ることだと思うんだが。しかも、一見して一人用のカプセルに二人で入るとか、どこの世界に飛ばされるかもわからないのに「漠然と同じ世界に行けるって信じてる」とか、やることなすことあてずっぽうすぎる。だいたい、小学生のときに栞がパラレル・シフト実験に暦を巻き込んだのって、「ひとりじゃ機械を操作できないから、お互いで操作しあってパラレル・シフトしよう」って話じゃなかったのか?? 二人で入っても作動させられてるじゃん。
結局、「中学生二人がIPカプセルで事故る」というシチュエイションを作るために、作り手が後付けでいろいろ適当に考えたようにしか思えないんだよね……。
と、このへんでがっつり「ひっかかって」しまった僕は、その後、作中ずっとモヤモヤを抱えたまま視聴することに。きっと、あんまり気にならなかった人も多かったろうし、まあ、そのへんはひっかかった僕が悪い。
他のところでも思ったけど、なんか暦って、本来「天才タイプの頭の良い主人公」って設定なのに、その割に行動が常にお粗末というか、「後先考えずに突っ走るタイプの元気っ子主人公」がやるような言動が多いというか。その辺のバランスの悪さが、ずっと気になるようになってしまった。
あと、自分は残念ながら理系脳ではなく、SF系のうんちくにもとんと疎いのだが、パラレル・シフトの仕組みについても、よくわからない部分が結構多い。
たとえば、暦と一緒にパラレル・シフトした栞の虚質が入った状態でいきなり事故にあったとして、その栞に入られて追い出されたほうの栞の虚質はいったいどうなってしまったのか? 少年時代の暦の例からすれば、栞Aが栞Bに入れ替わった瞬間、栞Bの虚質は栞Aの身体(IPカプセルの中)に飛ばされてるはずなのでは? 要するに、栞Aの虚質は事故で死んだ段階で「消滅」して、戻る身体を喪って「幽霊化」しちゃうのは、栞B(勝手に別平行世界の栞にパラレル・シフトで追い出された栞)のほうではないのか? このロジックは間違っているはずなのだが、どう間違っているのかが、よくわからない。
タイム・シフトについても、おじいちゃんの暦が栞を連れて過去に向かい、本人は記憶も何もなくしてReDiveするっていう理屈はなんとなくわかったんだけど、それだと過去の暦の虚質ってどうなっちゃうんだろう? まさか死にかけてる未来のおじいちゃんの身体に転生するのか? それだとさすがにあんまりじゃないかと思うんだが(笑)。
過去の栞の虚質がどうなるのかもよくわからない。今度はトコロテンみたいに押し出されて、子供の栞が幽霊になってしまったりして。「同化」するにせよ、「上書き」されるにせよ、なんだかどうしても理不尽な扱いな気がしてしまう。
結局、選択の数だけ平行世界は枝分かれしてて、暦に会わないまま栞が「幽霊化」しない世界線だって、「もともとある可能性の一つ」として存在していて、その世界線では、「もともと『僕愛』と同じ人生を暦と栞と和音は送っていた」わけだ。それをわざわざ別の平行世界から乗り込んできて「奪い取る」ことに、いったいなんの意味があるのか?
たとえば『Reゼロ』のように、死に戻りを繰り返しながら、特定の「クリア条件」に向けて試行錯誤するのなら、過去に戻る意味がまだあると思うのだが、Aの世界線で失敗したカップルが、単に出逢わない世界線Bまで戻って、記憶を失いながら「生き直す」だけなら、世界線Aの暦・栞にも、世界線Bの暦・栞にも、たいして利得はないような気がするのだが。
もちろん世界線Aの栞が「幽霊化」することは避けられるのかもしれないが、そもそも「可能性の数だけ平行世界が分岐する」のなら、この物語の二人がタイム・シフトできたところで、やっぱり「出逢ってしまった」世界線は、可能性のひとつとして形成されてしまっているのではないか?
と、まあ、ない知恵を絞っていくら考えても、どうも仕組みの大元がよくわからない。
すべての可能性に準じた平行世界があるのなら、そこを行き来する行為には、成功する未来を勝ち取る達成感というよりは、別の自分を押しのけていく身勝手さというか、独りよがりな感じのほうが僕のなかでは際立ってしまうということだ(実際、『僕愛』では、子供を喪った和音がやらかした所業として、「絶対そんなことをやってはいけない」って話になってたはずだ)。
そんなこんなで、王道のヒロインと、王道の主人公と、王道の展開のおかげで、基本的に青春アニメとして楽しく観ることはできたのだが、どうも心からハマることはできずじまいに終わった。
とくに、大人編に入ってからの、この世界線での和音の扱われようも、たいがいだと思うし。
「前世」で和音を「都合のいい女」扱いしたその「悔い」ゆえに、過去に転生した暦は、ReDiveした「栞と出逢わない」人生を「生き直す」にあたって、あれだけ和音に告白しつづけ、執着してみせたのではないか。要するに、彼は記憶を喪ってなお、和音に対する「罪滅ぼし」と「後ろめたさの解消」に励んでいるわけだ。
ついでに言うと、両親の離婚で付いて行く先が母親か父親かの差だけで、暦の性格やキャラクターがああも変わってしまうもんかな?と観ていて思うわけだが、あれも、ReDiveした暦が無意識のうちに「大人しく」「目立たないようにして」「栞に」見つからないようにしている、だから『僕愛』の高崎暦はあんなにキョドってて根暗なんだと考えればなんとなく合点がいく。
それと、もうひとつだけ。
『僕愛』の感想でも指摘したことだが、終盤になって「もう一つの物語」があれだけのボリュームでごそっと挿入されるのは、やはり相当に奇異な印象を受けたといわざるをえない。
とくに、『君愛』に挿入される『僕愛』の少年篇は、ほぼそのまんまのダイジェストになっていて、さすがに観ていてなんだか妙な気分になった。
ここまで懇切丁寧に「もう一方の物語」を紹介しないと、この映画×2って成立しないもんかね?
むしろ、いさぎよく「別の平行世界の話は、もう片方の映画で観てね!」で済ませたほうが、印象は何倍もよかったのでは?
自分は『僕愛』を観た「後」で、こちらを観たから、延々昨日と同じ話を見せられることにいささか辟易したし、『僕愛』を「まだ観ていない」客にとっては、概ねこれから何が起きてどうなって終わるかまで強制ネタバレされた映画を、このあと観ることを強いられるわけだ。
これって、ギミックがうまくはまっていない気がするのは俺だけか?
声優陣に関しては、主役のふたりとも「声質に関してはとても特徴的で良かった」と思うんだが、なにぶん技術的な部分ではかなりの違和感が残った(それでも宮沢氷魚くんは、たぶん『君愛』のほうが録りが「あと」だったのか、『僕愛』に比べるとずいぶん上手になっていた気がしたけど)。
一方、声優を起用した幼少時の暦(田村睦心)や、おじいちゃん役(西村知道)は完璧な仕上がり。
全体に無難な声でまとめてあったら、また映画の印象もちがったかもしれない。
なお、『俺愛』も『君愛』も、観客は9割20代の若者で、7割がたがカップルだった(若者比率が映画館内に増えると、こんなに館内にポップコーン臭が充満するのか、と)。となりのカップルとか、映画そっちのけでイチャコラしてたし。
オッサンは俺ともうひとりいたくらいで、些か気恥ずかしかったが、若い子がこうやって映画館に足を運んでくれるのは、本当に素晴らしいことだ。
いろいろ不満は書き立てたけど、ほぼ強制的に映画2本を観させるギミック自体は目新しかったし、大いにわくわくした。
ま、それでいいっちゃ、それでいいんだろう。