劇場公開日 2022年6月10日

「オリジナルでこの完成度なら大満足! でも・・・まさかこれで終わりじゃないよね??」劇場版 からかい上手の高木さん じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0オリジナルでこの完成度なら大満足! でも・・・まさかこれで終わりじゃないよね??

2022年6月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

原作未読。アニメは第1期~第3期まで、リアルタイム視聴済み。
結論からいえば、今回の映画版も大変面白かったし、大いにキュンキュンさせてもらった。
予備知識ゼロで観に行ってきたけど、帰りにパンフを読んだら、なんとこれ、アニメスタッフによる完全なオリジナル作品らしい。
原作者が内容にも脚本にも関与しないスタッフ・オリジナルで、この完成度の映画を作れるもんなのか。掛け値なしにすごいと思う。
これが作れるというのは、いかにアニメスタッフが原作を心から愛し、理解し、自家薬籠中の物にしているかの証左だし、原作者の山本崇一朗も虚心にうれしいんじゃないだろうか。

先にテレビシリーズのほうについて私見を述べておくと、
『からかい上手の高木さん』は、かなり「変わった」恋愛ものだと思う。
いわゆる「●●さん系」のハシリであり代表作であるが、後追いで出てきた他の類似作より、いろいろぶっ飛んでいるというか、特殊なくらいストイックなルールのなかで動いているのが特徴だ。

まず、この物語には、対抗馬や恋のライバルがいない。それどころか、ほぼ二人の関係性だけで物語が出来ている。通例の恋愛もので一般的な「AをとるかBをとるか」の要素を完全にオミットしているのみならず、周辺のキャラの扱いはほぼ「モブ」で、完全に「西片と高木さん」二人の距離感だけを追求しつづける超ミニマルなスタイルを貫いている。
さらに二人は、同時並行で連載されるスピンオフの存在によって、「最初からゆくゆくは結婚することがわかっている」。すなわち恋のゆくえについても、不安要素を一切残さない特異な恋愛ものだ。
要するにこの物語は、やがて結婚することになる中学生二人が、ほぼお互いのことだけを見て、恋愛感情を醸成させてゆく過程を、ひらすら微視的に追った、究極的に「閉じた」安定空間での恋バナということになる。

特異なのはそれだけではない。
たとえば、名前。
二人は今にいたるまで、下の名前が出てきていない。
これは、恋愛漫画&アニメにおいては異例のことだ。
なぜなら、「名前呼び」イベントというのは、きわめて重要な「心の距離の近づき」を表現するターニングポイントだからだ(最近のアニメだと『阿波連さん』でもやっていた。これは異性愛に限った話ではなく、『プリキュア』でも『リリカルなのは』でも同じことである)。
ところが、西片と高木さんは、いつまでも相手を苗字で呼び合う。
そこは頑なというか、原作者がそういう「世界観」としてソリッドに固めてしまっている。
これは、ある種の「絶対プラトニック宣言」といっていい。
二人は、「隣の席のクラスメイト」という関係性にアンカーをがっちり下ろして、その絶対的な安定感のうえで子供らしい恋愛感情を育んでゆく。そこには、「名前呼び」によって特別な関係に至ろうという能動的なモチベーションは薄い。あくまでここで描かれているのは、「お互い近くにいることで」だんだんと心も近づいていく過程であって、彼らは決して「恋に恋して」お互いを求め合っているわけではないのだ(その一面については、別に『100%片思い』への偏愛という形で、二次元方面のはけ口が用意されている)。
ちなみに、この徹底的に苗字呼びにこだわるカップルが、いざ結婚したスピンオフでどうしているかというと、両者は「お父さん」「お母さん」と呼び合っていたりする。一義的には、「下の名前を明らかにしない」原作者の方針に従っているわけだが、この意地でも下の名前で呼び合わないスタイルは、二人の在り方をよく表しているような気もする。
この二人はおそらく、踏み込んだ「名前呼び」の関係性よりも、「苗字呼び」、あるいは「役割呼び」のほうが、きっと安心できるし、ずっとしっくりくるのだ。
ちょうど中学のときに、それが本当は恋だと知りながら、ひたすら「からかい」というちょっかいに変換して、恋に恋の名をつけようとしなかった高木さんにとっても。
明らかに高木さんから明快な「モーションをかけられている」ことに無意識下ではきっと気づきながらも、意識上ではそれを頑なに「からかい」「勝負」としか認識しようとしなかった西片にとっても。

それから、『からかい上手の高木さん』は、ある意味きわめて「保守的」な恋の物語でもある。
その保守性は、ちょっと「こわいくらい」だといってもいい。
出てくる子供たちはみんな、純朴で、けなげで、悪意のかけらもない善良な存在で、
住んでいる世界(アニメでは小豆島)も、平和で優しく、良い意味での閉じたユートピア。
彼らは、その閉じた世界のなかで幼い恋をし、プラトニックに関係を育んでいる。
この物語の特異な部分は、それを「成人した後」を描くスピンオフによって、後づけで「全面的に肯定」し、「揺るぎない幸せ」の始まりだったとして事後確認している点にある。
徹底的に二人だけを見つめ合ってきた高木さんと西片は、無事ゴールイン。
西片は母校の先生に。高木さんはお母さんに。
成人したクラスメイトも、たいがい同じ町で生活しているらしく、真野ちゃんと中井くんも無事結ばれたっぽいし、ミナは幼稚園の先生、中井くんは西片の同僚の先生と、正直かなり「世間がせまい」。
かといって、閉じた田舎の生活で閉塞感や焦燥感に苛まれるような描写は、記憶の範囲では出てきていないし、中学恋愛の「儚さ」や「一回性」についてにおわせる描写もあまり出てこない。
じつは恋愛漫画、恋愛アニメにおいて、これはかなり珍しいことだと思う。
要するに、この話は「中学時代の幼い慕情」が「本当に結婚まで結びつく」だけでなく、それが半ば「当たり前」として認識されている世界線での物語であり、村落の内部で育った若者たちが、村落内で結婚し、その構成員として次世代を担っていくことが肯定的に認容された世界線での物語なのだ。成人した二人の「お父さん、お母さん」呼びも含めて、『高木さん』の世界観は、じつのところかなり古風な道徳観と共同体観に支えられているといっていい。
たぶん、観る人によっては、「古めかしい」と感じられるくらいに。
(僕個人はこういうユートピアが現代日本にあってもいいと思うし、あるといいなと思うけど)

もう少し突っ込んだことを言うと、この物語は、徹底的に「プラトニック」に作られているし、他の恋愛アニメのように、エッチなサーヴィス・カットや妄想シーンが出てくるわけでもない。
にもかかわらず、この二人は物語のゴールにおいて、子供を作ることがはっきりしている。
すなわち、潜在的にこの二人は「いつか事をいたす」ことが確定しているカップルなのだ。
表面上は、いっさい性的な要素を封印している(たとえば、高木さんは自分の胸がないことを気にしているそぶりを全く見せない)にもかかわらず、いつか二人が「結ばれる」ことを視聴者は承知している。このシチュは、ギャップがあるぶん、正直逆にけっこうエロい気もする。
中学にもなってグリコとかビックリ箱とかで遊んでる、幼稚園児みたいなネオテニー的恋愛をやってる子たちが、このあとホントに結婚するんですよ? 逆にいえば、このネオテニー的恋愛のなかには、やがて来たる大人の恋愛の要素が「まねび」として含まれているわけだ。
考えてみると、今回の映画で、西片が高木さんにからかわれるたびに、100円を貯金箱に支払って「腕立て伏せ」してるのって、明らかに無意識的なアレの代償行為だよね? なんか、とんでもなくエロくないすか??

とまあ、テレビ版の話をずっとしていても紙幅が尽きてしまうので、そろそろ映画の話を。
今回の映画は、3年生の夏休みのひとときを描いた、オリジナルストーリーとなっている。
前半は、原作同様の恋バナショートストーリー集。夏の虫送りのシーンがひとつの山場だ。
後半は、子猫をひろった二人の共同作業と、その終焉を描く。

前半に関しては、ほぼ何も文句のつけどころがない。
テレビでも結構オリジナル回(三期の文化祭とか)を作ってきた実績があるからか、脚本家も演出家も、「高木さん」らしさをホント良くとらえているんだよね。
二人の感情的な進展が、絶妙の匙加減で表現されていて、さすがだと思った。
あくまで、第一期の開始時点で先に「落ちてる」のは高木さんのほうで、「仕掛ける」のもつねに高木さん。西片はただ受動的にふるまっていたらよかった。
そのうち、西片が無自覚のうちに自分から「勝負」を仕掛けるようになる。
こうして、二人は「からかい」「勝負」を通して、「恋愛不随意筋」を知らず鍛え上げてゆく。
そこに、三期のイベントを経て、ようやく二人の間に「恋」の自覚が明確に芽生える。
映画は、ちょうどそんな時期の物語だ。
友情以上、恋愛未満の空気と、ときめきと、距離感。
脚本と演出は、そのあたりを微視的に描き込んでゆく。

「別離」というキーワードも、うまく組みこんである。
先にも書いたとおり、『高木さん』の世界観は概ね安息のなかに閉じているし、軽く宗教的といっていいくらいに旧弊だが、外部から絡むアニメスタッフにとっては、やはり多少は加味せざるを得ない要素だったのだろう。

映像的には、とにかく雨の描写、水の描写の美しい映画で、梅雨から夏に向けて観るのには最適だ。とくにプールのシーン。なんかエロいうえに神秘的だし、俺でもあんなんされたら、胸撃ちぬかれて溺れるわ。
それから、背景となる小豆島の風景がじつにノスタルジックだ。
とりわけ虫送りのシーンは、ガチで力のはいった映像表現になっていた。
ホタルのピークは6月下旬なので、7月2日の虫送り当日に観られることは少ない(でも冷夏ならあり得る)ってのも、たしかにそのとおりでなるほどと思った。
ただ、作中でツクツクボウシが鳴いているのは違和感あったなあ。ツクツクボウシは誰もが知る通り、晩夏の蝉だから。てか、少なくとも7月初旬に関西であれが鳴くことはまずないと思う。ニイニイゼミとかだと良かったのかな? それとも小豆島ならではの風土的特性があったりするのか?

まあ結局、原作のほうは別途、現在進行形でお話が進んでいるわけだから、映画版で勝手に殊更二人を近づけるわけにもいかないし、下手に喧嘩をさせるわけにもいかない。
そこがオリジナル映画の辛いところではあるが、ぎりぎり本筋に影響を与えない範囲で、うまくハンドリングできていたように思う。少なくとも前半は。

ただ後半は、少し安易というか、やりすぎの感じがしないでもなかった。
子猫のエピソードは、誰が観てもわかるとおり、「子育て」の「まねび」である。
ここで二人は、共同で子猫を「育て」、ともに「愛する」ことで、無意識下で「家庭人としての適性」を確かめ合うことになる。
おそるおそる「からかい」に仮託することでしか好意を表現できず、直接的な恋愛には猛烈に奥手だった二人が、「子猫」という共通の守るべきものに対処することで、いつもより素直に接し合い、いつもよりストレートに感情を出し合い、その結果としていつもより心を強く寄り添わせる。
それはそれで別にいいのだが、ここまでぎりぎりのところを攻めてきた恋愛もののイベントとしては、なんか直球すぎるというか、いままで微妙な駆け引きでやってきた部分を力ずくで近づけ過ぎちゃったというか、一足飛びで「ちぃのいる世界」に接近してしまった感じは個人的に否めない。

ラスト近くで二人が時間差をつけて交わす核心的な台詞も、聞きようによってはただのプロポーズにしか聞こえないわけで、急にここまでやっちゃってよかったのか、とはしょうじき思う。
少なくとも、三期も時間をかけてうだうだ積み重ねてきた「とまどい」と「ためらい」の長さを考えると、さすがに(オリジナルの枠内で)性急に事を運びすぎているような気がするし、ここまで二人に言わせちゃうってことは、もう今やってる連載はアニメ化しないつもりかなあ、という寂しさもある。

できれば、原作未読組でもあるので、今やっている原作が尽きるところまで、アニメ化はやってほしいというのが本心なので。
せっかく映画も当たったことだし、ぜひテレビ版の続きもお願いしますね!!

じゃい
じゃいさんのコメント
2022年7月14日

ken 様 ありがとうございます! そういっていただけると嬉しいです。「高木さん」は観ていて、すごく郷愁を誘われるんですよね。いつも自分が田舎に残ったまま上京しなかったIFの世界線を夢想しながら観ています。

じゃい
kenさんのコメント
2022年7月13日

とても良い分析ですね。この作品を見る私たちが、2人の関係をホッコリと見守っていけるのは、映画での告白から10年後まで、他のライバルが登場して2人が心変わりしたりしない、西片も高木さんも面と向かって「付き合ってください」などという必要のない、穏やかな関係が保証されている安心感があるからでしょう。
かつての日本の男女の交際はこんな感じだったのかも知れません。

ken