あのことのレビュー・感想・評価
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逃げられない女性、消される命
主人公アンヌを演じた、アナマリア・バルトロメイの体を張った演技がすごい。前半はアンヌの行動について頭の片隅であれこれ考えていたが、実際に中絶をする後半はそんな余裕がなくなってしまった。
女性の体を持つ人間は、その体が起こす自然現象の前で孤独だ。日常である生理でさえ、女性同士の間でもその痛みや出血の度合いは千差万別。ましてや中絶が犯罪である60年代フランスでアンヌのような立場になれば、その孤独と不安はすさまじいものだろう。妊娠に至る経緯の是非を超えて、そんな彼女の心身の痛みを主観で見せられる100分間だ。
アンヌの妊娠の原因になったセックスについて、あまりにアンヌ側にも愛がない様子でちょっともやもやしたが、個人的な価値観で見方を固定する前に、背景を考慮してみる。
性教育が浸透してきた現代と違って、性交渉がもたらす結果についての想像力は、情報が少ないゆえに大学生でも乏しかったのだろう。針金を突っ込んだり怪しい堕胎方法に頼りながら「いつかは出産したい」と無邪気に言う様子にも、知識の少なさを感じる。
そもそも、労働者階級の女性が大学で学ぶ、ということ自体のハードルが高かったであろうからなおのこと、どんな中絶手段を使ってでも大学での学びを手放したくなかったのだろう。
だったらなおさら性交渉に慎重であるべきだったのでは、とも思ってしまうのだが、アンヌはそういう後悔はしないタイプだ。彼女の事前の認識が甘かったとして相手の男もそれは同じか、当事者感覚はさらに薄い。お互い低い認識で同じことをして、命(胎児を含めて)に関わる結果は女の体にだけ刻まれる。その点では、不公平だと口にしたくなる気持ちも理解出来る。
ただ、当時の感覚と彼女の若さでは難しかったのかもしれないが、「主婦になる病」の原因以外の存在意義を持たないまま消えていった胎児の命が、人間扱いされていないのが苦しかった。
中絶の権利を語る時には、(レイプなどによるやむを得ないものを除いては)中絶しないですむにはどう行動すればよいのかという内省(男女ともに)と常にセットであってほしい。そうでないと消される命が報われないのではとどうしても考えてしまう。
アンヌはレイプや強要ではなく、気軽な性交渉の結果ああなっていたが、自由に性交渉する権利が子供の命を上回るとは個人的には思わない。男は自由にやってもリスクが少ないのに女だけこんなふうになるのは不公平だ、男が悪い、と言い続けても体の作りが変わるわけではない。結局、自分の体は自分で守るしかない。
針金を使うような堕胎方法の荒さは、安全かつ合法的に対応出来る方法がない時世だったので仕方がないとする。それでも、妊娠発覚後にも誘われて結局セックスをするなど、アンヌが自分の体を大切にしないところも共感を遠ざける一因になった。
とはいえ迫真の演技には十分引き込まれて、中絶の不安や恐怖とはこういうものか、という実感のようなものがあった。そこはたくさんの人に観てほしいと思えた作品。
理解のない人は現代にもいる
映画を観て大概の場合は、本作の主人公アンヌが講義で聞いていたようなアプローチ、つまり、どんな物語だったのか、や、テーマやメッセージは何か、とか、見所は?他の作品と比べて特別なところは?などといった具合でみている。
一緒に観ている妻も似たようなアプローチだ。
しかし、本作に限って妻は、もっと感情的に、身につまされるような感覚の心情を私に述べた。
アンヌの心境も、妻の言も、本当に理解することは難しいかもしれないが、確かに、この作品を観ている間の息苦しさは感じずにはいられない。
この作品の内容を完全に現代に置き換えることは難しいだろう。それでも、女性の選択肢の少なさという意味では現代でも解消しきれていない地続きの問題である。
本作の製作国であるフランスはもちろん、日本よりも性差について進んでいる他の欧米諸国でもそれを訴えようとしているのだから、もう少し何とかしようと意識を変えていく必要を感じる。
既に書いたが、観ている間ずっと息苦しい作品だ。
せめてもの救いが最後の医師のセリフだ。それで安堵してしまったのだからこの作品の閉塞感は恐ろしいものがある。
大切な命の母なるべき人生か⁉️
1960年代のフランスだと堕胎は法律違反。
施術した医師と受けた本人の女性が刑務所行き、となったらしい。男性が対象とならない、というおかしな法律。
賢い前途有望な女子大生が、妊娠してしまい、苦悩していく様子を映し出していく。
本当に女の性をちゃんと見極めるべきであると思った。堕胎を罰する法律を制定したのは男たちじゃないかと。女の意見を聞かずして。
堕胎は子供を殺すことになるから、むやみに堕胎してはいけないという意味合いはわかる。
しかし、妊娠に繋がる性行為は男女二人でするのだから、
責任は半々であるべきであるのにもかかわらず、ほぼ女性に肉体的にも、社会的にも負担になり、自身の将来を考える主人公などにとっては、苦悩することになる。
男性は気楽だ。言うこと聞かないなら会わないと逃げ出すこともできる。
妊娠出産が、
全てにおいて男女にきっちりと公平なら、
罰する事も受け入れられよう、もちろん男女平等に。
だが、現実的には違う。
ならば、当時の法律は間違っていると言えよう。
主人公本人が、どうにか自分で堕胎しようと試みるシーン、観てられなかった。
結局失敗する。
親に打ち明けられず、本やアクセサリーなど自分の持ち物を売って費用を工面し、
ヤミのところでの施術も大丈夫かと思うような場面だった。
失敗し、二度目命の危機に。
決して軽はずみに堕胎するのでは無いなら、法律を変えるべきだと思った。
しかし、主人公が避妊せずに性行為をするのも、向こう見ずで運を天に任せているような会話など、性の乱れは戒められる必要があると感じた。。主人公本人が命の大切さをどう考えているのかも描いて欲しかった。
女性にも男にも痛々しく突き付ける“事件(あのこと)”
新たな生命の誕生。それはこの上なく幸せな事。
…と思っているのは、愚かな男の妄想に過ぎないのかもしれない。
そもそも男が出産する訳ではない。身体の異変、妊娠や出産への不安。ましてや想像を絶するという産みの苦しみ。
男なんて種を植え付けるだけの傍観者に過ぎない。
勿論、子供を欲し、愛し合う夫婦だったら何の弊害もない。
が、それがもし、未婚で、望まぬ妊娠だったら…?
中絶が法律で禁止されていたら…?
今も法律で中絶が禁止されている国は多い。
1960年代のフランスもそう。
大学生のアンヌ。ある日突然、自分が妊娠している事を知る。
診察した医師には恋人も性行為もないと言ったが…、心当たりあり。
非常に困った。と言うのも、アンヌは成績が優秀で、進学を目指している。
いずれは愛する人と出会い、その間に子供を望む時が来るかもしれないが、それは今じゃない。進学という道を行きたいのだ。
まさかの望まぬ妊娠。
手段は一つしかない。が、法律で禁止されている…。
作者の実体験を基にした小説の映画化で、タイトルは“事件”。確かに本人にしてみれば、“事件”だ。
邦題は“あのこと”。誰にも知られてはいけないという意味合いだろうが、この邦題センスも悪くない。(インディーズ作品では優れた邦題が多い。それが何故メジャー作品になると時折首を傾げたくなる邦題が多いのか…?)
そんなアンヌの12週間に及ぶ“事件”級の“あのこと”…。
印象的なのは、カメラがアンヌに密着型。さながらリアル・ドキュメンタリーを見ているかのような臨場感。
その手法は、アンヌの一つ一つの感情をも掬う。
呆然、戸惑い、不安、焦り、もどかしさ、苦悩…。
それらがアンヌの息づかい、汗、体臭まで漂ってきそうなほど、ビシビシと伝わって来る。
尺は100分ほどだが、見てるこちらもアンヌと一緒になって苦闘の12週間を体感。
痛々しいシーンや目を背けたくなるシーンもある。
もし“やったら”逮捕されてしまう。よって、医師は何処も誰しも拒む。
アンヌは自分で中絶を。熱した鉄串で…。((( ;゚Д゚))) 胎児は元より母体の方が心配。
失敗。仕方なく限られた友人知人に事情を打ち明ける。ほとんどが助けを拒むが、ようやく遂に、“してくれる”人を紹介して貰う。
大切なネックレスや本を売って資金を集め、指定された場所と日時へ。
言うまでもなく、違法。周囲に聞こえないよう、どんなに苦痛でも声を上げない事。万一の事があっても自己責任。
耐えに耐え、処置は終わった…筈だった。不十分だった。
何だか、何としてでも堕ろしたい母体と何としてでも産まれたい胎児の鬩ぎ合いのように感じた。
アンヌの身体に異変。突然、流産。一瞬だが“それ”も見せ、衝撃…。
体調が悪化。意識が朦朧としていく…。
同じく中絶を扱った『ヴェラ・ドレイク』『4ヶ月、3週と2日』。凄まじい出産シーンの『私というパズル』…。
これらの作品のリアルさ、生々しさ、衝撃は尋常じゃない。並みのホラーなど比じゃない。
如何に作り物のホラーが安っぽいか。実話でないものもあるが、迫真で恐ろしさに押し潰されそう。
もし私が女性だったら、本作を見たら、妊娠する事が恐ろしく感じてしまうだろう。絶対、中絶なんてしたくない、と。
それをひしひしと感じさせたオドレイ・デュワンの演出。
全編出ずっぱり。アナマリア・バルトロイの熱演。
二人の女性の才能が源となり、本作を確かなものにしている。
妊娠全てがそんな恐ろしい事ではない。初めに挙げたが、本来は喜ばしい事だ。
賛否分かれる中絶問題。産まれてきた生命を“殺す”なんて…。だけれども、どうしてもどうしてもそうしなくてはならない状況の人たちも居るのも事実。
本作はその是非を問う作品ではない。本作が訴えるもの…
結局全てを負うのは、女性だ。苦悩や実際の痛み…全てを負う。現に本作で、相手の男は何をした? 男どもよ、知らぬフリをするな。知れ。
その時だけの快楽や勢い。無理矢理強制されたのなら話は別だが、受け入れた側も“想定”して何の防止もしなかったのか…?
アンヌも妊娠してる身ながら男と行為に及ぶ。人の三大欲求だから抑え切れないのは仕方ないとしても、現状が現状だけに…。
どっちがどっちと否を明確にしておらず、見る側に委ねる。
いつ突然、我が身やあなたの身に起きるかもしれない“あのこと”。
“それ”がどういう事なのか。
男はともかく、女性にも痛々しく突き付ける。
痛みと傷み
思春期の女の子が最も恐れるのが
「生理が来ない」なんじゃないかと思う(笑)
※もちろん性体験あればって事だけど。
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1960年代のフランスは中絶禁止で
発覚すれば本人はもちろん処置した者も禁固刑。
近年、アメリカで大きな話題になっていたのは
記憶に新しいところではあるけど、
如何なる事情があろうともって事なのか?
宗教の問題もあるのだろうけど、少々理解に苦しむ。
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アンヌは成績は優秀であっても
決して「優等生」という感じではないので
自業自得感はあるのだけれど、
誰にも相談できず、
刻一刻とタイムリミットが近づく恐怖感
絶望感なんて
男性には全く理解できないものだろう。
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親友に告白しようものなら、
友達の縁を切る勢いだし、
男友達に相談したら
「妊娠してるなら大丈夫じゃん」と
体を求められる始末。
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「いつか子どもは欲しいけれど今じゃない」
「人生を引き換えにしてまで」
「不公平だ」の言葉がリアルで等身大。
遠距離恋愛中の彼氏が放った
「傲慢だな」とは
一体誰に向かって言ってるんですか?と言ってやりたい。
とはいえ、
消防士とのあれはアンヌの浅はかさが鼻に付く。
反面、安堵からなのかもしれないけれど軽率です。
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カルテに書かれる言葉がアンヌの生死を
(肉体という意味ではなく)
決めることになるが、
あの場にいた医師が、唯一アンヌの状況を
理解し親身になってくれていたあの医師で
あったと思いたい。
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原作者のエルノーは現在82歳。
自身の経験をもとに女性の”性”に焦点をあてた本作は、
1964年の3か月間の間に彼女が経験した何もかもが
見事に詰め込まれている。
この画角で表現したこと
観始めて早々、画角の狭さに気付いた。
印象としては正方形に近い。
調べたら1.37:1とのこと。
主人公は予期せぬ妊娠をした大学生アンヌ。
物語の舞台は60年代フランスで、当時、中絶は法律により禁止されていた。
アンヌは教師を目指している優秀な学生。
だが、妊娠、出産となれば大学を中退せざるを得ない。当時、女性にとってそれは主婦になるか、または工場などで働く労働者になることと同義だった。
物語の流れとしてはタイムリミット・サスペンスである。
妊娠週の進行がテロップで表され、時間が、着実に主人公を追い詰めていく。
そこに、この画角の狭さが効いている。
画面の窮屈な感じが、緊迫感をよく表しているのだ。
どこにも持って行き場のない苦しみ、心の余裕のなさ。
そして心理面だけでない。
中絶手術が禁止されている以上、主人公には取り得る行動の選択肢がほとんどない。つまりどうにも手の打ちようのない、いわゆる“詰んだ”状態にあるのだ。
こうした状況を本作は実に巧く表現していて、終始ヒリヒリとした感覚が狭い画面から溢れ、観るものに迫ってくるのだ。
加えて、本作にはたびたび主人公のクローズアップがある。
そして時間の進行とともに、彼女の苦悶の表情は深まる一方なのだが、この画角は、観客とアンヌとの距離感を縮めている効果があると感じる。
アンヌは孤独だ。
妊娠のことを打ち明けられる人は限られる上、親身になってくれる人はさらに限られる。
そもそも妊娠は、その女性の身体に起こることで、たとえ夫がいたとしても、その身体感覚を共有することは困難だろう。
その、孤独なアンヌを捉える画面が、この画角ゆえ近くに感じられるのだ。
観ていて何度か震え上がるような、身体的に“痛い”シーンがあるのだが、まさに画面から「迫ってくるような」感覚が伝わってくる。
結局、闇医師の手により、アンヌは中絶の施術(“手術”とは呼べないだろう)を受けることが出来た。
施術を受ける場所が、「袋小路の道の最上階」というのも象徴的だ。
まさにアンヌは袋小路に閉じ込められていて、助けを求めて天に近づくしかない。
ラスト、物語は意外な結末を見せる。
終盤、アンヌは、指導教授に講義録を見せてほしいと頼みにいく。
妊娠によって勉強が手につかなかった分を挽回するためである。
そしてさらに彼女は、将来の志望を教師から作家へと変えると教授に告げる。
この妊娠は、彼女にとって歓迎したくない「事件」ではあったが、確かな変化と成長をもたらした。
本作の原作者、のちにノーベル文学賞に輝く作家アニー・エルノーの誕生である。
フランス版"広瀬すず"
主演のアナマリア・バルトロメイという俳優ははじめましてだが、なんだか似た匂いを感じる日本の俳優をずっと思い出しての表題である 日本では絶対不可能であろう題材に、もし所属事務所が赦されたのならば、今一番可能性を感じるのは広瀬すずだと思う 何と言ってもあの強い目は今作の女性のそれであろう
逃げることなく真実を語ること それは政治的なことに帰着させることではなく、あくまで私小説としての自分の結論 それを忖度無く表現することに映画としての意義を強く感じる一作である 『主婦になる病』、この台詞に今作の全てが凝縮されている・・・
「妊娠と人生と引き換えにはしたくない」と闘った女性のありのまま。
中絶が違法であった60年代フランスで、人生を取り戻すべく中絶を受けるため最後まで戦い抜いた大学生の物語。ノーベル文学賞を獲ったエルノー氏の私小説に基づく。狭い画角、息遣いまで容赦なく描くリアリティに貧血や腹痛を感じ、動悸が起きたくらい。
この作品は男性にこそ観て欲しい。
セックスは2人で行うもの。
なのに、妊娠?中絶?女の問題でしょ?となるのはなぜだろう。
妊娠も出産も、中絶も、最後までふたりの問題ですよね。そこまで背負えないなら性行為はしない方がいい。
生涯生理もなく、妊娠もせず、出産もしない身体とは、どんな感覚だろうか。想像もつかない。
1週づつ、1日づつ、妊娠は進んでいく。
その恐ろしさ、焦りをここまで当事者以外の鑑賞者にまで伝えてくる作品、本当にすごい。
目を背けたくなる?とんでもない。気持ちのいいセックスの、すぐとなりにある現実です。
これは1975年まで中絶が合法化されなかったフランスでのお話ですが、現代においてもアメリカでは一部の州での中絶が禁止とされ、それが増えていくかもしれない状況。とんでもない話です。
その人の体はその人のもの。その人の子宮で起きていることを、他人の男性たちがとやかく決めて制御しようとするなんて、醜悪すぎて到底受け入れられません。
例外としてレイプによるものなら仕方ない?たとえいい加減な性行為による妊娠中絶であっても、最終的な決断権は女性本人にあるべきです。
そして一番男性に伝えたいのは、
「中絶の権利を女性に!」
これは中絶を良い手段と思っているのとはまったく違うということです。
進んで中絶したい女性などいません。心身ともに大きく傷つく処置です。
「望まないすべての妊娠を『ふたりで』避ける努力をした後で」最後の救いとして中絶は絶対に許されるべき手段だということです。
こちらの感想の中にも「女性も男遊びをしている」「自業自得」「消される命が」など散見しますが、それすべて、男性も背負っていますか?妊娠=軽率な女性への罰、かのような受け止め方が令和の今でも見られるのは残念ですし、道のりは遠いと感じさせられます。
この作品は、フェミニズム作品ですらありません。ひとつの事実を写しているだけです。
共感は難しい
中絶も避妊も肯定しない社会情勢で、直接の相手の男性への責任をも追及せず、犯罪行為の幇助になる医師や関係ない友人を巻き添えにし、条件が揃うのが遅れたとはいえ、胎児の命を奪って、苦痛は流産のときだけで、結末には笑顔というのはやはりいただけない。『ガール』でもやはり、周囲の助言を無視して自分の衝動で選択した行動を笑顔で迎えた結末に感じた思いにも似ている。女性が子を産んで育てながら社会進出が保障される環境であってほしいものである。
テーマは若さ(バカさ)の特権?
1960年のフランスの女子大学生が妊娠する話とのことで、渋谷のBunkamuraまで行きました。だいぶ外国人が増えてきました。スクランブル交差点の何がいいんだか?さっぱりわかりません。相手は消防士とのこと。これは八百屋お七みたいに逢いたさ余りに放火を繰り返すのか?と期待しておりました。
映画では字幕で何週間後とかご丁寧に出ますが、1960年の妊娠反応検査は今と違って簡単ではありません。妊娠かもと気がつくのも6週過ぎでしょう。医師が妊娠の徴候を疑うことができるのも8週過ぎでしょう。超音波検査なんてありません。妊娠証明書が送られてきたのは、今の日本で合法的な堕胎が認可されている12週をとうに過ぎてしまっていていたと思われます。1960年代の妊娠反応検査は今と違って、ウサギに妊婦の尿を注射して確かめるのが一般的で、ウサギが排卵したかどうか一定の時間をおいてから開腹して確かめるのです。ウサギはヒトとは違って、性交すると排卵するので、メスのウサギだけ飼って実験室で行うのです。ヒトでもウサギのように性交するとその刺激で排卵する原始的(失礼)な方も結構いますけど。
インチキ堕胎医のおばさんは最初は子宮の中にゾンデを入れるだけ。出血はしても堕ろすことは難しい。お金だけ取られた主人公が文句を言いにいくと、さらに強力な器械を入れますが、とっても危険。結局、ちゃんとした医療機関に送られて、完璧な堕胎術が施され、自然流産と診断されて、処罰の対象を逃れることができましたが、たくさんの人に迷惑をかけて、命を救ってもらえたからいいようなもの。主人公は複数の男性と付き合って、何回もしていたのに、初めてのたった一回で妊娠したと男性医師に嘘ついてましたから、なかなかしたたかで、強情な女でした。新川優愛さん似の純情派の女優さんでしたが、共感はしづらいですね。実際、寮のトイレでかなり太い臍帯がぶる下がっていて、友達にハサミで切ってと頼む場面があり、20週(5ヶ月)は軽く越えていて、非常に危険な状態でした。それでも鬼の形相で友達に指図する主人公の決意の強さは伝わりますが、地方出身の文学部のお嬢さんですから、医学部や法学部で弁護士希望とかとは違って、学業優先の目的は個人的なもので、共感はしづらく、命を粗末にしているだけと思う人も多いでしょうね。ベネチア国際映画祭での金獅子賞は強くなった女性たちと原作者がノーベル賞作家であることにかなり忖度しているような気がします。妊娠週数ばかり気になって、映画を楽しめなかったです。寮のシャワー室の女子大生達の裸体は悪くはなかったですが、時間ですよの銭湯の脱衣場シーンの方が刺激的だったような。妊娠して落ち込んでいる主人公に騎乗位でイク妙技を指南する3人娘のひとりの熱演はなかなかすごいものがありましたけど。若さの特権の映像表現という点では評価に価するってことでしょうか。自分の都合で実家に帰ってくる娘を迎える両親役の俳優さんの方が共感できてしまいました。
アマゾンやオークションなどで手頃な堕胎器具を自分で買って、やってみようなんて思って真似する人が出て来ないかすごく心配しております。
正視できませんでした。。。
1960年代のフランスでは、中絶が犯罪なのだと初めて知った。
中絶した本人のみならず、処置した医師まで逮捕されるなんて・・・ほんの半世紀前のヨーロッパで、とホントに驚いた。
20代で、内田春菊さんの「ファザーファッカー」を読んだ時の衝撃を思い出した。
この中では、言葉で中絶の過程が記してあった。
創造力豊かな私は、精神的貧血になり、自分に中絶という選択肢はさせないようにしようと決めた。
つまり、結婚前提の相手としか、セックスしないということ。
今回は、映画で、小説よりも中絶の現実が迫ってきた。
ラスト近くのシーンは、今までの体験の中で一番のホラーだった。
私は、はさみでへその緒を切れない。
これは、殺人なのか、女性の権利擁護なのか、判断できなかった。
セックスをすれば、避妊をしていても、妊娠する可能性はあるということ。
その危険性は、女性が100パーセント背負うということ。
中絶するにしろ、出産するにしろ、自分の人生が大きく変わるということ。
それを実感する映画だった。
今年私のNO1映画は、「アプローズ、アプローズ!」だった。
フランス語の響き、おしゃれな映像、人生に与える影響。
フランス映画は、やっぱりすごいな。
しかし、ライブ行く前に観る映画ではなかった…。
そこは、スラムダンクにした方がよかったかな???
凄まじい鑑賞体験
フランスで中絶が違法とされた時代、様々な障壁にぶつかりながらも、主体的に人生を選び取ろうと、もがき苦しみ、最後は命を懸けて自由を勝ち取る女子大生の話。
女性の欲望を、否定も隠しもせず、自然にあるものとして描いている。
少し前にマツコが言っていた、「人は「性」からは逃れられないし、それに対してどう距離を取るのか、眼差すのかがその人の人格形成に大いに影響している」という言葉を、見ている間ずっと考えていた。その意味では、主人公は主体的に性を選ぼうとするし、自分からバーに出掛け、セックスもする。
そこで受ける、男たちからの性的眼差しや偏見の渦、(当時の時代性もあるだろうが)絵に描いたような無理解。
「性」はいくら剥ぎ取ろうとしても脱げない仮面であり、引き剥がそうとしてはこびり着いて執着して回る、脅迫観念のようなものである。
この映画で印象的なのは、音と息づかいである。決定的な場面こそ見せないが、主人公視点からの苦しい表情や痛みに悶え苦しむ声、押し殺しながらも耐え切れずに漏れる息づかいで、観客を深い深い身体の海に引き摺り込む。
最後に、ある場所で静寂を破るように、静かに、確かに響く、ある音。そこで観客の緊張に決着が着き、一瞬、終止符が打たれる。からの、ブレながら何が起こったか見せようとするカメラワークと主人公の一言で、それまで緊張を続けてきた観客の鼓動の速さにドライブがかかる。あー、これはまだ終わりではない。
最後も、晴れてよかったでは終わらない苦さが残る。苦さというより、非常にひりついた痛みである。
凄まじい鑑賞体験。覚悟が出来れば、ぜひ劇場で見て欲しい作品。
やりたくてやって何が悪い。
細い金属の棒(あれが編み棒なのかな?)で、自分で掻き出そうとするシーンが、痛そうで怖くて身を捩らせずにはいられなかった。目も逸らした。
闇の中絶処理はなんでその場で掻爬しなかったのかな?と思ったけど、後で考えてみると、妊娠証明書がある(妊娠してることが国?に把握されてる)から「流産」と診断されなければ罪に問われるから、掻爬して「中絶」してしまってはいけなかったってことか?と思い至った。正解かは知らんけど。あの処置は人工的な流産を引き起こしたってことなのかな。
痛くて辛くて、もう一度見たいとは思わないけど、観る必要があったと思ってる。
セックスを楽しむ権利は誰にでもある。やりたい時にやりたいようにやっていい。互いの同意があればね。
その結果の妊娠出産を望まない権利もある。
中絶したい/した女「だけ」を責める非対称性、差別性をわたしは許せない。
その妊娠を引き起こした精子の製造元の男も、社会的にも経済的にもあらゆる方向から女同様に責められるならまだしも、女だけを責めるのが許せない。ちょん切られろ!と思う。
セックスをしたことはあるけど、わたしは妊娠した事がない。それは運がよかっただけ。わたしはアンヌになる可能性があった。アンヌの部屋に来て自分の性体験を語った友達と同じ。誰だってそう。あの苦しみは自分のものだったかもしれない。
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21世紀の日本で認められている中絶方法は掻爬が中心で、世界で主流の中絶薬が認可されてない。認可の動きはあるが人工中絶と同程度の薬価を想定してるとか…ふざけてる。
その上、中絶に配偶者やパートナーの同意がいる。自己決定権が認められず、経済的負担も高く、罪悪感は女だけに押し付けられてる。
許さん。
この現実がわたしを絶望させて久しく、絶望が欲望をかき消してしまったのだった。
もう今生ではセックスしないんだろうな…
13階段
ホラー映画だった。
生涯No1に怖かった映画は「リング」なのだけど、それに匹敵する。
文部省推薦にするべきだと思う。
子供が産みたい、もしくは産めるって環境の人には全く関係のない映画なので見なくていいと思う。
望まぬ妊娠→中絶までを描く。
現代とは違い、中絶すると罪に問われる時代背景があるものの、女性の心境はさほど変わらないのではと思う。現代での出産は経済的なリスクを感じる人も多いと思うけど、その当時は女性だけが様々なリスクを背負わされる。
今も根本的には変わらないんじゃないかと思うのは、離婚しても養育費を支払わなくても罪には問われず、親権を持った側にだけ、将来や時間に犠牲を強いられる状況がある事だ。
本来、祝福されるべき事柄であるはずで…いや、祝福できる環境であるべきなんじゃないかと嘆く。
子を宿し、出産する。
問答無用で母親の時間は、何年もに渡って育児に奪われる。主人公にしてみたら死刑宣告に等しい。
劇中に何度も「妊娠したら終わり」との台詞が飛び交う。主人公はこうも言う「いつか出産したいけど、今じゃない。自分の将来を棒に振りたくない」…本音なのだと思う。そういうものを代償にしてしまうのだ。
女子が受ける保健の授業を見たわけではないけれど、テキストより、この作品を流した方がいいんじゃないかと真剣に思う。
法律は無くとも同調圧力や道徳心、常識などで選択肢を奪われた女性達は多いのだと思う。
主人公に非がない訳ではない。
だが、性欲は食欲、睡眠欲と並ぶ人間の3大欲求だとされる。これも男性上位社会が植え付けた歪んだ価値観なのかもしれないが…。
とは言え、愛情が深まれば、体を重ねたいと願うのは本能だ。それを否定してしまえば人類に未来がない。
女性に出産を強要するなら、それに伴うリスクを国や社会が解消していくべきだと思うし、女性が背負うリスクを社会が背負える環境にならなければ、国の繁栄なんて机上の空論だと、この作品を見て感じた。
作品的には、さすがのフランス映画で、一切の虚飾がない。赤裸々な台詞と端的なカメラワークが、脳髄に焼き付いていく感覚がある。
ハリウッドのエンタメ感を徹底的に排除した作り。なのだが鮮烈に刻み込まれる。フランス映画の醍醐味を存分に味あわせてもらえる。
またBGMが素晴らしい。
俺にはギターの弦の音色に聞こえた。細く極限までピンと張り詰めた細い弦。
主人公の心情をあれほどまで明確に端的に表現した音楽は稀だと思われる。
孫が女の子なのでお年頃になったら、一緒に見ようと思うし、カップルは見るべきだと思う。
あなたならどうする?
一度も誰からも愛されることなく
便所で流される命。
法律で中絶が禁止されていた
1960年代のフランス。
望まない妊娠をした大学生のアンヌ。
一般的な作品であれは
そこに産む産まないの葛藤があったり
結果産むことで生命の尊さを知り
新しい家族の始まりがあったりするのですが
本作では皆無です。
中絶一択。
どうすれば中絶出来るか
終始その葛藤が生々しく描かれます。
本作の意義として大きいと感じたのは
妊娠を目的としないセックスに対する
考え方への影響です。
一般的な感覚を持っていたら
確実に女性に対する負担や命に対して
今まで以上に真摯に向き合うはずです。
フランスの法律がどうとか
アンヌの決断がどうとかではなく
あなたはどう?
そう問われているように感じました。
望まぬ妊娠
倫理には強くないですが胸糞な殺人なのでしょう。
もしも性知識や人生経験の不足で、このような悲劇が起こるのであれば社会が我がこととして考えた方が良いと思います。
親のエゴで間違いを犯さない社会にしていきたいです。
正義というナイフ
見終わったあと何とも言えない、ズッシリとした感じがお腹に残る映画でした。ある意味ホラー映画以上の怖さがありました。街並みの天気の良さと、映像の綺麗さと反してアンヌが何とも言えない表情をしているのが忘れられません。
最初はアンヌがただただ自分勝手で悪いやんと思いましたが、見ていくとそれ以外の事が見えてきた気がしました。アンヌや友達など誰にでも好奇心などあるし自分の知らない事えの好奇心は誰にだってある。それは男女関係なく。いや、それでもやる事はしかりしてやろうよとも思いましたが、見ていくうちに色々と感じ方が変わっていきました。
この映画はアンヌの視点で描かれているのでそう思ったのだとは思いますが、自分で選べない事や女性は子供が出来たら自分の事が出来なかったりするこの時代にたいしての怒りではないかと。もちろん子供を堕すと言う事簡単にしてはいけなし、そこで一つの命がなくなっているのでそんな簡単に言うなと思うのも凄くわかります。しかし、たまに正義や正解と言うナイフを突きつけて、がんじがらめにされてもう何も選べない状況を作り出している状況があるのも事実だと思います。
コロナの時代になって思ったのですが、もしコロナになったらどうする、誰かにうつして命を落としたらどうすると、ライブ、映画館、劇場、など命と言う言葉で動けなくされたあの時の気持ちになんか似ているなと。もちろん命は大事だし、それは誰もがわかっていますが、命を賭けて色々な事をやっている人達もいるのにと思ったあの感覚に似てると自分は感じました。
映画はアンヌの視点で描かれているので他の人の視点のどで見ればもちろん色々言いたい事があるのはわかりますし、アンヌの自業自得と言えばそうなのかも知れなませんが、自分は映画を観てそう感じました。
確かに今は子供はいらないけど、いつかは欲しい言う発言など言いたいことはありますが。
映画を観たあと帰ろうと思ったら丁度スラムダンクの公開日でみんなワクワクした顔とは真逆の顔で映画観を後にしました。
遠いようで近くにある痛みと傷み
主婦になる病
そう言い放ったアンヌの一言に
彼女の〝今〟が詰まっていたと思う。
だから中絶しようと思っている間に躊躇するような揺れ動く気持ちはなく、ミッションのように実に淡々と行動している。
邪魔する感情があるとしたら自分の肉体的な痛みと代金に対しての心配のみに見えるほど。
元をたどれば子供の父親に対する愛情がないスタート。
おそらくそれは相手も同じで…。
あぁ、こんな展開、、自分の娘とか友達の話だったらほんとに嫌だし悪夢みたいだなぁと思いつつ暗めのスクリーンをななめに観る。
予告で痛そうなシーンがあるのは知っていたが、カメラアングルが自分目線でなんども迫り〝それは気絶もんでしょー。いや、痛すぎ、怖すぎ〟で、結構厳しい。
思わず目をつぶってしまったり、胸苦しいような感覚になったが…すべて作り手の望むところなのだ。
しかし、1番辛くて怖かったのはアンヌでもなく、もちろん、観客でもなく……。
私の涙はじんわり溜まったまま落ちる元気もない。
ただ、ラスト辺りで、へその緒を自分できれないと口ばしるアンヌ。
あれ?!この場に及んで初めて一瞬の母性が働いたのかもしれないと感じた。
感じたかった…のかも知れないな。
正しくは。
担架で運ばれた病院でのアンヌは、薄い意識の中でも自ら選んだ中絶が、書類上で流産と処理されることを聞き逃さなかった。
カメラの効果発揮か。。。いつのまにかアンヌに気持ちを投影していて、彼女の安心を同時にこの胸で感じた時、ドキリとしてはっとした。
流産か中絶か…場合によっては罪になる時代のフランス。
しかもキャリアを積みたい彼女にはまさに紙一重の気がかり。
そして、その望まなかった妊娠はアンヌにしてみれば〝主婦になる病〟なのだから、まさに病からの解放。
そこで、私までもが解き放たれようとは。。。
理由により全ての中絶に頭から反対するわけではないのだが、アンヌに関しては、その成り行きから自業自得の要素が半分ととらえていた私が。
思わずため息みたいな呼吸が漏れた。
まんまとやられてしまった。
この作品、実話を設定にあてたそうだが、現代になり状況違えど、向き合うべき話という点で変わりないのだろう。
性教育は日本は海外より遅れていると昔から聞く。特に親子間では私も避けるパターンの話題だ。
知識も大事だし自分なりの考えを自覚するためにも必要とわかりつつ踏み込みにくいのは、これまでのタブーの蓄積がイメージを作り壊せないのもあるかもしれない。
ただ、どんなに準備があったとしても、女性の身体に起こり得ること。ついてまわるリスク、責任を考えれば、やっぱり置き去りにしてはいけない問題だ。
映画の描写的には、誰にでもおすすめできるわけではないが、世の中、いろいろ低年齢化がすすんでいるのも事実。
まわりの大人が、年頃になるこどもに伝える責任について考えるための一歩としては切実で大切な内容だった。
爽やかさはキャンパスの緑と青空のみで、ただただ汗をかき眉間にしわをよせ体力を消耗したが、アンヌの悲劇が痛みと傷を共にして学んでとメッセージを送ってくれている。
金獅子賞も納得の容赦のなさ。
望まれる妊娠、望まれない妊娠。同じ妊娠でも両者は両極端だ。例えば愛する人と結ばれて計画的にする妊娠は前者、レイプなど女性の思いもよらない妊娠は後者だろう。つまりはどっちに分類されるかは女性の心境によるということ。
妊娠した子供を産むか産まないか。一部の国を除けば、大抵の国では女性の意思が尊重される。
キリスト教圏ではない日本では1948年ごろから人工中絶が法的に認められていた。しかし、カトリックが多いフランスでは1975年まで合法化されていなかった。
1940年生まれの主人公アンヌの生きた時代はまさに堕胎は犯罪行為。子供を神からの授かりものととらえるキリスト教圏の国では女性の意思よりも、理由はどうあれ授かった命を尊重するというのもわからなくもない。現にバチカン市国などはレイプにより出来た子の堕胎でさえも禁じている。確かにレイプでできた子であってもその子には罪はない。
女性の意思を尊重するか、子供の命を尊重するか、考えれば考えるほどわからなくなる。ただ、キリスト教的思想のない自分としてはやはり子供を産むか産まないかは最終的には女性の意思にゆだねられるべきだと思う。かつて女性は子供を産む機械なんてとんでも発言があったけど、やはり今までの社会は女性の意思を蔑ろにしてきた経緯があるので尚更そう思う。
また、女性の意思よりも子供の命を尊ぶというのなら、たとえばアンヌのような女性だけでなく社会人として働く女性が結婚して出産しても学業や仕事に支障がないようにシステムを整えるとか、出産育児による女性のハンディを一切なくしてから初めて言えることではないだろうか。
折しもアメリカでは国内で少数派のキリスト教原理主義者が判事の過半数を占める最高裁で人工中絶を禁ずる判決が出て国家を二分するほどの騒ぎになっている。いままで認めてきた中絶を禁止するという時代に逆行したものとして批判が多い。
確かに過激な原理主義者が言う命の尊さとかは聞いていて胡散臭い。何故なら彼らの中には中絶をする病院を脅迫したり放火したりして、人命軽視も甚だしい本末転倒行為を繰り返しているからだ。そんなにいうなら女性の望まない子供を全て引き取って育ててみろと言いたくもなる。
思わぬ妊娠に戸惑う主人公のアンヌ。彼女は優等生で進級を目指しており、将来の展望もあった。
しかし、未婚で若くしての妊娠というだけでなく、堕胎が罪となるという、女性には全く選択の余地がない当時の時代背景が彼女を徐々に苦しめてゆく。
そして妊娠期間が経過してゆくごとに望まない妊娠をしたアンヌにとって体内に異物が育ってゆくことの不安が見ている方にもひしひしと感じられた。
正直、最初はアンヌ役の女優さんがとても可愛らしい方で見とれてみていたら、その後の展開にただただ啞然とさせられた。間違っても女性の妊娠の不安や苦しみに対して分かった風なことを言えないほど痛々しい姿を見せつけられる。
特に自分で針を刺して堕胎しようとするシーンや闇堕胎を受けるシーン。そして極めつけは終盤のトイレのシーン。
まさかここまで容赦がない映画とは思ってなかったので、思いきり頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
最近でも「朝が来る」や「十七歳の瞳に映る世界」など類似の作品はあったが、本作はまさに別格だった。
本作はR15だけど性教育の教材として中学生くらいから男子にも見せるべきではないだろうか。そうすれば軽はずみに女性としたいとは思えなくなると思う。でも衝撃的過ぎて女性に対して不能になるかも。
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