「私たちにとっての「パラレル」とはなんだろう」パラレル・マザーズ きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
私たちにとっての「パラレル」とはなんだろう
赤い色に染まって
赤い色で命に連帯する。
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アルモドバルには やられました。
映画館の入り口で、「こりゃあまた、ずいぶんと赤いポスターだなぁ」とは思っていたのですが、
赤いスマホ、
赤いメガネ、
赤いリップグロス に、
赤い抱っこ紐。
ジャニスも、アナのお母さんも赤を着る。
宅内のインテリアのここかしこにもビビッドな赤が散りばめられています。
それらの赤い色が、デジタル撮影された本編に実に鮮やかに(!)繰り返し繰り返し映し出されていて、この映画のテーマカラーが「深紅」であることは冒頭から一目瞭然です。
フォトグラファーペネロペ・クルスの仕事仲間のエレナ。⇒まるでピカソの絵が動き出したような大柄な彼女でしたよね!彼女の装いも例外ではありません。黒のスーツに真っ赤な口紅がとても印象的でしたよ。
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Madres paralelas
この映画の原題について ―
【何がパラレルなのか その1 】
・キャリアウーマンのジャニスの妊娠出産と、
vs 思慮の足りなかった17才のアナの妊娠と出産。
・同時並行で出産したふたり。
・生まれた娘と、片や死んだ娘。
・都会で活躍の気鋭のフォトグラファージャニスと田舎に暮らすその母たち。
・生き残った女たちと内戦で死んだ夫、息子、父たち、肉親たち。
こうしていくつもの《パラレル》の並行線と並行同時進行が、作品のほとんどの時間を費やして、繰り返し繰り返し、幾層にも語られて提示されたあとの
最後に
ついに埋葬地に向かう女衆(おんなしゅう)たちの《合流》と行進は圧巻でした。
《パラレル》が、《交差》するのです。
草原の行進。涙が止まらなかったです。
アルモドバルの色彩美学には終始釘付けになった僕です。
画面の色合いからもストーリーの進捗が表現されていて、色がキーとなります。色味が鑑賞者のハートを捕まえてゆきます。
ジャニスがアナやボーイフレンドから身を隠す時の、赤いスマホをくすんだピンクに機種変するくだり。
赤い画面が一転し、アッシュの銀髪で緑を着るアナの登場。
鮮烈な屋外撮影での 緑の草原への場面転換・・
そして土色のラストと黒いバックに白抜き文字で「歴史の記憶法」が。
エンドロールには再び赤色の登場です。赤いペンの筆致がフイルムに踊っていて、出演者たち、スタッフたちを赤い糸で繫いで結びます。
バラバラのパラレルだった出演者たちが、画面の色彩の変化で一点に集中していく様子が、強烈に印象付けられる手法です。
緑と銀のアナが赤い抱っこ紐を手に取った予想外の行動は、その先に起こる出来事を予告していたのです。
【何がパラレルなのか Ⅱ 】
①父祖の最期の地を探し当て、遺骨を取り戻すというという《宿願》をいつかは果たすという「人生最大の課題」を持ちつつ
②日々それぞれの生活は、女たちは普段通りに送ります。それは生き甲斐にして、ルーティン。そして日常の楽しみ。
仕事、恋、出産、友だち、家事、親戚との付き合い
この《宿願》と《日常》の《並行進行》=パラレルが、ああ、成る程と思えて面白い。
つまり
死ぬまでに成すべきことと
日々の よしなしごと(雑事)の《パラレル》です。
両方が なくてはならない人生のパーツ。
【何がパラレルなのか Ⅲ 】
大事な親友となったジャニスの抱える人生の課題は、17歳のアナにとってもかけがえのない自分の問題になっていく。
すれ違いの Parallel distance の距離を取っていたアナが、ジャニスの田舎へ行きました。
ジャニスが使っていた赤い抱っこ紐をアナは使っている。
そしてジャニスに寄り添って土葬を覗くシーンに、僕は強烈に胸を打たれましたね。アナは遺族ではないのに、ジャニスの父祖の墓へ同行する。
《平行線のパラレル》がその先で重なることの事件です。
アルモドバルの女たちは、こうしてその血と魂で繋がっていきます。
エンドロールの「フイルム編集チェック」に踊らせた赤ペンの妙技。
まったくあれは、赤の他人であった出演者とスタッフを交差させ、結び合わせる赤い糸のようでした。
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終演後、
高鳴る胸を抑えながら客席からロビーに出ると、二階の映写室から「タタタタタッ」と駆け下りてきてくれる音がして、飛び出してきてくれた長身の合木こずえさんと僕は目を合わせます。今夜の映写係は支配人の合木さんが掛け持ちだったのです。
ほらね、やっぱし合木さんも、ロビーのお母さんも(手編みかな?)真っ赤なカーディガンではないですか!
僕は慌てて身繕いを探しまわり、自分のネックウォーマーを差し出して、声も上ずりながら「僕も連帯の赤色ですから!」とお伝えしました。
ここ塩尻市の東座は、女の映画館です。
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それにしても
「WE SHOULD ALL BE FEMINIST」
というTシャツをペネロペ・クルスに着せるアルモドバル。
男子でありながら、じっくりと素敵な女の姿を撮れる あのセンスはどこから来たのだろうか。
きっとお母さんや 姉貴たち、そしておばちゃんたちと、魅力的な女たちに囲まれて 触れ合って、彼は育ってきたに違いない。
前作「オール・アバウト・マイ・マザー」で、劇中、母親についての小説を残すためにメモを取っていたエステバン。
まさしくあの息子エステバンは、アルモドバル本人だったのだろうね・・
(で、もう一言だけ)
僕の母は、辺野古の海岸で6年間座り込みをしていた人なのだが、彼女が海ばたで楽しそうに編み物をしている様子がインタビューされて
「どうしてあなたはここで編み物を?」
それに答えて
「私の日常は誰にも邪魔されたくないの」と母。
たとえ私たちが大きな相手=歴史とか権力とかと戦わなくてはならない時にも、私たちは日毎の自分の生活を見失わないように、お上に私たちの日常を奪い取られてしまわないように《パラレル》も死守して保っていかなければならないのだと、この映画は告げているようにも思ったのです。
熱い映画でした。大好きです。
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追記
映画を観てから2ヶ月。
レビューがまとまらず半分諦めていた頃、ラジオからパブロ・カザルスの「鳥の歌」が流れました。
フランコ政権に抗議して国連総会の議場で演奏されたあのチェロ曲です。
背中をあと押しされた気がして、やっとレビューを仕上げてみました。
当地長野県には「松代大本営跡」があります。
地下の要塞です。どうぞお越しください。
記憶が埋められたまま、隠されたままの土地が日本各地にも、世界中にもあります。
僕も我が身の生活を携えつつ、それらの土地を訪ねてみたいと思っています。
色にこだわっているなと思いました。しかし、どうしても、子供が置物のようで、自分の子供でなかった事を知った時の緊張感が全くありませんでした。また、子供を育てていると言う生活感も全くありませんでした。勿論、職業の影響とヘッドフォンを外さない留学性との関係がこの主人公の稚拙さを゙増幅していると思いました。その彼女が日本製のカメラの合間にライ◯カメラを使う。つまり、贋作写真家に対する嫌みになると一瞬見直そうかとも思いました。でも、最後にあの無神経なうましか男をよりを戻すにいたり、稚拙を通り越して、完全に女性蔑視と判断しました。とどのつまり、弟か妹が生まれるって、続編でも作るのかと思ったくらいです。つまり、死んでしまったフランコには反旗を翻しても、カトリック教会へのレジスタンスはなかったと判断しました。
長々とすみません。
大筋は共感は持ちます。
きりんさん、素晴らしいレビューとコメントをありがとうございます。息子は父親と松代大本営跡に行き、私とは沖縄本島の南を巡りました。今、ドイツに居るから躓きの石にもあちこちの歩道で出会っていることでしょう。
素晴らしいレビューでした。きりんさんがアルモドバル作品をこんなに熱く語れるのは、きっとお母様からの影響があるのだろうと思ってましたが、やはりそうなんですね。ちなみに私の母はフェミニストです。今回の作品もアルモドバルの愛情に包まれた感じがしました。