ある男のレビュー・感想・評価
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深く、重い
なんとも重い映画。複雑な戸籍の入れ替え。それぞれの人生が複雑に絡み合う。
谷口大祐は子持ちの里枝と結婚して子供も産まれて幸せに暮らしていたが仕事中の事故で死亡。(彼は人生の中で里枝達家族と暮らしたこの数年は幸せだったんだろう。)1年後に疎遠だった兄が来て、別人格とわかる。妻や子供からしたらショックだ。そこから調査を依頼して徐々に明らかになる真実。大祐は父親が殺人鬼で死刑囚。施設に預けられ、母方の姓に名を変えてもやはり周りには知られて差別を受け続けてきた。子供には罪もなく、つらい思いをしてきたのに世間は容赦ない。さぞつらい人生だっただろう。そりゃ名前も人生も変えたくなるよね。でも誠は顔まで父親にソックリで、鏡に映った自分を見るのもつらい。大祐ととなって里枝と一緒にいる時でもふとガラスに映った自分に怯える。まことの場合、整形した方が解決したかも。
まず誠は曽根崎という男になり変わったが、この曽根崎の人物像が判らず、本物の曽根崎はどうなったのか、殺人犯の息子の戸籍を手に入れたのか?死んでいるのか?そこも描かれているとよかった。本物の谷口大祐が自分の戸籍を変えてまでいやだったのは実家との確執だけだったのか?本物の大祐の心情ももう少し知りたかった。欲を言えば柄本明演ずる戸籍の仲介役とのやり取りもあると良かったのに。でもそこまで描いたら映画の枠では収まらないか、、、。
大祐たちの物語でも重いけど、この映画の面白いところはやはり主人公の城戸が在日3世であることの差別や妻との関係に悩みつつ、徐々に誠を理解し、同化していく様子。
ラスト、初めて会った男性に自分が谷口大祐であるような会話。恐ろしくもあり、悲しくもあり。顔の映らない男の後ろ姿の絵画を見つめる城戸の背中で終わる。それが冒頭の場面でもあるところが、とてもお上手な演出。
コレは原作を読んでみないとなあ。
本当のことを明かさない
もし、原誠が山で命を落とさなければ、今も
家族みんなで仲良く幸せに生活していただろう。原誠はもちろん、妻の里枝、息子の祐一、花、欠けていたものが埋められて充足した日々を送っていただろうに、な、と思う。
正真正銘凶悪犯の父親とは、似ても似つかぬ、
誠実で心優しい息子であるが故に、死刑囚の息子という事実を受け入れ難く、精神面のひ弱さも相まって心身共に弱まり、生活の場から姿を消し、非合法的に名前を変えて新生活を切り拓こうとした。
原誠が所属するボクシングジムの会長や同僚は、好意的に接し、出自を聞いても、親とは別人だと言ってくれる。
にもかかわらず、自殺行為をした末に飛び出して行く。
ジムの会長と養子縁組をして戸籍上も正式に苗字を変え、顔か気になるなら、整形しても良かった。
道は色々考えられたのである。
田所祐一の動機には納得いかない。
実兄が嫌なら、縁を切り、家を出て別に暮らせばいいのにと思うが、名前を変える相手として必要であったかと思うが、原に比べて理由が弱い。
本作タイトル『ある男』には、城戸弁護士も含まれる、と思った。
在日朝鮮人3世であり、裕福な家の女性を妻にしている。
詐欺で服役中の小見浦に、見抜かれ動揺する様や、TVで、在日朝鮮人へのヘイトスピーチの集会を観て苦虫を噛み潰したような様子には、
日本人であって日本人でないというわだかまりがしつこく付きまとい悩ませていることが窺える。
妻の不倫相手の存在を知っても知らないふりをして、今の生活を壊さない。
在日3世から帰化した身であることを知りながら、日本人の婿として受け入れてくれているからだ。だから、手放したくないのだ。
城戸の親や親族が全く描かれないのも、帰化と共に絶縁したのかと考えられる。
バーで会った初対面の男に言っている内容は、
原誠が、田口祐一に名を変え宮崎に来て里枝と知り合い、祐一の下に花ができ家族四人幸せに生きている様を自分のことのように話しているのだ。
<疑問に思うこと>
①離婚調停をしてもらったからと言って、横浜から宮崎まで呼ぶかなぁ。引き受ける方も。
②迎えに来た里枝の車中での会話、偽田所祐一について依頼する際、里枝との関係を話す筈。なのに話していなかった。
⓷②の車中、ハンドルを握っていた里枝の左手薬指の結婚指輪が長く映されていた。なぜか?
④城戸の義両親、皮肉に満ちながら、結婚を許した。城戸の妻に結婚前に何か瑕疵があり、城戸が結婚してくれて安堵しているのでは?
例えば、結婚できない男性の子を懐妊していたとか。
⑤自由奔放な城戸の妻、城戸が子供は可愛がるか、妻を相手にしないので夜遊び、不倫してまた懐妊。2人とも実子ではない。
ラストが素晴らしい
ラストの主人公のセリフ「僕は」
で映画が終わり画面が真っ暗になるのが非常に素晴らしいです
あのラストにこの映画の全てが詰まっています。
原作を先に読んでいたのですが、あの長い小説をよくここまで綺麗にまとめて一本の映画に仕上げたのに感激しました。
映画のラストでは小説にはない「ある絵」が画面いっぱいに登場しますが、それもまた素晴らしい…
あなたは、あなた自身は、自分を名乗れますか…?
“別人ミステリー”は映画の題材でよくあるっちゃあある。
本作も話の入りとしては奇妙ながら実に興味惹かれる。
死んだ夫は別人だった。調査する内に明らかになっていく事実…。
謎が散りばめられ、少しずつ少しずつ事実に迫っていくミステリー仕立ての語りは最後まで目を離せない。
だが本作は、単なるミステリーだけに収まらない。
そこにいる人は本当にその人ですか? あなたは何者ですか? あなた自身は何者ですか?
ミステリアスで意味深で暗示めいたものを問い掛けていく。
加えて、差別や偏見、逃れたくても逃れられない自身の出生、何故別人として生きざるを得なかったのか、戸籍を巡る社会の闇、家族や夫婦の関係、幸せと不和…様々なテーマに斬り込んでいく。
エンタメ性と社会的メッセージ性と芸術性の見事な調和。
石川慶監督の一つ一つの緻密で深い演出、向井康介の巧みな脚本、キャストたちの名アンサンブル熱演。
昨年を代表する邦画の一本に偽りナシ。
ズバリ本作は、戸籍交換を題材にした作品。
ネットでちょっと検索しただけでも、戸籍交換に関する様々な項目が出てくるほど。
実際にそれがあり、実際にそれを請け負う仲介人もいる。
衝撃的でもあるが、私も戸籍で驚いた事がある。と言っても自分自身の事ではないが、
劇中で柄本明演じるかつて戸籍売買の仲介をしていた不穏な老人の台詞。“300年生きた人がいる”。
これを聞いた時、ピンときた。もう何年も前のニュースで、死亡届が出されず戸籍上生きている人がいるという。それも一人二人じゃない。把握出来ないくらい。
戸籍なんて言うと絶対的な自分の証明…と一見思う。が、実際は、どうとでも偽れる。
戸籍さえ名乗れば(偽っても)、相手はそう自分を見てくれる。
これ以上ない隠れ蓑。犯罪者にとっては。
戸籍を偽るのが全て犯罪者とは限らない。どうしても戸籍を偽らなければならない、そういった事情や人生に置かれた人も…。本当の自分を捨ててまで…。
窪田正孝演じる男がそれだ。
劇中と同じく、“X”と呼称しよう。
“X”は“谷口大祐”と名乗り、安藤サクラ演じる宮崎の片田舎町で文房具屋を営む里枝と出会い、やがて結婚。幸せな日々は4年と続かず、“X”は仕事中不慮の事故で死亡。“谷口大祐”の兄が一年後の法要に訪れるのだが、その時初めて全くの別人である事が発覚。死んだ夫は誰…? 里枝は離婚調停で世話になった弁護士・城戸に依頼。戸籍仲介人やある絵画展からようやく本物の“X”と彼の歩んできた人生に辿り着く…。
“X”の本名は“小林誠”。誠はどうしてもこの名前を捨てたかった。誠の父親は、凄惨な殺人事件を犯した犯罪者。犯罪者の息子。誠がどんなに偏見の目に晒されてきたか。
母親の旧姓で“原誠”へ。この頃誠はボクサーとなっていた。才能を開花させ、新人王も期待されていたが、何処の誰かが誠の出生を知る。逃げても逃げても、過去から逃れられない。
逃れられないのなら、別人になるしかない。そうして仲介人を通じて別人の戸籍を手に入れる。
最初は“曽根崎義彦”。そして“谷口大祐”。
“谷口大祐”としてようやく人並みの幸せを手に入れた矢先…。
“X”こと誠の人生は悲痛だ。何も自分自身に罪がある訳ではないのに、出生と名前のせいで…。
彼が車の窓ガラスに映った自分の顔を見た時、彼がボクシングを始めた理由、ロードワーク中の苦悶、“うっかり落ちた”はその苦しみ悲しみの表れ。
本作での戸籍交換は違法であろう。そもそも戸籍を交換する事自体、良し悪しは難しい所。
が、誠は戸籍を変えた事によって少なからず救われたと言えよう。ボクシングジムや林業の人たちにも好かれ、何より里枝と出会った事。里枝は前の夫との間に息子・悠人がおり、悠人も誠に懐いている。新たに娘も産まれた。
事実を全て知って、里枝たちは誠に嫌悪を抱いたか…? 否。
父親としての大祐が優しかったのは、自分が父親にそうして貰いたかったからなのか。そうであり、純粋に悠人の事が息子として好きだったから。
終盤での里枝の台詞。本当の戸籍など知る必要なかった。この町で彼と出会って、好きになって、4年にも満たないが幸せな家庭を築いた。それが全て。
この言葉に、誠の人生は報われたと言えよう。
里枝自身も離婚や亡くしたもう一人の息子の悲しみから救われたと言えよう。
あなたの目の前にいるその人は、愛した人自身なのだから。
この非常に難しい役所を、窪田正孝が素晴らしく演じ切った。
安藤サクラもいつもながらの名演、好助演。
本作は平野啓一郎によるベストセラー小説が原作。原作では微かな希望や幸せを感じさせる終わりだとか。
が、映画は違う。映画は何とも人の心の闇や意味深な含みを持たせた終わり方。
それを表すのが、妻夫木聡演じる弁護士の城戸。
城戸は人権派の弁護士で有能。
横浜の高級マンションで、美しい妻、幼い息子と満ち足りた上流暮らし。
全てが完璧のように思えるが、彼にも“陰”が時折覆う。
ズバリ、城戸は在日朝鮮人の三世。
義父母との会食でもそれを。別に差別的な意味合いはないだろうが、三世だからもうすっかり日本人…それは裏返せば差別そのものだ。
戸籍仲介人からは直球で“在日”と呼ばれる。侮辱される。三世でどんなに血が薄くとも、在日は在日。それを隠しおおせるものかとでも突き付けるかのように。(柄本明、さすがの怪演!)
調査の過程であるスナックでマスターの北朝鮮による日本人拉致陰謀論。
TVのニュースで報じられるヘイトスピーチ。
それらが少しずつ少しずつ、城戸の心を蝕んでいく。思えばこの件に携わってから、自身のアイデンティティーに直面する。
戸籍を偽って別人になるは、在日である事に触れさせず日本人で居続ける事に何か通じるとでも言うのか…?
“谷口大祐”の兄。ちょいちょい相手を侮蔑する事を言う。“本物の谷口大祐”が嫌になって縁を切りたかったのも分かるような…。
里枝と谷口兄を呼んで調査報告の場。“X”が犯罪者の息子と知るや否や、谷口兄は「犯罪者の息子は犯罪者の息子」と侮蔑。それに対し城戸は冷静にしつつも調査ファイルを机に叩き付ける。
城戸にはこう聞こえたのかもしれない。“在日の息子は在日の息子”。
生涯、在日として差別偏見に晒されなければならないのか。それも直球ではなく、うっすら陰ながら。時にそれは面と向かって差別されるより突き刺さる。
殊に日本人は差別や偏見に対して愚かで鈍感だ。性差別、人種差別、ジェンダー差別…それらへの見方があまりにも薄く、問題になる事もしばしば。
城戸が差別偏見に対して向き合い、己や周囲との関係が変わっていく…のならまだいいのだが、城戸は違う。
表面に出さない。が、怒りや憎しみを穏やかな顔の下に煮えたぎらせている。周囲だけじゃなく、それは在日である自分に対しても。
本作では戸籍仲介人や谷口兄など差別的な人物が登場するが、城戸が時折見せる“闇”はそのどれよりも深刻だ。いや、誰よりもヒヤリとさせるほど。
抑えながらも複雑な内面を含んだ役所を、妻夫木聡も見事に演じている。
ラスト、調査も終わり、城戸もまた家族との穏やかな生活に戻ったかに思えた。
ある時城戸は知ってしまう。たまたま操作した妻のLINEから妻が浮気している事を…。
妻を問い詰める事無く、何も見てないと平静を装う。また無理矢理自分を抑え込んで、偽りの顔を浮かべて。
ラストシーンが印象的。あるバーで、一人の男と話しているのは、城戸だ。
城戸は自分の事を話す。しかしそれは本来の自分の人生ではなく、“谷口大祐”としての“X”の人生を。それを自分の人生として。
差別偏見に晒され、妻にも裏切られ、城戸は自分と同じようでありながら最後は幸せな人生を歩んだ“X”の人生を欲したのだろうか…?
いや、別人になりたかったのは自分だったのだ。
開幕とこのラストシーンに登場する一枚の絵画。ルネ・マグリットの有名な絵画だという。
この絵画、何とも奇妙だ。一人の男が鏡で自分を見ているのだが、その鏡に写っているのは自分の後ろ姿。普通に考えれば変だ。
この絵画は『複製禁止』と言い、別人となり別の人生を複写した本作を表しているという。
それに自分を重ねる城戸。
別の人生、別の自分。
名を訊ねられ、答える寸前で映画は幕を閉じる。
城戸は“誰”と答えたのか…?
同時にそれは、我々に問い掛ける。
あなたは偽りなく、“自分”を名乗れますか…?
名前と自分と
名前を変えた夫と結婚する時、家族同士の顔合わせとか本籍の住民票とかいろいろどしたの???と突っ込みたいところはあったものの、その辺もうまーいことやれる人が本当にいるんだろうな。
自分の知人がほんとうにその人なのかは、私には永遠にわからないのだ。
前半は安藤サクラ、中盤は窪田正孝、後半は妻夫木聡の主人公が変わっていくタイプの流れ。
イケメン弁護士で逆玉に乗った妻夫木だって美人妻に浮気されて最後は谷口を名乗ってバーで自分じゃない人生を演じる。誰だって自分以外になりたい時があるよね。
自分が誰であるかなんて超フワフワだってことは、結婚して苗字を変えるタイミングで痛感した。
私が私であることは私だけが知っていることで、私の嘘も私の秘密も、私しか知らない。
社会性とエンタメミステリーの見事な両立
最初の絵のワンショットから、最後の終わり方まで見事な出来だった。
平野啓一郎を知っていたら、わかりやすいテーマであるし、物語と見事にマッチしている。
また、直接的に表現するわけでもなく、比喩なども、うまく使いながらの、バランスもいい。
感動を呼ぶ展開みたいな売り方をしていたが、その部分は正直盛り過ぎだとは思った。それを引いても面白いのだが。
絵に関しては、最初は、在日韓国人→帰化した2人分。最後には戸籍を変えて3人目。これをパンフレットの表紙にして絵画調にしているのもセンスいい。
それにしても、ラスト前の浮気シーン、平和な食事シーンなのに、このままでは終わらないという空気感にハラハラドキドキして、とても怖かったのが印象的だった。作品全体が作ってきた流れが凝縮されているとも感じる。
2023年劇場鑑賞70本目
全てが「ちょうどいい」作品
サスペンスがほどよく混ざっている物語、
俳優の演技もよく各伏線の収束もよかった。
ただテーマはいかにもシンプルなモノ:
アイデンティティー
物語自体はあまりにも典型的というか
どの映画でも扱いそうで扱ってないかもしれないパターンが多い。
・正体不明の身内
・自身にも問題だらけの事件の追手
・それなり問題になる社会背景
に加えて、
・観客の視線を支えてきた追手の変異
→ゾクっとして終わり
全て完璧なのに
観終わって、、、大したモノ観てない気がする。
型にはまったという少々嫌な後味。
その全てが丸く収まったとう有り難さに★★★★
心が震えた
自分に流れている血を抱きながら、
成りたい自分を生きる。
妹が大きくなったら、どんな言葉で伝えるのだろう。
寂しいね、と涙するお兄ちゃんは、とても複雑な生い立ちを背負ってしまったが、
優しいこの子はお母さんの支えとなり、いい青年に成長するだろう、、して欲しい。
演者も素晴らしいし、テーマソングが無いのも良い。
逃れられない血を抱えて生きる。
ずんと心に重しが残った作品でした。
柄本明の大阪弁の闇
映画のストーリーは淡々と真実に迫っていく
抑制の効いた俳優たちの演技もそれと相まってこの映画のトーンをつくっている
ラストの展開も観客の期待を裏切らない
でもそれだけならある意味平凡な映画だ
この映画に深みを与えているのは柄本明の大阪弁であると感じた
関西の人には違和感を与えるエセ大阪弁を操って、(レクター教授ほどではないが)闇への入口を体現している
彼の視点からは、自分の人生や彼の手により他人の人生を生きようとする人々はどう見えているのだろう?
それは人間の存在としてありうべきものなのだろうか?
そこで感じる幸福は本当の幸福と言えるのだろうか?
そこにこの映画の本当の問いがあるように感じました
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あとは小籔さんの存在がなんか深いわー
彼にも賞をあげてほしい笑
本物はどこに
この物語は、戸籍偽装をテーマにした話でありタイトルからは考えられない映画でした。
キャストは豪華であり物語も奥深いので自分には話として難しかったかなって所でした。小説版でも話が異なるそうなので読むタイミングがあれば読んで追記をまたしに来るかもです。
差別
差別を受けた者にしかわからない痛みがある。差別といっても人種、地域、学歴など様々なものがあるが、殺人犯の息子という烙印を押されたこの映画の「ある男」が受けた差別というのは想像するに余りある。戸籍を変えるという決断をするまでの心の葛藤はいかばかりか。帰化しているものの、在日3世であり、その出自にわだかまりを持っている弁護士の城戸は自分も差別を受ける側にいた人間のために「ある男」の身元調査に没頭してしまう。
あからさまな差別の対象になる事実は隠して生きることもできる。「ある男」はもちろんのこと、城戸も帰化して日本名を名乗るというのは、この世から差別がなくなることはないということがわかっているからである。知らせる必要のないことは知らせなくてもいい、よく男女間ではお互い知らないことが多い方がうまくいくといわれるが、そんなことを知らなければ何の問題もなかったのになぜ知ってしまったのだろうと後悔することはよく起きる。
ラストシーンで城戸が「ある男」の元妻里枝に「ここで過ごした3年数ヶ月が彼にとっての人生のすべて。はじめて幸せだったと思います」と伝えると、里枝は「真実を知る必要はなかった。この町で出会い、愛し合い、いっしょに暮らし、子どもが生まれた。それは事実だから」と答えた。
差別とはその人の本質とは何の関係もない偏見からはじまる。自分を誰かに決めつけられたり、自分自身で決めつけてしまうことで苦しんでいる人にとって、この映画がそのタガを外す役割をすることを願う。
そう単純に善悪分けられるのか?問題
(完全ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
この映画ではたびたび差別主義者のクソみたいな言動が登場します。
例えば、在特会がモデルだろう、在日の人達への露骨な差別を叫び続けているデモの映像などその典型で、見ている観客の私も、相変わらずこいつらはクソだな、と改めて認識されることになります。
また主人公の弁護士である城戸章良(妻夫木聡さん)は在日三世で、城戸の妻の城戸香織(真木よう子さん)の両親や、調査の先で、彼がことあるごとに差別的な言動を受ける場面が出て来ます。
そして観客の私は、本当に彼らはクソな存在だなと感じ、そんな露骨な差別言動をしない自分を正義の側に置いて安心して鑑賞する構図になっています。
しかし、よくよく考えてみると、一方で(極端な在特会をモデルにしたデモの連中はともかく)こんなに露骨に差別の表現を現実で身近な人はするのかな?との疑念もわいてきます。
多くの人々は、潜在的に例えば在日韓国人・朝鮮人の人に対して差別意識があったとしても、(SNSやネットでは別かもですが)露骨に直接当事者や身近な人にそれを伝えることはしません。
また多くの人々は、例え潜在的に差別意識があったとしても、と同時に、相手が必要であるならば手を差し伸べたり同情や共感の感情を持ってもいるのです。
つまり、1人の人間では、差別意識もそれとは逆の共感も、分けることが難しい重層的な感情として内面に持っているということになります。
すると、城戸章良の周りの差別意識を露骨に表現してくる(観客からはクソの存在に思える)人物描写はリアリティが欠けているのではと思えてきます。
そしてその表現は捨て、逆に親切心と同時に潜まれた差別意識の混ざった複雑な人物に城戸章良の周りの描写が変化したとしたら、途端に観客はそれらの登場人物をクソな存在として認識できなくなります。
つまり観客は差別を否定する正義の場所に逃げ込むことが出来なくなるのです。
この映画は本当は、このように正義と差別の悪をきっぱりとは分けずに表現する必要があったのではと思われました。
主人公の弁護士の城戸章良は、谷口里枝(安藤サクラさん)の死んだ夫の谷口大祐(窪田正孝さん)が本当の谷口大祐ではなかったことが判明し、では谷口里枝の夫(ある男X)はいったい誰だったのか?と、谷口里枝から調査を依頼されます。
弁護士の城戸章良は、調査の結果、谷口里枝の夫だった人物(ある男X)が、小林謙吉死刑囚の息子で、母親の姓を名乗っていた元ボクサーの原誠という人物であったことを突き止めます。
そして、死刑囚の息子だった原誠は、死刑囚の息子だった過去から切り離れるために2度の戸籍を変えていたことも分かるのです。
ところでこの映画『ある男』で個人的に一番印象的なシーンが、(死刑囚の息子だった原誠の戸籍変更に手を貸した)今は獄中にいる小見浦憲男(柄本明さん)と主人公の弁護士の城戸章良とが対峙する場面です。
小見浦憲男は、クソみたいな差別言動を城戸章良に浴びせながら、城戸章良もまた獄中にいる自分(小見浦憲男)を見下して差別していると指摘して城戸章良の内面をえぐります。
個人的にはこの場面に真実性があると思われました。
その理由は、在日三世の城戸章良が自身の内面に在日への差別意識が入り込んでいるから在日を隠そうとしているという焦点を小見浦憲男がえぐっているように感じたからです。
さらにそれを超えて同時に、観客の側も、正義である差別への批判をしながら、その内面の奥に差別意識も抱えている、その矛盾を小見浦憲男が言い当てているとも感じたからでした。
個人的には、差別言動をして来た小見浦憲男の、城戸章良との対峙の言葉に感銘すら感じることになりました。
私は、この映画は親切心や差別批判と共に、潜在的に差別意識を持ってしまっている多くの観客を、正義の側に逃がさない表現をする必要があったと思われます。
なので、露骨に正義と悪を分けるてしまう、小見浦憲男以外の登場人物の分かり易い差別表現はさせない方が良かったと思われました。
その点が惜しまれる作品になってしまったとは個人的には思われました。
考えさせる
実際、生きていて犯罪者の子供や、家族だからといって騒がれてる人を見たことが無いし、2世だからといって、差別視する世界観にいたことがないので、いまいち共感出来ないけど、自分ではどうすることも出来ない境遇に生まれ、いろんな差別や、葛藤の中どう生きて行くのか、どう向き合って行くのかは、とても興味深い作品でした。役者さんがみんな凄いので、思わず泣いてしまうシーンもたくさんありました
知らなくてよかった
展開も想定内で淡々と最後までといった感じ。抗えないものもの重さからすれば突拍子もない展開も難しいのかなと。希望は里枝(安藤)や美涼(清野)の変化であり想いだけど、X(窪田)や谷口(仲野)は変えられる過去。城戸(妻夫木)だけは絶対的に変えられない過去であり、知ったことで「知らなくてよかった」と言えた里枝とは正反対になった城戸だけは、何も解決しなくてやるせない。過去にも今にも未来にも背いていかなければならない「ある人」って城戸のことかしら?
名前という呪縛
名前を捨てることの意味とはなんだろう。
男の死により炙り出される人間の暗部、そして人の目の恐ろしさと逃避行が徐々に紐解かれる。
その男が生きてきた人生の中、自分の意思で選択して生きることが出来た数年が彼にとって満たされたものであった事を残された家族が彼を想い訪れた公園でのやり取りが心に静かに沁みわたる。
その人の内実、中身を見るべき
名前、顔、アイデンティティ、変容の問題を取り扱った映画だと感じた。
ある男Xは、殺人者である父親と顔が酷似しており、そんな自分の顔、身体を嫌っているがどこに行っても「殺人者の息子」というレッテルを張られてしまう。自分の外見が嫌いな為ボクシングを始めたが彼の暴力性が褒められ、またレッテルを張られてしまった。自分の師匠や先輩に独白しても、誰も彼自身のことを見てくれなかった。
彼は色眼鏡、偏見の目で見られることなく、自分自身を見てもらうために「変わりたい」と強く願ったのだろう。そして彼はそんな彼自身をしっかりと見てくれる林業会社の人々、妻、家族に出会えた。城戸も作中で発言していたが、長崎での生活は彼にとって充実したものだっただろう。
Xと名前を交換した本物の谷口大祐も、何年たっても心配してくれていた元恋人に出会い涙を流す。この元恋人は、彼のことを見てくれていたからだ。
城戸自身もXのことを追いかけていくうちに、自分のモヤっとした部分を晴らしていったように思える。城戸もまた「在日朝鮮人」というレッテルを張られた人物だったのだ。真木よう子演じる城戸の妻(見ててイライラする)もまた城戸のことを全く見ていなかった。案の定浮気していたし。
映画の最後の場面を見て、非常に面白い構造、ストーリーだなと思った。城戸もまた今までの自分を捨てるために名前を変え、良い人生を送っていたように思える。
この作品で変容のきっかけとなっているのが、名前である。里枝の息子もころころ変わる苗字に困惑していた。自分は何者なのかと。それほど名前はアイデンティティの確立の上で重要なものである。
しかし矛盾してしまうが、名前は単なる記号でしかないこともこの映画は示唆していると思う。里枝は夫の素性が分かっても、自分が愛したこと、彼と過ごした幸せな生活に嘘はない、事実であると物語終盤で述べていた。また実際、「谷口大祐」という名前は、本物からXへ、Xから城戸へ受け継がれている。彼らは同じ名前を持っているが、決して同じ人物ではない。「谷口大祐」という名前は単なる変容のきっかけであり、偏見を持つ人に見せるための飾りでしかないのだ。
機会があったら、小説を読み映画も見直して、大学のレポートなどでもっと考察を深めたいと思う。
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