「そう単純に善悪分けられるのか?問題」ある男 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
そう単純に善悪分けられるのか?問題
(完全ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
この映画ではたびたび差別主義者のクソみたいな言動が登場します。
例えば、在特会がモデルだろう、在日の人達への露骨な差別を叫び続けているデモの映像などその典型で、見ている観客の私も、相変わらずこいつらはクソだな、と改めて認識されることになります。
また主人公の弁護士である城戸章良(妻夫木聡さん)は在日三世で、城戸の妻の城戸香織(真木よう子さん)の両親や、調査の先で、彼がことあるごとに差別的な言動を受ける場面が出て来ます。
そして観客の私は、本当に彼らはクソな存在だなと感じ、そんな露骨な差別言動をしない自分を正義の側に置いて安心して鑑賞する構図になっています。
しかし、よくよく考えてみると、一方で(極端な在特会をモデルにしたデモの連中はともかく)こんなに露骨に差別の表現を現実で身近な人はするのかな?との疑念もわいてきます。
多くの人々は、潜在的に例えば在日韓国人・朝鮮人の人に対して差別意識があったとしても、(SNSやネットでは別かもですが)露骨に直接当事者や身近な人にそれを伝えることはしません。
また多くの人々は、例え潜在的に差別意識があったとしても、と同時に、相手が必要であるならば手を差し伸べたり同情や共感の感情を持ってもいるのです。
つまり、1人の人間では、差別意識もそれとは逆の共感も、分けることが難しい重層的な感情として内面に持っているということになります。
すると、城戸章良の周りの差別意識を露骨に表現してくる(観客からはクソの存在に思える)人物描写はリアリティが欠けているのではと思えてきます。
そしてその表現は捨て、逆に親切心と同時に潜まれた差別意識の混ざった複雑な人物に城戸章良の周りの描写が変化したとしたら、途端に観客はそれらの登場人物をクソな存在として認識できなくなります。
つまり観客は差別を否定する正義の場所に逃げ込むことが出来なくなるのです。
この映画は本当は、このように正義と差別の悪をきっぱりとは分けずに表現する必要があったのではと思われました。
主人公の弁護士の城戸章良は、谷口里枝(安藤サクラさん)の死んだ夫の谷口大祐(窪田正孝さん)が本当の谷口大祐ではなかったことが判明し、では谷口里枝の夫(ある男X)はいったい誰だったのか?と、谷口里枝から調査を依頼されます。
弁護士の城戸章良は、調査の結果、谷口里枝の夫だった人物(ある男X)が、小林謙吉死刑囚の息子で、母親の姓を名乗っていた元ボクサーの原誠という人物であったことを突き止めます。
そして、死刑囚の息子だった原誠は、死刑囚の息子だった過去から切り離れるために2度の戸籍を変えていたことも分かるのです。
ところでこの映画『ある男』で個人的に一番印象的なシーンが、(死刑囚の息子だった原誠の戸籍変更に手を貸した)今は獄中にいる小見浦憲男(柄本明さん)と主人公の弁護士の城戸章良とが対峙する場面です。
小見浦憲男は、クソみたいな差別言動を城戸章良に浴びせながら、城戸章良もまた獄中にいる自分(小見浦憲男)を見下して差別していると指摘して城戸章良の内面をえぐります。
個人的にはこの場面に真実性があると思われました。
その理由は、在日三世の城戸章良が自身の内面に在日への差別意識が入り込んでいるから在日を隠そうとしているという焦点を小見浦憲男がえぐっているように感じたからです。
さらにそれを超えて同時に、観客の側も、正義である差別への批判をしながら、その内面の奥に差別意識も抱えている、その矛盾を小見浦憲男が言い当てているとも感じたからでした。
個人的には、差別言動をして来た小見浦憲男の、城戸章良との対峙の言葉に感銘すら感じることになりました。
私は、この映画は親切心や差別批判と共に、潜在的に差別意識を持ってしまっている多くの観客を、正義の側に逃がさない表現をする必要があったと思われます。
なので、露骨に正義と悪を分けるてしまう、小見浦憲男以外の登場人物の分かり易い差別表現はさせない方が良かったと思われました。
その点が惜しまれる作品になってしまったとは個人的には思われました。