「疑似家族は、やっぱり「疑似」ということだったのか」声もなく talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
疑似家族は、やっぱり「疑似」ということだったのか
卵の移動販売は世を欺く仮の姿で、本業は、犯罪組織の下請けで、犯罪死させられた遺体の「後始末」―。
それでも、いつかはその稼業から足を洗いたいと考えてはいるが、世の中そうは儘(ま)ならない。
結局は、生業として、また次の仕事を引き受けてしまうという自己矛盾から、それでも少しでも「浅瀬」にたどり着こうとして、余計に深みに落ち込んでいってしまう…。
そんな境遇のなかでも(そんな境遇の中だからこそ?)血の繋がりもなく、まったくの偶然から身を寄せ合うことになった者同士の関係性が、突き刺さるように、胸に痛い一本でした。評論子には。
(それは、あくまでも「疑似家族関係」「疑似人間関係」に過ぎないのですけれども。)
犯罪の後始末を引き受けるような社会の底辺にいても…否、そういう底辺にいるからこそ、(自らの当座・当面の生存と安全とを得るために)互いに無意識に求め合う関係性なのでしょう。本当に「声もないような」やりきれない思いを拭えないのは、独り評論子だけではないと思います。
秀作としての評価に、疑いはないと思います。
(追記)
映画作品としては、画面の構図の取り方が特徴的というのか、面白いというのか、そんな一本でもあったとも思います。
平地の中に一本だけ長く延びる道を、登場人物が操るクルマや自転車が一台切りで走る、広い構図の中に建物・人物等がポッンと描写されるなどの、その構図は(それが真昼のシーンであったとしても)、あるいは本作の全編を通底する寂寥感が表現されていたのでしょうか。
まだまだ鑑賞力の乏(とぼ)しい評論子には、しかとは断定しかねるのですけれども、たびたび登場するので、そこには何か監督の意図が仕込まれているとは思います。
いつか、そういうことも感得できるようになると、映画を観る楽しみは倍加することでしょう。
その日(が来ること)を楽しみに。
(追々記)
本作は、以前にいちど劇場で鑑賞してた作品になりますが、レンタルで見かけて再度の鑑賞となりました。
気持ちの奥深くに沈んでいた劇場でのあの感慨が、また改めて浮き上がる思いです。