「ディズニーとの違い」ほんとうのピノッキオ ダンマダミタさんの映画レビュー(感想・評価)
ディズニーとの違い
この映画の目的のひとつは、ディズニーによって作られたピノッキオの誤ったイメージを塗り換え、原作の真の姿を世界に知らしめることであったのは間違いない。ディズニーのピノキオはそれほどまでに原作とかけはなれたものなのだ。原作を知るイタリア人は怒っている。ディズニー映画は子供あいての夜の歌舞伎町、あるいは麻薬のようなもので、現実感覚を失わせる。それに、たいていの場合、何も印象に残らない。
原作のピノッキオはもっと素朴な物語で、忘れがたいイメージがいくつもある。この映画は原作に沿って、どの場面も完璧な絵画のように美しく描き出す。しかも、その絵画は派手なわかりやすいものではなく、かなり渋めで、くせのあるの幻想派絵画なのだ。
この「くせのある幻想性」はこの映画のオリジナルではなく、原作からして既にそうなのである。グリム童話もそうなのだが、そこに漂う妖しい魔術的な雰囲気はどこか理屈を超えている。こういうものを映像で再現するには、歌舞伎町的な色彩感覚では絶対にダメで、かなり高度の美的感覚を必要とする。この映画はそういうものを持った人々によって作られた、相当に贅沢な、通好みの映画なのである。
ところで、この映画には新奇なものは何も出てこない。出てくるのは、何もないような草っ原だったり、使い古した廃墟のような建物だったり、使い古した廃墟のような老人ばっかりだったりする。まるで禅画。わびさびの世界。ところが、これがいい味を出している。ゼペットは今まで一度も結婚しなかったような寂しい爺さんだが、初めて恵まれたピノッキオという家族に全愛情を注ぎこむ。何たる慎ましさ、素朴さ。歌舞伎町の対極だ。「ほんとうの」幸せを見失ったスマホ時代の我々に、まっとうなことを教えてくれるようじゃないか。
老残の詐欺師である、キツネとネコも凄い存在感だ。これも人間なのか、動物なのか、妖怪なのかよくわからない存在だが、原作には、ただ「キツネ」「ネコ」とあるだけで、彼らについては何の説明もない。カタツムリも、原作にはただ「カタツムリ」とあるだけで、何の説明もない。これが映画では、巨大な殻を背負ったお婆さんとして登場する。
青い髪の妖精は、この作品の中では最も神秘的な存在で、初めは妖しげな少女として登場し、後で、大人の女性として登場する。これも何の説明もない。ディズニー映画では、わかりやすい女神様のような存在だが、原作およびこの映画では、そんなわかりやすい存在ではない。ピノッキオが野盗に追われて初めて妖精の館に来て「開けてください」と頼んでも、二階の窓から「ここには死人しかいない。」と言って、開けないのだから。この点でも、この作品がいかに「一筋縄では行かない」ものであるか、わかろうというものだ。
以上、原作およびこの映画がディズニー映画とは全くの別物であり、独特の味わいを持つものであることの一端は示せたのではなかろうか。