死刑にいたる病のレビュー・感想・評価
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顔見知りから知人へ、そして虐殺と洗脳
孤狼の血を最近2作品見てこれも気になっていた。
阿部サダヲの猟奇的な表情、拘置所の中にいるだけなのに塀の外の人物たちを手紙や面会だけで洗脳して思い通りに動かしていく。
Fランク大学に通う大学生、そのF大学に通う中学からの知人女性、幼少から洗脳して自分で決断ができなくなったトラウマを抱えるSEサラリーマン。みんな殺人者の掌で泳がされているようにも見えた。
殺人の目的が分からないなどのレビューもあったが、虐待を受けた幼少期からのゆがんだ成長がそうさせたのだ、と想像させ、それでしか人を信頼しコミュニケーションを取ることができない悲しい殺人者なのだと受け取った。
拘置所で殺人者と面会者の顔が合わさってゆくシーンが何回かあったが、その不気味さ猟奇さ、そしてお互いがお互いを投影しているようで、身震いしそうだった。
この作品もしばらく脳裏に焼き付いてしまいそうだ。
生きてる事に感謝しながら観ました
不快てんこ盛りでした笑
不快だからこそ些細な事に幸せを感じられる。
上映時間が長かった。榛村に苛立ちを覚えてからは映画館が拷問部屋に感じました。
神様の視点で見てるはずの僕も闇堕ちしていた。
明日あたり、拘置所から手紙が届きそう笑
阿部サダヲの狂気と岡田健史の鬱屈。綱渡りを最高に成功させたみたいな作品
観終わってからも数時間、ちょっとした興奮状態が続く。j
それほどの作品であった。
残虐なシーンも多く、心理的に追い詰められるような描写もあるのだが
そういう問題ではない。
それは、まるで観進めていくうちに、
細い木綿の糸と鋭いナイロンのテグスが絡まって、こんがらがって
どうにもこうにも全く解けなってしまうような。
それを解くために時間も忘れてぐちゃぐちゃに固まった糸の絡まりを
痛くなってくる指先でずーーーっとほぐしているような∙∙∙
少し絶望に似たような鬱屈とした世界がジワジワと広がっていく様は、さすが白石監督だと思わされた。
拘置所【榛村(阿部サダヲ)】とこちらの世界【雅也(岡田健史)】を
線引く面会の衝立のアクリルに重なり写る互いの顔の使い方、
無機質で澱んだ空気感に包まれた面会室という密室の狭い世界から
語られ、探られ、想像しては繰り広げられる
歪んだ人間たちが創り出す現実世界の広がりが恐ろしいこと極まりない。
前半で植え付けられる【榛村】の狂気と相反する普遍性に
「ひょっとして∙∙∙」という思いから
後半に回収されるさまざまな
「え?こいつが?!」
「え?まさか∙∙∙あの人も?!」
「あ!アイツなのか?!」
「え∙∙∙そういうことだったのか∙∙∙」
キリがないほど引き込まれ翻弄されるのです。
観終わった後、
なんだかグラグラの綱渡りを見事に大成功で渡り終わったような
意味不明な解放感みたいな気持ち良さが襲ってきた。
そして最後に思うのです。
なるほど。
タイトル通り『死刑にいたる病』だな。と。
素晴らしい作品でした。
全く関係なさそうなことを調べました
劇中主人公の家の玄関正面の書が一瞬映りました。
讃美歌162番
あまつみつかいよ、イエス御名の
ちからをあおぎて、主とあがめよ
と書かれていたような気がしました。あるいは讃美歌164番だったか。時間にすれば1秒?もう一度観ればはっきり確認できるのですが、再び観るのは生理的にも精神的にも辛い映画なので無理です。もし観たとしたなら阿部サダヲ演じる残酷な大量殺人を犯した死刑囚に取り込まれてしまうような気がします。
この讃美歌162番の聖書箇所は次のようなものであるらしいです。
詩篇24章第1節
地とそこに満もの
世界とそこに住むものは、主のもの
詩篇89番2章
主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。
わたしの口は代々に
あなたにまことを告げ知らせます。
黙示録19章16節
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
もうこれを調べている時点で阿部サダヲに取り込まれているのかもしれません。飾られていた書が本当に讃美歌162番なのかどうかわからないのに。そこに深い意味があったかどうかも定かではありません。クリスチャンらしい人は一人も登場しませんから単にロケ用に借りた家に元々飾ってあっただけなのかもしれません。
映画の登場人物のほぼ全員が阿部サダヲに自由に操られていたというのがオチといえばオチ。ただ映画として明快に示されたかというと今ひとつはっきりとしない部分もありました。残酷な表現や描写が多く正視できない場面が多かったです。迂闊なことに三代目 J Soul Brothersの岩田剛典がどこに出ていたのか最後まで気がつきませんでした。
何気ない日常に潜む人間の怖さ
自分は知らない間に他人からコントロールされてるかもしれないし、無意識に自分が他人をコントロールしているかもしれない。この映画は殺人者のことだったが、日常生活の中にも同じようなことが起きている気がして、怖くなった。
楽しめたが足りていない
阿部サダヲさんが演じたのは残酷極まりないサイコパス/シリアルキラー。24件の殺人容疑で逮捕され死刑判決を受けた。
岡田健史くんが演じたのは進学校に合格するも脱落し三流大学で鬱屈した日々を送る大学生。中学生の頃に顔馴染みだった殺人犯に面会し翻弄された。
結構グロいのに重くなり過ぎないのはサダヲさんのキャラのせいかな。二人の心理戦がエンターテイメントとして成立していた。
そう、十分楽しめたのだが、『羊たちの沈黙』や『ハウス・ジャック・ビルト』のように強烈な烙印が押されなかったのも事実。
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思えば2010年の邦画マイベストテンの第2位に置いたデビュー作『ロストパラダイス・イン・トーキョー』で強烈な出会いを果たした白石和彌監督。
それ以降、テンに入れたのは2019年の『凪待ち』のみ。レベルが高い作品群だが自分には足りていない。
「正気の悪」が見えてこない
人心を操り、騙して連れ去り、いたぶり、殺す、それが日常。それが常態。獄中からも弱い人間を嬲る。そんな「生きることが悪」「圧倒的な悪」「正気の悪」が阿部サダヲに見えてこない。なんだかのっぺりしている。隠しても漏れ出る青白い炎を見せてくれ。
面会の仕切り板に二人の顔が重なる演出は、是枝監督の「三度目の殺人」以来多用されるようになってつい最近も他の作品で見た気が。
象徴的なシーンではあるけれども、だからこそ他で見た演出ではちょっとな。
沼に落ちていく
とにかく阿部サダヲをこの役に抜擢した時点で勝負あり。
人当たりがよくすぐに人の懐に入る気のいい隣人のような一面と、狂気性に満ちた異常な連続殺人鬼としての2面性を見事に演じ分けている。
彼がそこにいるだけで場に尋常ならざる緊張感とピンと張り詰めた緊迫感が生まれ、見ているだけで胃がキリキリするような感情に追い込まれていく。そしてその真っ黒な目に我々観客すら吸い込まれてしまう。
勿論その他俳優陣の演技も隙がなく、白石監督独特のディレクションや演出力、トーンを落とした画やじっくりと人物を這い回るようなカメラワークなども光っていたが、作品の中心にいる阿部サダヲの持つ惹きつける力が全体を見事に引き締めている。
今作と同じ白石作品で言えば孤狼の血の役所広司のようにこの人の存在だけで成り立ってしまうと言えてしまうほど。
さながら語りかける病原菌のように人間の理性を貪り懐柔してしまう恐ろしい根幹に説得力を持たせ、観客すら飲み込むような表現力で映画が終わったあとにまでまとわり付く この嫌な感情。
それが反転して快感にも形を変えうる味わいを生み出していた。
最早現代の邦画界で白石和彌ほど人間の暗部をえぐり出せる監督はいないんじゃないかという気がしている。
やっぱり目を背けてしまった、、
気づいたらずっと、浅めの呼吸で観入ってた。
グロいことは、監督さんから覚悟はしていましたが。羊たちの沈黙を思い出してしまう程の金網越しの会話劇は、2人の表情とガラスに映る陰影だったり、看守の様子だったり全てが台本のト書になるべく役割を持っていた。阿部さんは言うまでもなくそのまんまで体現している主人公。予想を超えてきたのは岡田健史くんで表情と顔色や肌色や姿勢、目つきすべてでストーリーが進むごとに変化を見せてくる。彼はイケメンなのに、イケメン役をほとんど観たことないなぁ。最後はなるほど、そうきたか、、隙をつかれた気分でした。
はなびら?
原作がミステリー小説ということもあり、殺人の動機ややり口などの展開は面白く、あっという間の128分だった。
しかし、シリアルキラー(サイコパス)の2面性や異常性・殺人鬼としての葛藤とそれに取り込まれかける単なる大学生の対比構造に、そこまで惹かれるものはなかった印象。
殺人をせずには生きられないシリアルキラーの、内なる罪悪感(のようなもの)との葛藤は、演出や阿部サダヲさんの演技も通り一遍なもので、新しさが感じられなかった。目はすごかったです!
段々と追い込まれ、自身の中に入り込み鬱屈していく岡田健史さんの演技はとても良かったが、ラストシーンで涙する部分の流れに違和感があった。
また、亡くなった胎児を燃やすシーンだが、胎児を映す必要があったのか。なかなか受け入れることができなかった。
阿部サダヲだから
阿部サダヲだから、この主人公の設定にぴったり。
人当たりよく誰にでも好感を持たれる主人公。
悪事がバレてからも、かつての隣人は「助けを求められれば、かくまう」と言うほど、榛村は信頼されていた。
死刑因なのに、憎めない人って映画見てるこっちも思う。残虐なシーンを見てるのに。
榛村は拘置所の中から、言葉だけで何人の元獲物を操り続けているのだろう。
最後のシーンもゾッとする。
この娘もヘンな所あると思っていたよ・・・。
白石節はやや控えめだが、見応えのある作品だ。
個人評価:3.8
サスペンスのストーリーよりも、白石監督が作り出す、空気感や演出に感心。また阿部サダヲの演技には脱帽。新しい殺人鬼像も描けていると感じ、犯人と周囲との関係性の描写も良かった。
白石節はやや控えめだが、見応えのある作品だ。
キャスティングは重要
「刑事施設に収容されている被収容者との面会から事件を振り返る」
このシチュエーションは、映画やドラマで割と定番な設定です。
最近の作品だと例えば、是枝裕和監督の『三度目の殺人(17)』や、堤幸彦監督の『ファーストラヴ(21)』などが思い出されます。
なお、この2作品は「被収容者」は判決が確定していない、いわゆる「未決拘禁者」です。そして、面会者はそれぞれ公的な立場である弁護士、公認心理師であり、刑事裁判を控えて事件の真相を探る(見直す)「必要性」を考慮した面会です。
それに対し、今作は「受刑者(死刑確定者)」との面会という設定です。劇中、岡田さん演じる大学生・筧井雅也は東京拘置所(小菅)にて面会の申込書に「知人(残念ながら、他は確認しきれませんでした)」と記入して提出します。その後、特に何もなかったようにあっさり面会となります。
ちなみに、親族でもなく非弁護士の彼の外部交通(面会・信書の発・受)がこうもすんなり認められるものか?私、やや引っ掛かって鑑賞後に法務省などのサイトで少々調べてみました。結果、よく判らないながら取り敢えず「可能性はあり」そうなのでここは良しとしましょう(笑)。原作未読だし。(参考まで、刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律、120条及び139条)
ここで阿部さん演じる榛村大和から「一つの事件は自分の犯行ではない。真実を見つけてほしい」との頼みを受け、榛村の事件を振り返っていきます。
ちなみにこの映画、レイティングはPG12となっていますが、大和の犯す殺人は「拷問」であり、その振り返り映像はゴアを超えて「グロ表現の連発」です。苦手な方はご注意ください。
ただ、このことこそが雅也を事件にのめり込ませ、更には観ている我々をも深く引き付ける重要な演出です。「(残虐な)殺人シーン」と「面会室(という特殊な空間)」を交互に見せつつ、アクリル板に反射して映り込む二人の姿を並べたり、重ねたりすることで、雅也の心理を表現していきます。更にはクリアではなく敢えて僅かにアクリル板越しに反響するお互いの声を観客に聴かせることで、現実的な感覚を惑わせるトリックが利いているように感じます。
少々残念なのは、出演者の何名か(敢えて名前を伏せますが)の演技がイマイチなところ。。。ヘビーな内容だけにむしろ下手さが目立ち、観ながら代役を考えたくなりました(苦笑)。まぁ、それは冗談半分としても、こういうところで勢いみたいなものをそがれると、ついついリアリティラインだとか細かい部分に目が行ってしまうものです。更には、勿体ない(そう思わせるだけのことはある)ことにオチすら蛇足に見えてしまったり。。。
やはりキャスティングは重要です。
榛原の目がずっと怖かった
面白い映画って言うのがはばかられるようなサイコパスの世界!
危うく観てる私まで心を操られそうになったw
阿部サダヲさん演じる、サイコキラー榛原大和がとても魅力的な演技で、この人ホントにサイコパスなんじゃないかと思っちゃいました!
榛原の幼少期とか、本当の家族とかの背景をもっと知りたかったけど、ベールに包まれたまま終わってしまった。
グロいシーンは見てられなかったけど、見ごたえのある映画でした。
しばらくは素敵な笑顔を見ても信用できない気がしますw
被害者は何人?
24人目は冤罪って言っても殺害に絡んでるのは確か。そして岡田健史は最後の(逃げた人や岩田剛典らを入れるなら何人目?)の被害者みたいなものだな。
あの弁護士事務所大丈夫なの。学生バイトにあっさりデータ盗まれて。
静の邦画のお手本
いい映画でした。役者さんは終始感情を抑える演技で大変だったと思う。
そのおかげで、どんどん作品の世界に引き込まれました。
邦画サスペンスは洋画の様に絶叫したり、派手に殺害したりしないから、じっくり見られるのがいい。
主役のあべさんの話術はほんとに見事でした。
考えるほどに難解さが増してくる不思議な作品
阿部サダヲを見ると大島渚監督の映画「愛のコリーダ」を思い出し、どうしてこんな芸名を付けたのだろうと訝る。しかしすぐに忘れてしまい、次に阿部サダヲを見ると、また同じことを思うのである。因果な名前だが、忘れ難い名前でもある。
名前といえば岡田健史が演じた筧井雅也の名字は珍しい。普通、筧は一文字で「かけい」と読む。更に井をつけると「かけいい」になる訳で、それを強引に「かけい」と読ませる。こんな名字があるのかという疑問がずっと頭から消えない。
さて本作品はそのタイトルでほとんどの人が、哲学者のキルケゴールの著書「死に至る病」を思い浮かべると思う。そしてルサンチマンという概念を思い出す。犯人はどのような自尊心があり、どのようなルサンチマンによって犯行を犯したのか。
テーマが壮大な割には、物語の牽引力が弱い気がした。狂言回しが阿部サダヲ演じる榛原大和ではなく、岡田健史の筧井雅也(マーくん)にしてしまったから、榛原のルサンチマンを掘り下げるのではなく、榛原の心の闇に触れたという体になってしまった。
起訴されたうちの9番目の殺人事件の犯人探しという一点だけでは、映画に対する興味を持続するのは難しい。榛原の告白は説明的に過ぎて、実感が伴わない。榛原のルサンチマンが伝わってこないのだ。
ルサンチマンは怒りであり、憎悪である。しかしシリアルキラーの動機は概ね快楽殺人だ。明らかに矛盾している。本作品にルサンチマンは無関係なのか。キルケゴールの死に至る病とは絶望のことだ。人は未来に何の希望も持てなくなると容易に死を選ぶ。
太宰治は、夏に着る着物をもらったから、夏まで生きていようと思った、と書いた。もらった着物をその季節に着るのは、ひとつの希望である。何かを希望と思うことが希望なのだ。明日の晩の会食が楽しみであれば、人は簡単には死なない。未来の予定を楽しみに思わないことを絶望と呼ぶ。
どうやら、本作品はキルケゴールをだしに使って、快楽殺人者の異常心理を死刑に至る病として描いているようだ。榛原の様子は希望に満ちている。死に至る病が絶望なら、死刑に至る病は希望なのだ。榛原の希望は死刑台にある。
しかしたったひとつ、やり残したことがある。それはマーくんを操ることだ。それが榛原の希望であり、本作品で紹介されたのは死刑に至る病のひとつの事例なのだ。そう考えるとようやく、タイトルと中身の整合性が取れる。随分ややこしい話だ。
榛原は恐らく躁病だ。鬱病ばかりが問題にされる現代だが、躁病の患者もたしかにいる。そして積極的に社会に出るから病気だと思われていない。アベシンゾウの自己愛性人格障害は有名だが、プーチンもトランプも、病気としか思えない非常識ぶりである。
榛原は一般庶民だから死刑になるが、政治家だったり大金持ちだったりすると、他人を追い詰めて人生を台無しにしても罪に問われない。国民を不幸にしても逮捕されないのだ。榛原の存在をそういう国家主義の連中の象徴として見るなら、更に奥深い作品となる。考えるほどに難解さが増してくる不思議な作品だ。
全550件中、381~400件目を表示